作品タイトル不明
第四十六話 祖母の館
グランヴィル家の祖母、オルガ様の館は、領都から馬車で半日ほどの丘にあった。
古い石造りの屋敷で、庭には冬枯れの薔薇と常緑樹が並んでいる。豪奢ではないが、長く大切に使われてきたものの落ち着きがあった。
リネリアは馬車を降りると、まず屋根を見上げた。
「おおきいけど、こわくない」
「そうね」
ヴァルト侯爵家の屋敷は、娘にとって広すぎて冷たい場所だった。この館は大きいのに、窓辺に干された毛布や玄関の木彫りの鳥の為か、人の暮らしが感じられる。
オルガ様は、白髪をきれいに結った小柄な女性だった。
お年を召しているが、目は鋭く、声には張りがある。彼女はテオドール様を見て、まず言った。
「痩せましたね。仕事を増やしすぎです」
テオドール様は静かに頭を下げた。
「気をつけます」
「毎回同じ返事です」
マリベルと同じ系統の強さを感じる。
オルガ様は次に私たちへ向き直った。
「エレノア・ハースト様、リネリア様。ようこそ。テオドールから話は聞いています。名前の家のことも、リネリア様がエリスを覚えてくださっていることも」
リネリアは少し緊張しながら、両手で小さな布包みを差し出した。
「エリスさまに」
中には、名前の家で作った小さな鈴飾りが入っていた。エリスの名綴り布の棚に置くためではなく、祖母の館にも一つ置けるように。
オルガ様はそれを受け取り、しばらく見つめた。
「ありがとう。エリスは鈴の音が好きでした」
「ほんとう?」
「ええ。廊下を走ると、いつも鈴のように笑いました」
リネリアは嬉しそうにした。
館の昼食は温かい煮込みと黒パンだった。リネリアは黒パンという名前に反応し、保護院の猫の話を延々とした。オルガ様は真剣に聞いてくれた。
食後、オルガ様は私を裁縫室へ案内した。
そこには古い名綴り布がいくつも保管されていた。家族のもの、使用人のもの、戦で亡くなった兵のもの。どれも丁寧に記録されている。
「私は若い頃、名綴りを少し学びました」
オルガ様は棚を撫でた。
「けれど、家名を守るための技術としてでした。あなたの名前の家は、違う方向へ進めている」
「まだ試行錯誤です」
「それがよいのです。完成した制度は、時に人を見る目を失います」
彼女の言葉は重かった。
「テオドールは、あなたを大切に思っています」
突然の言葉に、私は背筋を伸ばした。
「はい」
「あなたは怖いでしょう」
「……はい」
「怖いなら、怖いと言える相手を選びなさい。グランヴィル家に入るなら、あなたの名前を消す必要はありません。エレノア・ハーストとして来ればいい。リネリア様も、リネリア様のままで」
私は言葉を失った。
オルガ様は私を見た。
「家というものは、名を増やして強くなることもあります。嫁が来たから嫁の名を削る家は、いずれ自分の名も細くなる」
その考え方は、ヴァルト家とはまるで違った。
「私があなたを急かすことはありません。ただ、私が生きているうちに、テオドールが待つだけでなく、自分の幸せも望むところを見たいとは思っています」
率直で、少し勝手で、けれど温かい言葉だった。
夕方、リネリアは庭でテオドール様と木の実を拾っていた。
私は窓からその光景を見た。
娘は彼に遠慮せず話しかける。テオドール様は膝を折り、同じ高さで聞く。二人の間に、親子とは違うが、確かな信頼がある。
帰り際、オルガ様はリネリアへ小さな手袋を渡した。
「これはエリスが使う前に小さくなってしまった手袋です。よければ、あなたのうさぎを縫って使ってください」
リネリアは両手で受け取った。
「いいの?」
「ええ。使われる方が、手袋も喜びます」
「エリスさまの、わすれない」
「ありがとう」
帰りの馬車で、リネリアは手袋を抱いたまま眠った。
私はテオドール様に言った。
「オルガ様は強い方ですね」
「ええ。私もマリベルも、祖母に育てられたようなものです」
「あなたが子どもを急かさない理由が、少し分かりました」
彼は穏やかに笑った。
「祖母は、待つことと放置することは違う、とよく言っていました」
私はうなずいた。
待つ。
その言葉は、私たちの物語のあちこちに置かれている。
リネリアが自分の名を取り戻すのを待つ。
リンが名前を選ぶのを待つ。
アルベルトが父親として約束を守れるか待つ。
私が、自分の次の名前を選べるようになるのを待つ。
冬の前の丘道を、馬車はゆっくり進んだ。