作品タイトル不明
完結後番外編五 王妃の小さな裁縫箱
王妃陛下からの招待状は、淡い灰色の封蝋で届いた。
封蝋には王家の紋章ではなく、小さな針と糸巻きが押されている。公務の文書ではないという意味だろう。とはいえ、王妃からの招待であることに変わりはない。
アンナは封筒を見た瞬間、姿勢を正した。
「奥様。礼服の確認を」
「今回は名綴り講座の打ち合わせです。動きやすい服で」
「王妃陛下の前で動きやすさを優先するのは、奥様くらいです」
「針を持つのに袖が重いと危ないでしょう」
アンナは深くため息をついた。
「では、動きやすく、かつ王宮で恥をかかない服をこちらで選びます」
そういうときのアンナは頼もしい。
王宮へ向かう馬車の中で、テオドールは何度も書類を確認していた。名綴り制度改革案、保護名申請の簡略化、白紙名被害者の支援予算、地方分室の運営費。彼の膝の上は紙で埋まっている。
「あなたが王妃陛下に呼ばれたのに、私のほうが緊張している」
「北境伯が緊張なさるのですか」
「王宮の会議は、雪崩より読みにくい」
「雪崩のほうが危険です」
「だが、雪崩は少なくとも自分が雪崩だと隠さない」
私は笑った。
王宮の奥にある小さな客間で、王妃陛下は待っていた。
豪奢な謁見室ではない。窓の近くに丸い机があり、その上に裁縫箱が置かれている。王妃の侍女が二人、壁際で控えていた。
「ようこそ、エレノア夫人。グランヴィル卿」
王妃陛下は、私たちを椅子へ促した。
公的な場ではないとはいえ、相手は王妃である。私は礼を取り、慎重に座った。
「本日は、母親向けの講座についてご相談と伺っております」
「ええ。ただ、その前に見ていただきたいものがあります」
王妃は裁縫箱を開けた。
中には、古い名札布が入っていた。王族の持ち物としては質素すぎる布だ。端は擦り切れ、文字も薄くなっている。
リーナ。
そう縫われていた。
「これは?」
「私の幼い頃の愛称です」
王妃は、少しだけ懐かしそうに布を撫でた。
「王太子妃になると決まったとき、実家の侍女が、もうリーナ様とはお呼びできませんねと言いました。もちろん、礼法としては正しいのです。私は王太子妃となり、やがて王妃となる者でしたから」
私は黙って聞いた。
「でも、その日から、私は少しずつ返事が遅くなりました。正式な名で呼ばれるのが嫌だったわけではありません。ただ、リーナと呼ばれていた頃の自分が、どこかに置き去りにされたようで」
王妃の声は穏やかだった。
だが、そこには長くしまわれていた痛みがあった。
「王妃陛下」
「今さら誰かにリーナと呼んでほしいわけではありません。でも、子どもの名を制度として扱うとき、私たちは正式名ばかりを見てしまう。愛称、家の中の呼び名、本人が安心する音。それらを制度の外に置きすぎたのではないかと思うのです」
私は名札布を見た。
リーナ。
薄くなった糸の向こうに、幼い少女の影がある。
「王妃陛下は、その布を残しておられたのですね」
「捨てられませんでした」
「捨てなかったことは、制度改革に必要な感覚だと思います」
王妃は目を細めた。
「感覚、ですか」
「はい。登録簿だけを見ていると、名前は行政の項目になります。けれど布に縫われた名前を見ると、その子を呼んだ人の手が見える。制度には、その手の記憶を邪魔しない設計が必要です」
テオドールが頷いた。
「北境の保護名制度でも、正式登録と生活名を併記する案を出しています。軍の孤児名簿では、愛称の欠落が身元確認の遅れにつながった例があります」
王妃は書類を手に取った。
「その案を、王都の貴族院が反対しています」
「家名の管理が複雑になるからですか」
「表向きはそうです。本音は、子ども自身の呼び名を認めると、家長の権限が弱まるからでしょう」
私は小さく息を吐いた。
名を守る戦いは、家庭の中だけでは終わらない。
家長が子どもの名を決める。
家が子どもの役割を決める。
その古い秩序は、あちこちに根を張っている。
