作品タイトル不明
第三十八話 白紙名の帳簿
リン・エイルの登録から半月後、王都から緊急の知らせが届いた。
黒インク商会の隠し倉庫から、白紙名の帳簿が見つかったという。
帳簿には、名前のない子どもたちの身体的特徴、年齢、出身地の推定、そして売却先の記号が書かれていた。正式名がないため、子どもたちは番号で管理されていた。
その中に、リンと鈴の子たちに該当する記録があった。
白鈴一号、白鈴二号、白鈴三号。
私はその写しを見て、怒りで視界が滲んだ。
リン・エイルという名前を選ぶ前、彼女は誰かの帳簿で番号だった。
鈴の子たちも同じだ。
テオドール様は資料を机に置いた。
「売却先の記号の一つが、ダリウスの実家であるベルン家の古い家紋と一致しました」
「では、彼は聖女信仰の子どもを使って何を?」
「推測ですが、名の空白を利用した身代わり登録です。古い家では、相続人が早世したことを隠すため、年齢の近い子を同じ名で登録し直すことがある。禁じられていますが、家名を守るために行われてきた」
私は息を呑んだ。
リネリアの名をミーナへ移す話と、同じ構造だ。
死んだ子、病弱な子、家に都合の悪い子。その名を別の子へ移し、家の形を保つ。白紙名の子は、その器にされる。
「リンは、誰かの身代わりにされる予定だったのですか」
「可能性があります」
胸が冷えた。
リンを祠から出したことは、彼女を聖女信仰から解放しただけでなく、別の犯罪からも救ったのかもしれない。
しかし帳簿は同時に危険を意味した。
証拠が見つかった以上、ダリウス側は口封じや証拠隠滅に動く可能性がある。特にリンは、白紙名の子が自分で名前を選んだ実例だ。彼女の証言や存在は、彼らの思想を否定する。
保護院の警備が強化された。
子どもたちは不安がらないよう説明を受けたが、空気の変化は伝わる。リネリアは夜、私の寝台へ来た。
「おかあさま、わるいひと、くる?」
「来ないように、みんなで守っています」
「リンのなまえ、とる?」
「取らせません」
娘はしばらく黙り、布うさぎを握った。
「リネ、すず、ならす」
「危ないときは、ね」
「うん」
その夜は何も起きなかった。
だが翌日の午後、名前の家に火がついた。
最初に気づいたのはノルだった。
彼は黒パンを追いかけて工房の裏へ行き、窓の下に油の匂いがする布を見つけた。すぐに鈴を鳴らし、職員を呼んだ。その時には、裏口の木枠から煙が上がっていた。
「火事!」
中庭に叫びが響く。
私は工房内にいた。棚には相談記録、名綴り布、リンの登録写し、エリスの補修記録の控えがある。火はまだ小さいが、油を使われている。広がれば一気に燃える。
私はまず子どもがいないことを確認した。
「全員外へ!」
職員が動く。
リネリアは文字教室にいた。アンナがすでに連れ出しているのが見えた。
私は重要書類を箱へ入れた。黒インクの写し、白紙名帳簿の控え、子どもの保護名記録。火が迫る。
煙で喉が痛い。
その時、リンが入口に立っているのが見えた。
「リン! 外へ!」
「なまえ」
彼女は工房の棚を見ていた。
そこには、リン・エイルの初めての名札が置かれている。
私はすぐ駆け寄ろうとしたが、梁から火のついた木片が落ちた。
リンが動けなくなる。
外からリネリアの鈴が鳴った。
ちりん、ちりん、ちりん。
危険を知らせる音。
その音で、リンの目が動いた。
「リン・エイル!」
私は叫んだ。
「あなたの名前はここにある。でも、布よりあなたが大事! 外へ!」
リンの唇が震えた。
「リン・エイル」
「そう。リン・エイル。出なさい!」
彼女は一歩動いた。
私は煙の中で彼女の手を掴み、外へ引いた。
直後、テオドール様と領兵が水桶を持って駆け込んだ。火は裏口周辺を焼いたが、工房全体へ広がる前に消し止められた。
外へ出ると、リネリアが泣きながら私に抱きついた。
「おかあさま、けむり!」
「大丈夫。少し吸っただけ」
「リンも?」
リンは咳き込みながら、リネリアの鈴を見た。
「きこえた」
「リネ、ならした」
「ありがとう」
リンがそう言うと、リネリアはさらに泣いた。
火事の被害は、裏口と棚の一部だけで済んだ。
重要書類も大半が無事だった。だが、忘れない布の棚に置いていた古い布のいくつかが焦げた。
テオドール様は焼け跡を見て、表情を消した。
「放火です」
「証拠を消すためでしょうか」
「それだけではない。名前の家そのものを怖い場所にしようとしている」
私は焦げた棚を見た。
怒りより先に、静かな決意が湧いた。
「なら、怖い場所にしません」
テオドール様が私を見る。
「明日、ここを片づけます。子どもたちと一緒に、新しい棚を作ります。燃やされたものがあっても、名前の家は続くと見せます」
「無理をしないでください」
「無理ではありません。必要なことです」
リネリアが私の手を握った。
「リネも、つくる」
リンも、小さくうなずいた。
「リン・エイルも」
火は、名前の家を消せなかった。
むしろ、子どもたちは自分たちの場所を守る側に立ち始めていた。