作品タイトル不明
完結後番外編二 黒パンの名前
黒パンが子どもを産んだ。
それは北境の名前の家にとって、春の雪解けより大きな事件だった。
黒パンは、ノルが拾った黒猫である。最初に見つけたとき、焼きたての黒パンみたいに丸まっていたから黒パン。名前としては安直だが、本人、つまり猫はたいへん気に入っているようだった。少なくとも、黒パンと呼ばれると尻尾を立てて返事をする。
その黒パンが、洗濯小屋の古い籠の中で四匹の子猫を産んだ。
朝一番に発見したのはリネリアだった。
「おかあさま、黒パンがふえた!」
寝室の扉を叩きながらそう叫ばれたとき、私は一瞬、黒パンの切れ端を焼きすぎたのかと思った。
隣でテオドールが目を開ける。
「猫だな」
「猫ですね」
夫婦になってから、私たちは朝の混乱に少しだけ慣れた。北境の朝は、たいてい何かが増える。雪、仕事、子どもの相談、そして今回は猫だった。
洗濯小屋には、すでに人だかりができていた。
ノルが籠の前に膝をつき、真剣な顔で黒パンを見守っている。リン・エイルは子猫の数を数え、マリベルは「洗濯物に毛がつく」と言いながら毛布を温めていた。リネリアは興奮のあまり、片方の靴下がずれている。
黒パンは母猫らしく、子猫たちを腹の下へ抱え込んでいた。
子猫は四匹。
黒い子、灰色の子、白い足袋を履いた黒い子、そして耳だけ白い子。
「名前をつけなきゃ」
リネリアが言った。
ノルがすぐに首を振る。
「まだ早い」
「どうして?」
「黒パンが決めるかもしれない」
リネリアは真剣に黒パンを見た。
「黒パン、決める?」
黒パンは、返事の代わりに子猫を舐めた。
リン・エイルが鈴を鳴らさないように指で押さえながら言った。
「猫は人の名前とは違う。けれど、呼びすぎるとその音に寄ってくる。寄ってくる音は、責任になる」
リネリアは少し考えた。
「じゃあ、ちゃんと責任を持つ」
「子猫四匹の責任?」
テオドールが尋ねると、リネリアは目を泳がせた。
「四匹は、ちょっと多い」
北境の子どもたちが笑った。
ノルは笑わなかった。
彼は、黒パンの籠の横に座り続けている。鍛冶屋の見習いになってから、ノルは手が大きくなった。黒く煤けた爪を気にして、子猫には触らないようにしている。
「ノル」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「黒パンのために、しばらく洗濯小屋の隅を貸しましょう。けれど、人の出入りが多いから、落ち着いた場所も必要ね」
「鍛冶場は熱いからだめです」
「そうね」
「名前の家の物置なら、風が入らない」
「それなら掃除が必要です」
「します」
即答だった。
ノルにとって、黒パンはただの猫ではない。自分がこの家で最初に拾い、最初に名をつけた存在だ。黒パンと呼べば戻ってくる。その経験が、彼にとってどれほど大事か、私は知っている。
名を奪われかけた子が、誰かに名を与える。
それは、小さな回復だった。
その日の午後、名前の家では子猫命名会議が開かれた。
参加者は多すぎた。
リネリア、ノル、リン・エイル、エリス、マリベル、保護院の年長組、鍛冶屋の親方、なぜかパン屋の妻まで来た。パン屋の妻は「黒パンの子なら、うちにも権利がある」と主張したが、マリベルに「ありません」と即答された。
テオドールは遠巻きに見ている。
「参加しないのですか」
私が尋ねると、彼は真面目に言った。
「名付けの会議は、国境交渉より難しい」
「逃げましたね」
「戦略的後退だ」
私は笑った。
会議は予想どおり混乱した。
黒い子には「丸焦げ」「夜」「煤」「二代目黒パン」「パンくず」などの案が出た。灰色の子には「灰」「雲」「石」「おばあちゃんの靴下」。白い足袋の子には「足袋」「白足」「靴下」「お嬢」。耳だけ白い子には「耳雪」「白耳」「聞き耳」「片雪」。
子どもたちは真剣だった。
真剣すぎて、だんだん険悪になった。
「二代目黒パンはだめ」
ノルが低い声で言った。
「どうして?」
「黒パンは黒パンだから」
リネリアが首を傾げる。
「でも子どもだよ」
「子どもでも、別の猫だ」
その言葉に、部屋が静かになった。
ノルは視線を落とした。
「親の名前を、子どもにそのままかぶせるのは、違うと思う」
エリスが、そっとうなずいた。
彼女は白紙名の子だった。誰かの都合で名前を持たされず、白い布のまま置かれていた過去がある。
「同じに見えても、違う」
エリスが言った。
「白い耳の子は、黒パンではない」
「うん」
リネリアも、まっすぐ座り直した。
