作品タイトル不明
完結後番外編一 ミーナの講座
王都分室が開いて三か月目の朝、ミーナは一番早く工房に来た。
通りに面した窓の鎧戸を上げると、まだ湿った石畳に朝日が落ちる。焼き菓子屋の煙突から甘い匂いが流れ、向かいの紙屋の老人が、昨日の雨で反った看板を直していた。
王都分室の看板は、北境の名前の家と同じ形をしている。
帰る名を持つ者を迎える。
ただし、その下に王都らしく小さな文字が足されていた。
名札相談、保護名申請、子どもの衣類修繕、仮登録代筆。
最後の「仮登録代筆」は、ミーナが提案した文言だった。
名前の相談というだけでは、貴族の母親は入りにくい。名簿局と関わる場所だと分かると、平民は怖がる。けれど「代筆」と書けば、字が不得意な者も、手が震える者も、少しだけ戸口に近づきやすい。
セシリアは最初、その看板を見て泣いた。
「わたし、昔なら絶対に入れなかったわ」
そう言って、ミーナの肩を抱いた。
ミーナはそのとき、母の袖を握らなかった。代わりに、看板の下の釘が一本傾いていることを指摘した。
「お母さま。泣くのは後でいいから、釘、直したほうがいいです。相談に来る人が、ここは大丈夫かって思うかもしれないから」
セシリアは涙を拭き、笑った。
今の二人は、泣くことも、釘を直すことも、どちらもできる。
ミーナは机に白い布を広げた。今日の講座で使う練習布だ。子どもの名前を刺繍するためのものではない。大人が自分の手で、自分が呼んできた名前を書き留めるための布だった。
布は十二枚。
予約者は七人。
余りが五枚あるのは、エレノアが教えてくれた準備の癖だ。
「名前の相談に来る人は、急に増えることがあります。講座は講座でも、泣いている人を追い返す必要がないように、布も椅子も二つは多く用意しておきなさい」
ミーナはその言葉を守っていた。
鐘が鳴る前に、最初の客が来た。
身なりの良い若い女性だった。絹の手袋に細い指輪。貴族か、裕福な商家の妻だろう。背筋は伸びているが、顔色が悪い。彼女の後ろには、七歳ほどの女の子が立っていた。
女の子は、深緑の帽子を両手で握っている。帽子の内側には、ほどきかけの刺繍があった。
リタ。
最後の「タ」の横に、小さな針跡がいくつも残っている。別の文字を足そうとして、うまくいかなかった跡だ。
「名札講座はこちらでしょうか」
女性が尋ねた。
ミーナは椅子から立ち上がり、受付用の笑顔を作った。エレノアのように静かに、アンナのように相手を急かさない笑顔にしたかった。
「はい。ご予約のお名前を伺ってもよろしいですか」
「クラリス・ベンネルです。娘のリタと参りました」
女の子が小さく頭を下げた。
「リタです」
その声は、はっきりしていた。
ミーナは胸の奥で、少しだけ息を止めた。
自分で自分の名を言える子だ。
それを忘れないようにしなければならない。
「リタ様、いらっしゃいませ。今日は練習布をご用意しています。好きな色の糸を選べますよ」
リタは棚を見た。赤、青、金、銀、茶、白。たくさんの糸が小さな箱に並んでいる。
だが、リタが箱に手を伸ばす前に、クラリスが言った。
「できれば、金糸でお願いいたします。この子の名を、レティシアに直したいのです」
ミーナの指が、受付簿の上で止まった。
講座室の奥から、セシリアが顔を上げた。今日は補助係として同席することになっている。彼女は何も言わなかった。ただ、ミーナが答えるのを待っていた。
昔のセシリアなら、たぶんこう言っただろう。
金糸は素敵ですわ。レティシアのほうが貴族らしいですもの。
けれど今の母は黙っている。
ミーナは、リタの帽子を見た。
「リタ様は、レティシアというお名前にしたいですか」
クラリスが驚いたように瞬いた。
「この子に聞くのですか」
「講座では、最初にご本人のお好みを伺います」
「まだ子どもです」
「だからこそ、最初に伺います。子どもは、大人の都合を先に聞くと、自分の気持ちを言えなくなることがありますから」
クラリスの頬が少し赤くなった。
ミーナは強く言ったつもりはなかった。けれど、言葉が母親の急所に触れたのは分かった。
リタは帽子を握りしめたまま、母を見上げた。
「お母さま」
「リタ。あなたのためなのよ」
「うん」
「ベンネル家の本家に入るなら、リタでは幼すぎると叔母様がおっしゃったの。レティシアなら、祖母様の名にも近いし、社交で笑われないわ」
「でも、リタはリタがいい」
その言葉は、小さかったが、部屋にまっすぐ落ちた。
クラリスは唇を閉じた。
ミーナは、かつての自分を思い出した。
侯爵家の居間で、知らない大人たちが自分の名前を替えようとしていた。ミーナという名が田舎の愛称のようだと笑われ、もっと立派な名をかぶせようとされた。あのとき、エレノアは言ってくれた。
ミーナ様にとっては、ミーナが最初の名前です。
その言葉がなければ、自分は今もどこかで、誰かから借りた名前の下で息をしていたかもしれない。
「クラリス様」
ミーナは、受付簿を閉じた。
「名前を長くすること自体は、悪いことではありません。洗礼名に儀礼名を足すこともあります。でも、その場合でも、最初の名前を消す必要はありません」
「消すつもりでは……」
「帽子の内側の刺繍を、ほどこうとなさいましたね」
クラリスは黙った。
