作品タイトル不明
完結後番外編六 北境の夏祭り
北境の夏は短い。
雪解けの後に花が咲き、草が伸び、子どもたちが外で走り回るようになる。けれど、その季節はすぐに過ぎる。だから北境の人々は、夏の祭りにやたらと力を入れる。
今年の祭りでは、名前の家が一つの屋台を出すことになった。
「名札屋台?」
テオドールが確認した。
「はい。子ども用の簡易名札をその場で作ります。迷子防止にもなりますし、保護名制度の周知にもなります」
「祭りで仕事をするのか」
「祭りだからこそです」
リネリアは横で大きくうなずいた。
「リネもやる」
「あなたは遊ぶ時間も取りなさい」
「名札を作ってから遊ぶ」
その言い方があまりにも私に似ていて、テオドールが笑いをこらえた。
祭り当日、名前の家の屋台は予想以上に賑わった。
理由の一つは、マリベルが用意した焼き菓子だった。名札相談だけでは子どもが来ないからと、彼女は蜂蜜入りの小さな菓子を籠に詰めた。結果、子どもたちは菓子を目当てに来て、親たちはついでに名札を頼む。
「これでは菓子屋台です」
私が言うと、マリベルは胸を張った。
「人を呼ぶには胃袋です」
正論だった。
リネリアは屋台の前で、子どもたちに糸の色を選ばせていた。
「赤がいい? 青もあるよ。字がまだ書けない子は、好きな印も入れられるよ」
隣ではノルが、小さな金具を取り付けている。鍛冶屋で覚えた技術を使い、布名札を外套や鞄につけやすくしてくれた。リン・エイルは迷子受付を担当し、鈴を鳴らして合図する。
その鈴の音は、祭りの喧騒の中で不思議とよく通った。
最初の迷子は、開始から半刻も経たないうちに来た。
泣いている男の子だった。手には木剣を握り、顔には蜂蜜菓子の粉がついている。
「名前は?」
リンが膝を折って尋ねた。
男の子は泣きながら言った。
「ぼく、つよいきし」
「強い騎士様ですね。お家で呼ばれるお名前は?」
「つよいきし!」
リネリアが真剣にうなずいた。
「強い騎士様は、迷子になっても泣いていいんだよ」
「泣いてない!」
「じゃあ、目から水が出てる強い騎士様」
男の子は一瞬泣き止み、怒るか迷い、それからまた泣いた。
結局、木剣の柄に縫いつけられた小さな布から、名前が分かった。
トマ。
名札は偉大である。
母親が走ってきて、トマを抱きしめた。トマは泣いていないと言い張り、リネリアは「強い騎士様だからね」と真顔で同意した。
午後には、名札屋台の前に列ができた。
単なる迷子対策だけではなかった。
祭りの空気の中で、人は普段言いにくい相談を口にしやすくなる。
「再婚相手の連れ子の名札も、同じ布で作っていいでしょうか」
「娘が男の子みたいな愛称を好むんですが、正式な場で困りますか」
「亡くなった祖父と同じ名をつけたら、祖母が毎回泣いてしまって」
「双子の印を別々にしたいのに、親戚が揃えろとうるさいんです」
相談の種類は様々だった。
私は一つずつ答えた。
同じ布で作ってもいい。ただし、それぞれの子が自分の印を選べるようにする。
愛称は本人が安心するなら残す。正式名と使い分ける。
祖父の名を継ぐことは悪くないが、子ども本人の呼び名を確保する。
双子は揃える楽しさもあるが、区別される安心も必要だ。
同じ答えはない。
だから、同じ展開にもならない。
名前の問題は、家ごとに違う。
夕方、屋台の前に小さな騒ぎが起きた。
若い父親が、娘の名札を作り直してほしいと怒っている。
「妻が勝手に、変な印を入れたんだ。うちの家紋を入れるべきだろう」
名札には、小さな魚の印が縫われていた。
娘は三歳くらいで、父親の後ろに隠れている。母親は困った顔で言った。
「この子、魚が好きで……」
「家紋より魚を選ぶなど、子どものわがままだ」
リネリアが、父親を見上げた。
「魚、だめなの?」
「だめではないが、家の印のほうが立派だ」
「でも、この子、魚なら自分のって分かるよ」
父親は言葉に詰まった。
リネリアは娘に視線を合わせる。
「お名前は?」
女の子は小さく言った。
「ネア」
「ネア様。魚、好き?」
ネアはうなずいた。
「おさかな、ぴかぴか」
「じゃあ、魚は大事」
リネリアは父親を見た。
「家紋も入れたいなら、裏に入れたら? 表はネア様が分かる魚。裏はお父さまが分かる家紋」
父親は、十一歳の少女に説得されていることに気づき、少し赤くなった。
「……裏に入れられるのか」
「入れられます」
私が答えると、母親がほっとした。
ネアは名札を握りしめた。
「おさかな、いる?」
「いるわ」
私は笑った。
「魚も家紋も、どちらも残しましょう」
夕暮れ、祭りの広場に灯りがともった。
名前の家の屋台は、布も糸もほとんど使い切っていた。マリベルの焼き菓子は昼過ぎには完売し、パン屋が追加を届けてくれた。ノルは金具を作りすぎて手が痛いと言い、リン・エイルは迷子受付の記録を丁寧にまとめている。
リネリアは、ようやく遊びに行くことになった。
「おかあさまも来て」
「片づけが」
「少しだけ」
テオドールが私の肩に手を置いた。
「片づけは私が見る。行っておいで」
「でも」
「祭りで仕事だけをするなと、あなたが娘に言った」
自分の言葉を返されると弱い。
私はリネリアに手を引かれ、広場へ向かった。
輪投げ、紙灯籠、焼き林檎、踊りの輪。北境の短い夏が、夜の中で明るく燃えている。
リネリアは紙灯籠に自分の名を書いた。
リネリア。
そして、私に筆を渡す。
「おかあさまも」
私は灯籠の反対側に書いた。
エレノア。
少し迷って、下にもう一つ足す。
グランヴィル。
リネリアがそれを見て笑った。
「おかあさま、増えたね」
「ええ。増えたわ」
名前を失うためではなく、暮らしが増えるために名が増える。
空へ灯籠が上がる。
リネリアの名と私の名が、短い夏の夜に浮かんだ。
遠くでテオドールがこちらを見ている。屋台の灯りの中、彼の横にはノル、リン、マリベル、アンナ、名前の家の子どもたちがいる。
同じ顔ぶれでも、毎日違う。
泣く日も、笑う日も、怒る日も、名札を縫う日も、祭りで魚の印を守る日もある。
それが暮らしだ。
リネリアが私の手を握った。
「おかあさま、来年もやる?」
「名札屋台?」
「うん。あと、焼き菓子も」
「マリベルに頼みましょう」
「あと、遊ぶ時間も最初から書く」
「予定表に?」
「うん。仕事だけだと、おかあさまが忘れるから」
私は返す言葉がなかった。
娘はよく見ている。
「では、来年の予定表には、遊ぶ時間を最初から縫いつけましょう」
「紙に書くんじゃなくて?」
「縫いつければ、忘れません」
リネリアは声を立てて笑った。
祭りの灯りが、娘の名前を照らしている。
私はその横顔を見ながら思った。
守るだけでは足りない。
子どもは、守られた先で遊び、怒り、選び、誰かに言い返し、魚の印を残す。
名前の家が目指すのは、そういう場所なのだ。