作品タイトル不明
完結後番外編四 リン・エイルの鈴
リン・エイルは、鈴を外すのが嫌いだった。
昔は逆だった。
白紙の聖女候補と呼ばれていた頃、彼女の足首には銀の鈴がつけられていた。歩けば音が鳴る。逃げれば音で分かる。眠っていても、寝返りで微かな音がする。あれは飾りではなく、監視の道具だった。
だから名前の家に来たばかりの頃、リンは鈴の音を聞くだけで息が詰まった。
けれど、エレノアは鈴を捨てろとは言わなかった。
「捨てるか、残すか、作り替えるか。決めるのはリン・エイルです」
そう言って、古い鈴を布の上に置いた。
リンは三日考えた。
四日目に、ノルへ頼んだ。
「音を変えてほしい」
ノルは鍛冶屋の親方に相談し、鈴の中の小さな玉を別の金属に替えた。音は高く鋭いものから、少し低く、柔らかいものになった。
ちりん、ではなく、りん。
自分の名の最初の音に似ている。
それからリン・エイルは、鈴を嫌いではなくなった。
ただ、外すのはまだ苦手だった。
王都で白紙名の裁判が終わって半年。名前の家には、同じように白い布を持たされていた子どもたちが少しずつ来るようになった。全員がリンのように鈴をつけていたわけではない。鈴、首紐、白い腕帯、無地の帽子。形は違うが、意味は同じだった。
呼び名を与えないまま、役割だけを与える。
聖女候補。
供物。
清い子。
特別な子。
どれも名前のように聞こえるが、名前ではない。
リンは、その違いを誰よりも知っていた。
ある冬の日、エレノアがリンの部屋を訪ねた。
「王都分室から相談が来ています」
リンは窓辺で布を畳んでいた。雪が降る前の空は灰色で、遠くの森が静かに沈んでいる。
「白紙の子ですか」
「ええ。十三歳の少女。自分で名前を選ぶことを拒んでいるそうです」
「拒む?」
「名前を持ったら、普通の子になってしまうから嫌だと」
リンは手を止めた。
普通の子。
その言葉は、白紙の子にとって複雑だ。
特別だと言われて閉じ込められた。けれど、その特別さを失うと、自分には何も残らないように感じる。リンにも覚えがあった。
「私に会えと?」
「無理にとは言いません。ただ、その子がリン・エイルの話を聞きたいと」
「私の話」
「白紙だった人が、今どうしているか」
リンは窓の外を見た。
鈴が足首で小さく鳴った。
「私は、うまく話せません」
「うまく話す必要はありません」
「泣くかもしれません」
「泣いてもいいです」
「怒るかもしれません」
「怒ってもいいです。ただし、相手の名前を奪わない怒り方で」
その言い方がエレノアらしくて、リンは少し笑った。
「会います」
王都分室から来た少女は、リリカと仮に呼ばれていた。
仮名である。
本人が本名を決めていないため、相談票には「リリカ仮」と書かれていた。本人はその仮名も嫌がり、ただの「候補」と呼ばれることを好んだ。
リンは、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が硬くなった。
候補。
名前ではない。
役割でもない。
誰かのために空けられた席のような言葉だ。
面会は名前の家の小さな談話室で行われた。リリカは細い少女だった。髪を短く切り、首には白い布を巻いている。布には何も書かれていない。
彼女はリンを見るなり言った。
「あなたは、鈴を残したんですね」
「残した」
「どうして。嫌じゃないんですか」
「嫌だった」
「じゃあ捨てればよかったのに」
鋭い声だった。
エレノアは口を挟まなかった。部屋の隅でお茶を用意し、二人の距離を見守っている。
リンは椅子に座った。
「捨てたら、鈴を嫌いなままで終わると思った」
「嫌いでいいじゃないですか」
「それでもよかった。でも、私は、あの音を自分のものにしたかった」
リリカは眉を寄せた。
「意味が分かりません」
「私にも、最初は分からなかった」
リンは足首の鈴に触れた。
「昔の鈴は、私が逃げないための音だった。今の鈴は、私がここにいると知らせる音。中の玉を替えて、紐も替えた。つける日も、外す日も、自分で決める」
「それだけで変わるんですか」
「全部は変わらない」
リンは正直に答えた。
「怖い日は、今も怖い。音で昔を思い出す日もある。でも、同じ鈴ではない」
リリカは黙った。
お茶の湯気が、二人の間で揺れる。