「そこで、講座です」
王妃は裁縫箱を閉じた。
「貴族院で正面から争う前に、母親、父親、後見人たちへ、名札の意味を広めたい。家長の権限を奪うのではなく、子どもの安全を守るためだと理解してもらう必要があります。エレノア夫人、王宮で最初の公開講座を開いてください」
アンナがいれば、ここで私の背中を押しただろう。
私は少し考えた。
「条件があります」
王妃の侍女がわずかに眉を動かした。王妃は面白そうに微笑む。
「聞きましょう」
「講座は、貴族女性だけに限定しないでください。父親、乳母、侍女、家庭教師、下働きでも、子どもの衣類に名前を書く者は参加できるようにしてください」
「王宮の講座に下働きまで?」
侍女の一人が思わず声を漏らした。
王妃が視線だけで制する。
私は続けた。
「子どもの名を実際に縫うのは、家の中で一番身分の高い者とは限りません。制度を変えるなら、手を動かす人を外してはいけません」
王妃は深くうなずいた。
「よろしい。では、王宮の大広間ではなく、北棟の作業室を使いましょう。格式は下がりますが、針を持つには向いています」
「もう一つ」
「どうぞ」
「講座の冒頭で、王妃陛下の名札布を見せていただけますか」
部屋が静かになった。
テオドールも私を見る。
王妃は、裁縫箱に手を置いた。
「リーナの布を?」
「はい。子どもに名前があるという話は、平民や孤児だけの問題ではありません。王妃陛下にも幼い呼び名があり、それを大切にしていると示せば、貴族たちは逃げにくくなります」
大胆すぎる提案だとは分かっていた。
けれど、王妃は怒らなかった。
しばらく布を見つめ、やがて笑った。
「エレノア夫人。あなたは本当に、針で急所を突きますね」
「縫い目を外すと布が裂けますので」
王妃は声を立てて笑った。
「いいでしょう。見せます。ただし、泣いた貴族夫人たちの対応はあなたに任せます」
「お茶を多めに用意します」
講座は一か月後に開かれた。
王宮北棟の作業室に、予想を超える人が集まった。貴族夫人、若い父親、乳母、侍女、王宮の下働き、名簿局の若手官吏。部屋の後ろには、反対派の貴族院議員も数名立っていた。
王妃は冒頭で、リーナの名札布を見せた。
「これは、私が王妃になる前の名です」
その一言で、部屋の空気が変わった。
誰もが、王妃にも幼い名があったことを思い出した。
私は講座を始めた。
「今日は、制度の話をする前に、布に名前を縫います」
貴族院議員の一人が不満そうに言った。
「我々は法案の説明を聞きに来たのだが」
「法案の対象が何かを、先に手で確認していただきます」
彼は黙った。
針を持たせると、人は急に謙虚になる。
美しい家名を語っていた男が、孫の名の二文字目で糸を絡ませた。乳母がそれを直し、侍女が布を押さえた。身分が一時的にほどけ、子どもの名をどう縫うかだけが目の前に残る。
それは小さな革命だった。
講座の終わり、王妃は反対派の議員へ尋ねた。
「卿のお孫様のお名前は?」
議員は、絡んだ糸を隠すように布を握った。
「……マティアスです」
「愛称は?」
「マットと、家では」
「では、その愛称も登録補助欄に残せる制度が、なぜ危険なのでしょう」
議員は答えられなかった。
制度改革は、その日すぐに通ったわけではない。
だが、反対の声は弱まった。
王妃のリーナの布と、議員の歪んだマットの布は、法律の条文より強い説得力を持っていた。
帰りの馬車で、私は疲れて背もたれに沈んだ。
テオドールが水筒を差し出す。
「お疲れ様」
「針を持たせると、人は静かになりますね」
「貴族院で毎回配るか」
「本当に配りましょうか」
彼は少し考えた。
「あなたならやりかねない」
私は笑った。
膝の上には、王妃から託された写し布がある。
リーナ。
その名は王妃のものだ。
王妃という役割の下にも、幼い頃の音が残っている。
名を守る制度は、そういう小さな音を消さないためにある。
私は写し布を裁縫箱へしまった。
また一つ、帰る名が増えた。