「じゃあ、黒パンの子どもだけど、黒パンじゃない名前にする」
そこで会議は一段落した。
私は黒板に線を引き、提案した。
「では、三日間は仮名にしましょう。性格を見てから決めるのはどうかしら」
パン屋の妻が手を叩いた。
「それがいいよ。うちの次男も、生まれて三日は顔が祖父に似てたけど、今は完全に父親だもの」
その例えが良いのか悪いのかは分からなかったが、皆は納得した。
仮名は、黒い子が「まる」、灰色の子が「くも」、白い足袋の子が「あし」、耳だけ白い子が「みみ」になった。
あまりにもそのままだったが、仮名なので許された。
三日間、名前の家は子猫に振り回された。
まるは一番小さいのに、一番大きな声で鳴いた。くもはいつも黒パンの腹の下に隠れている。あしは籠から出ようとして転び、みみは音に敏感で、リン・エイルの鈴にだけ反応した。
ノルは毎日、鍛冶場の帰りに子猫を見に来た。
手を洗い、爪の煤を落とし、黒パンに挨拶してから籠のそばに座る。
「黒パン、入っていいか」
猫に許可を取る少年を、誰も笑わなかった。
四日目の夕方、正式な命名が決まった。
まるは「こげ丸」。
くもは「灰雲」。
あしは「白靴」。
みみは「鈴耳」。
パン屋の妻は「パン要素が一匹しかない」と不満を言ったが、黒パンがこげ丸を舐めたので決定となった。
問題は、名札だった。
「猫に名札?」
テオドールが尋ねる。
リネリアは当然という顔で言った。
「迷子になるかもしれないから」
「猫は名札を嫌がるのでは」
「じゃあ、首に巻かないで、籠に縫う」
その案は採用された。
籠の内側に、小さな布を四枚縫いつける。それぞれの名前を、母猫の匂いが残る布に記す。子猫が大きくなったら、必要な子だけ鈴や首紐に移す。
リネリアは、こげ丸の布を担当した。
ノルは鈴耳の布を選んだ。
「どうして鈴耳?」
私が尋ねると、ノルは耳だけ白い子猫を見た。
「音を聞く子だから」
「リン・エイルみたいに?」
「少し」
リン・エイルが、珍しく照れた顔をした。
「私は猫ではない」
「知ってる」
ノルは笑った。
その笑顔を見て、私は胸が少し温かくなった。
ノルは、かつて名札が焼けて熱を出した子だ。名前がほどけることの怖さを、体で知っている。その彼が、今は子猫の仮名と正式名の違いを考え、呼ぶ音の責任を語っている。
誰かを助ける子は、いつの間にか自分も助かっている。
夜、籠の中に四枚の布が縫いつけられた。
こげ丸。
灰雲。
白靴。
鈴耳。
黒パンはしばらく布を嗅ぎ、それから籠に丸くなった。
許可されたらしい。
リネリアが誇らしげに言った。
「黒パンがいいって」
「そうね」
ノルは黙っていた。
私は隣に座る。
「どうしたの」
「名前をつけたら、離れるとき困ると思った」
「子猫たちのこと?」
「全部、うちで飼えないかもしれない」
現実的な心配だった。
名前の家には子どもが多く、猫四匹を増やす余裕があるとは言えない。譲り先を探すことになるだろう。
「離れるから、名前をつけないほうがいいと思う?」
ノルは少し考えた。
「前は、そう思ったかもしれない」
「今は?」
「名前がないまま離れるほうが、もっと困る」
私はうなずいた。
「そうね。名前があれば、手紙に書ける。譲り先でも呼べる。会いに行くとき、どの子か分かる」
「うん」
「名前は、別れをなくすものではないけれど、つながりを残すことはできる」
ノルは鈴耳の布を指でなぞった。
「俺も、鍛冶場に行っても、ノルだから」
「ええ」
「ヘインズの名も、残ってる?」
「残っています。必要なときに使えるよう、名簿局に固定してあります」
「でも、普段はノルでいい」
「もちろん」
ノルは、少しだけ肩の力を抜いた。
その夜、私は日誌に書いた。
黒パン、四匹出産。
子どもたち、命名会議で国境交渉以上に揉める。
ノル、親の名前を子へかぶせないことを主張。
リネリア、こげ丸の「げ」を間違えて三度ほど書き直す。
テオドール、会議から戦略的後退。
最後の一行を書いたところで、テオドールがのぞき込んだ。
「その記録は必要か」
「必要です。北境の歴史ですから」
「私の後退も?」
「もちろん」
彼は深くため息をついたが、笑っていた。
外では、子猫の細い鳴き声が聞こえた。
黒パンが短く返事をする。
その音を聞きながら、私は思った。
名前をつけることは、所有することではない。
その子がどこへ行っても、呼び返せる音を用意することだ。
こげ丸、灰雲、白靴、鈴耳。
小さな名前が増えた春、名前の家はいつもより少し賑やかになった。