リタが帽子を胸に寄せる。
「叔母さまが、古い名札は恥ずかしいって」
セシリアが椅子を引いた。
「お茶を淹れますわ。リタ様には蜂蜜を少し入れてもよろしいかしら」
リタは少し迷い、うなずいた。
緊張をほどくには、お茶が役に立つ。セシリアはそれを、今の名前の家で覚えた。
講座の参加者が次々に入ってきた。洗濯屋の母親、片手を怪我した父親、孫の外套を縫いたい老婦人、字を覚えたばかりの少年。それぞれが布を受け取り、糸を選ぶ。
ミーナは講座を始めた。
「今日は、きれいに縫うことを目標にしません」
参加者たちが顔を上げる。
「きれいな文字は、後から練習できます。最初に大事なのは、その名前を誰が、どんな気持ちで呼んでいるかを間違えないことです。縫う前に、布の上に指で名前を書いてみてください。声に出してもかまいません」
洗濯屋の母親が、笑った。
「うちの子、長い名でね。全部縫うと袖がいっぱいになるよ」
「愛称も併記できます。正式名は薬箱、愛称は普段着、という分け方もあります」
「そんなのもありかい?」
「あります。名前は一つに閉じ込めるものではありません。帰る場所ごとに、呼ばれ方が違ってもいいのです」
言いながら、ミーナ自身も少し驚いた。
これは、エレノアの言葉ではない。
自分の言葉だった。
講座が進むにつれ、部屋の空気は少しずつほぐれていった。少年は弟の名前を大きく縫いすぎて笑われ、老婦人は亡くなった娘がつけた孫の愛称を布の裏にそっと縫った。片手を怪我した父親は針を落とし続けたが、隣の洗濯屋の母親が布を押さえて手伝った。
クラリスは、ずっと金糸を見ていた。
リタは青い糸を選び、練習布にゆっくりと自分の名を縫っている。
リ。
タ。
たった二文字。
だが、針を持つ手は真剣だった。
講座の終わり近く、クラリスがミーナを呼んだ。
「ミーナ先生」
先生と呼ばれて、ミーナは少し背筋を伸ばした。
「はい」
「レティシアを、足すことはできますか」
リタが顔を上げた。
クラリスは娘を見て、ゆっくりと言った。
「リタ・レティシア。正式な場だけ、そう名乗ればいい。帽子の内側のリタは、ほどかない。それで……いいかしら」
最後は娘への問いだった。
リタは目を丸くし、それからうなずいた。
「いい。お母さまがリタって呼ぶなら」
「呼ぶわ」
「叔母さまが怒っても?」
「怒ったら、名前の家で習ったと言います」
セシリアが、茶器を片づけながら微笑んだ。
「それは少しだけ、こちらの評判が悪くなりそうですわ」
クラリスは初めて笑った。
「評判が悪くなる前に、追加の寄付をいたします」
講座室に小さな笑いが起こった。
ミーナは金糸を取り、青い糸の隣に置いた。
「では、リタ様の練習布に、足す形で縫いましょう。消すためではなく、増やすために」
リタが布を差し出した。
ミーナは、リタの二文字の下に小さく線を引いた。
「ここから先は、リタ様が大きくなったら自分で選べる余白にしましょう」
「余白?」
「はい。名前には、余白があっていいんです」
その日、講座は予定より一時間延びた。
終わる頃には、余分に用意していた五枚の布も使い切っていた。最後に飛び込んできたのは、子どもの名札を焦がしてしまった魚屋の父親だった。彼は泣きながら「妻に殺される」と言い、セシリアにお茶を飲まされ、ミーナに「まずお子様の名前を確認しましょう」と言われて落ち着いた。
夕方、王都分室の鎧戸を閉めると、セシリアが椅子に座り込んだ。
「疲れたわ」
「お母さまは、お茶を淹れすぎです」
「あなたは、先生をしすぎです」
ミーナは練習布の残り糸を箱に戻した。
先生。
その呼び名は、まだ少し照れくさい。
「昔、わたしの名前を変えようとしたこと、覚えてる?」
ミーナが尋ねると、セシリアは目を伏せた。
「忘れないわ」
「責めてるんじゃない」
「ええ」
「でも、今日、リタ様のお母さまが途中で止まれたのは、お母さまがお茶を淹れて黙っていてくれたからだと思う」
セシリアは驚いたように娘を見た。
「わたしは何もしていないわ」
「何も押しつけなかった」
ミーナは、リタの練習布を思い出した。
青いリタの下に、金糸のレティシア。
消すのではなく、足す形。
「昔のお母さまなら、リタ様にレティシアのほうが素敵だって言ってたと思う」
「そうね」
「でも今日は言わなかった。だから、わたしが聞けた」
セシリアはしばらく黙っていた。
やがて、顔を覆って小さく笑った。
「娘に褒められるのって、こんなに困るものなのね」
「困るの?」
「嬉しいのに、泣きたくなるから」
ミーナは母の隣に座った。
王都分室の外では、夕方の鐘が鳴っている。
かつてこの王都で、ミーナという名は田舎臭いと言われた。侯爵家にふさわしくないと、別の子の名を被せられそうになった。
今、その名で講座の先生と呼ばれている。
「お母さま」
「なあに」
「わたし、ミーナでよかった」
セシリアは、娘の手を握った。
「わたしも、あなたをミーナと呼べてよかった」
その返事は、過去の過ちをなかったことにはしない。
けれど、同じ場所で立ち止まり続けることもない。
ミーナは明日の予約表を開いた。
講座名の横に、今日思いついた言葉を書き足す。
名前を消さずに、増やすための相談。
それは、彼女自身の人生にも必要な言葉だった。