「名前も同じですか」
リリカが聞いた。
「何が」
「選べば、昔が変わりますか」
「変わらない」
「じゃあ、いらない」
即答だった。
リンは、その答えを否定しなかった。
「昔は変わらない。でも、呼ばれたときに返事をする場所は変わる」
「返事なんて、したくない」
「しなくてもいい」
「名前があったら、返事しろって言われる」
「誰の声にも返事する必要はない」
リリカが初めて、少しだけ驚いた顔をした。
リンは続けた。
「名前は、呼ばれたら従うためのものではない。呼ぶ相手を選ぶためにもある」
「選ぶ?」
「嫌な相手が昔の名で呼んだら、返事しなくていい。役割名で呼んだら、違うと言える。自分の名を知っていれば、それは私ではないと言える」
リリカは首の白い布を握った。
「それは、強い人の話です」
「弱くても使える」
「あなたは強い」
「違う」
リンはすぐに首を振った。
「私は怖がりです。今も、戸口に背を向けるのが苦手。人が後ろから近づくと、息が止まる。夜、鈴が鳴ると眠れないこともある」
「じゃあ、どうしてそんなふうに座っていられるんですか」
「名前の家で、毎日、私の名を呼んでもらったから」
リリカの目が揺れた。
「毎日?」
「朝、エレノア様がリン・エイルと呼ぶ。リネリアがリン姉さまと呼ぶ。ノルがリンと呼ぶ。マリベルがリン・エイル、布を畳みなさいと呼ぶ」
最後の例に、エレノアが少し笑った。
リンも微かに笑った。
「呼ばれるたびに、私は候補ではなく、リン・エイルになる。毎日少しずつ」
リリカは白い布を見下ろした。
「わたしは、特別じゃなくなるのが怖い」
初めて、声が小さくなった。
「白い子だって言われていたときは、怖かったけど、皆がわたしを見た。名前を持ったら、誰も見なくなるかもしれない」
リンはその言葉を聞き、胸が痛くなった。
白紙の子は、見られていた。
ただし、人としてではない。役割として、道具として、噂として。それでも、見られることに慣れてしまうと、見られなくなることが怖くなる。
「名前を持つと、全員には見られないかもしれない」
リンは言った。
「でも、あなたを見てほしい人に、見つけてもらいやすくなる」
「そんな人、いない」
「今はいなくてもいい」
「じゃあ何のために」
「未来で迷子にならないため」
エレノアが、静かにリンを見た。
それは、彼女がよく言う言葉だった。
名前は、世界で迷子にならないための目印。
リンはその言葉を借りた。ただ借りるだけではなく、自分の傷を通して言い直した。
「名前は、今すぐ誰かに見つけてもらうためだけじゃない。十年後の自分が、昔の自分を見捨てないためにもある」
リリカは泣かなかった。
ただ、白い布を握る手が震えた。
「名前を選ぶの、怖い」
「怖いなら、仮名でいい」
「仮名は嘘です」
「嘘ではなく、橋です」
リンは、自分でもその言葉に驚いた。
仮名は橋。
渡ってもいいし、途中で戻ってもいい。別の橋を探してもいい。
「リリカ仮が嫌なら、別の仮名を探せばいい。何も選ばないことを選ぶ日があってもいい。でも、候補とだけ呼ばれる場所へ戻る必要はない」
リリカは長く黙った。
やがて、小さな声で言った。
「鈴」
「え?」
「鈴の音が、嫌いでした。でも、あなたの鈴は少し違う」
「うん」
「わたしも、音の名前がいい」
リンは待った。
急かしてはいけない。
リリカは、白い布をほどいた。首に巻かれていた布が膝に落ちる。
「カナ」
短い音だった。
「仮名です。まだ、本当か分からない。でも、候補よりは、まし」
リンはうなずいた。
「カナ」
呼ぶと、少女の肩が震えた。
返事はなかった。
それでよかった。
名前は、最初から返事を強制するものではない。
その夜、リンは自分の部屋で鈴を外した。
珍しいことだった。
外した鈴を机に置き、白い布を一枚広げる。そこに、今日の記録を書いた。
カナ。
仮名。橋。
候補ではない。
書き終えると、リンはしばらくその文字を見つめた。
昔の鈴は消えない。
白紙だった日々も消えない。
けれど、その上に新しい音を重ねることはできる。
翌朝、リンは鈴をつけ直した。
ちりん、ではなく、りん。
廊下でリネリアが振り返る。
「リン姉さま、おはよう」
リンは答えた。
「おはよう、リネリア」
その返事は、今日も彼女をここに連れ戻した。