作品タイトル不明
第五十四話 エピローグ リネリアの手袋
数年後、リネリアは自分の手袋に、新しい名札を縫った。
リネリア・ハースト=ヴァルト。
字はまだ子どもらしいが、線はしっかりしている。うさぎの印の横に、白い小花と小さな鈴も足されていた。
「ずいぶん印が増えたわね」
私が言うと、リネリアは真剣な顔で答えた。
「うさぎはリネ。お花はおとうさま。鈴はリン。手はおかあさま。北風草はテオさま。黒パンはノル」
「黒パンも?」
「だいじ」
娘の世界には、いろいろな名前が根づいている。
すべてを一つの家名でまとめる必要はない。
その年、リネリアは王都分室へ初めて見学に行った。セシリアとミーナが迎えてくれた。ミーナはもう、母の補助として小さな子どもの名札講座を手伝っている。
「リネリア、久しぶり」
「ミーナ、背がのびた」
「あなたも」
二人は笑い合った。
王都分室の壁には、名前の家の原則が掲げられている。
名前は、帰るための道標。
呼ばれたい名を聞く。
急がない。
子どもの安全を最優先に。
それは北境から始まり、少しずつ各地へ広がっていた。
リネリアはその文字を読み上げ、満足そうにうなずいた。
「おかあさまの言葉」
「みんなで作った言葉よ」
「リネも?」
「もちろん」
娘は少し照れた。
その日の夕方、王都の通りでアルベルトと会った。
彼は以前より穏やかな顔になっていた。侯爵家の運営は大変らしいが、名綴り師を正式に雇い、使用人の仕事も見直したという。
リネリアは自分から一歩前へ出た。
「おとうさま」
「リネリア」
「お花、今年もさいた?」
「ああ。咲いた。押し花にして送る」
「うん。リネのも、送る」
会話は短い。
でも、震えはなかった。
アルベルトは私へ軽く頭を下げた。
「エレノア。リネリアを、ありがとう」
「私一人で育てたわけではありません」
「そうだな」
彼はリネリアの手袋を見た。
「名前が上手になった」
「リネが、ぬった」
「そうか。とても良い」
リネリアは嬉しそうに笑った。
それを見て、私は胸の奥にあった古い痛みが、少し柔らかくなるのを感じた。
過去は消えない。
けれど、過去から届いたものを、未来の鉢に植え替えることはできる。
北境へ戻る馬車で、リネリアは手袋を見つめていた。
「おかあさま」
「なあに」
「リネ、おおきくなったら、なまえのいえで、はたらく」
「そうなの?」
「うん。でも、ほかにも、いろいろする。お花もそだてる。手紙もかく。黒パンのこどももみる」
「黒パンの子どもがいるの?」
「たぶん」
娘は真剣だった。
私は笑った。
「リネリアが選べばいいわ」
「うん。リネ、えらぶ」
その言葉に、私は深くうなずいた。
物語の中で、リネリアは名無しの子として消えるはずだった。
夫の後悔から始まる溺愛のために、娘の名前も命も失われるはずだった。
けれど今、娘は自分の手袋に自分の名前を縫い、将来を選ぶと言っている。
それ以上の結末はない。
北境の門が見えた。
帰る名を持つ者を迎える。
リネリアが窓の外を見て、声に出して読んだ。
「かえるなをもつものを、むかえる」
「読めたわね」
「うん」
門をくぐると、名前の家の灯りが見えた。
テオドールが玄関で待っている。アンナが後ろで毛布を持ち、マリベルが何か小言を用意している顔をしている。リン・エイルが鈴を直し、ノルが鍛冶屋の作業着で黒パンを追いかけている。
リネリアは馬車の扉が開く前から、手袋の鈴を鳴らした。
ちりん。
帰ってきた合図。
私は娘の手を取り、馬車を降りた。
「ただいま」
リネリアが言う。
皆がそれぞれに答えた。
「おかえり」
名前を呼ばれ、返事をする。
たったそれだけのことを守るために、私は夫を捨て、屋敷を出て、北境へ来た。
そして今、そのたったそれだけのことが、私たちの暮らしを照らしている。
リネリア。
私の娘。
あなたの名前は、あなたのもの。
これから先、どんな家名を選んでも、どんな場所へ行っても、その最初の約束だけは変わらない。
名前は、世界で迷子にならないための目印だ。
だから今日も、私はあなたの名を呼ぶ。
「リネリア」
娘は振り返り、笑った。
「はい、おかあさま」
その返事が聞こえる場所が、私の帰る家だった。