作品タイトル不明
第四十三話 名前の家、王都へ
王妃殿下の後援で、王都第一孤児院に小さな名前の家分室が作られることになった。
私は月に一度、王都へ研修に行く。北境ではマリベルとセシリア、そして名簿所の新任職員が工房を支える。リン・エイルも、鈴の子たちの相談役として少しずつ手伝いを始めた。
すべてが順調というわけではない。
王都の孤児院は北境より人数が多く、貴族や商会の思惑も複雑だ。職員の中には、子どもの呼びたい名前を聞くことに戸惑う者もいた。
「全員に希望を聞いていたら、収拾がつかなくなります」
研修初日、年配の職員が言った。
私はうなずいた。
「希望をすべて叶えるわけではありません。まず聞くのです。聞いたうえで、医療、安全、法的記録と照合する。聞かずに決める方が、後で大きな混乱になります」
「子どもが嘘をついたら?」
「嘘をつく理由も記録します。怖いのか、誰かを守っているのか、覚えていないのか。名前の問題は、正しい答えを急ぐより、なぜその答えが出たかを見る必要があります」
職員は難しい顔をしたが、メモを取った。
王都分室の最初の相談者は、十二歳の少女だった。
孤児院ではアンナベルと登録されているが、本人はベルと呼ばれるのを嫌がる。理由を聞くと、奉公先でベルと呼ばれていた時期に虐待を受けたという。正式名を変える必要はないが、日常の呼び名はアンナにしたい。
職員は「登録名と違うと混乱する」と言った。
私は少女に尋ねた。
「アンナと呼ばれると、返事ができますか」
「できます」
「アンナベルと呼ばれるのは?」
「大丈夫です。でもベルだけは嫌です」
それで十分だった。
記録には、正式名アンナベル、日常呼称アンナ、ベル単独呼称を避ける、と記した。
小さなことだ。
けれど少女は、その日初めて食堂で名前を呼ばれて返事をしたという。
王都分室の仕事は、新聞にも取り上げられた。
今度の見出しは、少し穏やかだった。
孤児院で始まる「呼ばれたい名」の記録。
ダリウスの事件を経て、名簿制度は少しずつ変わり始めている。
北境へ戻ると、リネリアは毎回、王都の話を聞きたがった。
「アンナってこ、いた?」
「ええ。ベルと呼ばれるのは嫌だけど、アンナなら返事ができる子」
「リネ、わかる。いやなよびかた、いや」
「そうね」
娘は自分の経験を通して、他の子の話を理解するようになっている。
ある日、アルベルトからリネリア宛てに手紙が届いた。
リネリアはいつものように私に読んでほしいと言った。
内容は、ヴァルト領の庭に今年も白い小花が咲いたこと、リネリアが昔好きだった絵本をもう一冊見つけたこと、よければ送ってもいいかという確認だった。
謝罪や後悔の言葉は少しだけ。
ほとんどは、返事を求めすぎない近況だった。
リネリアは聞き終えると、考えた。
「えほん、ほしい」
「では、そのようにお返事しましょう」
「おとうさま、おはな、みた?」
「見たそうよ」
「リネも、ちょっと、みたい」
私は胸が少し痛んだ。
「ヴァルト家の庭へ?」
リネリアはすぐ首を振った。
「いまは、いかない。おはなだけ、みたい」
「押し花を送ってもらいましょうか」
「うん」
娘は自分の距離を保ちながら、少しずつ父親との細い糸を結び直している。
それが将来どうなるかは分からない。
でも、少なくとも今は、リネリアが選んでいる。
数日後、ヴァルト家から絵本と白い小花の押し花が届いた。
アルベルトは押し花の紙に、リネリアへ、とだけ書いていた。
リネリアはそれを箱にしまった。
「おとうさま、リネリアって、かいた」
「ええ」
「まちがえなかった」
「そうね」
たったそれだけのことが、娘にとっては確認になる。
私はその夜、アルベルトへ短い礼状を書いた。
リネリアが絵本と押し花を受け取りました。名前を正しく書いてくださり、ありがとうございます。
書きながら、少し不思議な気持ちになった。
夫婦としての関係は終わった。
けれど、娘の名前を正しく書く父親として、彼がこれから少しずつ変わるなら、それはリネリアのためには悪いことではない。
名前の家は、誰かを罰し続けるための場所ではない。
間違えた人が、自分のしたことを見て、別の縫い方を覚える場所でもある。