作品タイトル不明
第三十七話 リンが選ぶ日
リンが自分の正式名を考え始めたのは、セシリアの研修が終わった後だった。
きっかけは、名前の家で開いた母親向け講座だった。参加者の一人が、生まれたばかりの子に名前をつける話をしていたのだ。
「名前は親が願いを込めるものだと思っていました。でも、子どもが大きくなったら、その名をどう思うか聞いてみたいです」
その言葉を、リンは窓辺で聞いていた。
講座のあと、彼女は私のところへ来た。
「リン、ねがい、ない」
「名前に込められた願いのこと?」
彼女はうなずいた。
「だれも、つけなかった」
私は針を置いた。
名をつけられなかった子にとって、名前を選ぶことは自由であると同時に、孤独でもある。親の願い、家族の記憶、土地の由来。そういうものがない白紙から選ばなければならない。
「願いは、今から込めてもいいわ。リン自身が、自分に願うことでもいい」
「じぶんに」
「ええ。どんなふうに生きたいか。誰に呼ばれたいか。どの音が怖くないか」
リンは長く考えた。
その日から、彼女は名前の候補を集め始めた。
リネリアは張り切って協力した。
「リンベルは?」
「ベル?」
「すず!」
ノルは少し考えて言った。
「リンだけでいいんじゃないか。短いし」
ヨナは「雪鈴」と言い、ヨハンは「読みにくい」と反対した。マイラは「リーナ」を提案したが、リネリアと似すぎるのでリンが首を振った。
子どもたちは真剣だった。
名前を選ぶことが、こんなにも皆を巻き込む大きな出来事になるのだと、私は改めて思った。
数日後、リンは私に言った。
「リン・エイル」
「エイル?」
「いみ、ある?」
「古い言葉で、風、または息という意味があります」
私は書庫で調べたことを思い出した。
リンは自分の胸に手を当てた。
「すず、こわかった。でも、いま、いき、できる。リン、エイルがいい」
鈴の音と、息。
とても彼女らしい選択だった。
「素敵な名前です」
私が言うと、リンは少し笑った。
「ほんと?」
「ええ」
正式登録には慎重な手続きが必要だった。
リンには親が不明で、聖女信仰の祠にいた記録しかない。王妃殿下の後援もあり、名簿局は特別保護名として申請を受け付けた。本人の意思確認、医師の確認、保護院の記録、名綴り師の所見。
申請書の本人希望欄に、リンは震える手で印をつけた。
文字はまだ書けない。
けれど、彼女自身が選んだ印だった。
登録の日、名前の家で小さな名付け式をした。
派手な儀式ではない。工房の机に白い布を置き、リンが選んだ糸を並べる。鈴の銀、風の薄青、そして本人が「こわくない」と言った生成りの布。
リネリアは見守り係だ。
「リン、がんばって」
リンはうなずいた。
私は最初の一針を置く前に尋ねた。
「この名を、あなたの名として綴ってよろしいですか」
リンは小さく息を吸った。
「はい」
はっきりした返事だった。
私は布に縫った。
リン・エイル。
一針ずつ、ゆっくり。
縫い終えたとき、鈴が小さく鳴った。誰かが鳴らしたのではない。窓から入った風で、リンの手元の鈴が揺れたのだ。
リンは布を胸に抱いた。
「リン・エイル」
自分で呼んだ。
リネリアが手を叩いた。
「リン・エイル!」
子どもたちも続く。
「リン・エイル!」
何度も呼ばれるうちに、リンの目から涙がこぼれた。
でも、それは祠で見せた恐怖の涙ではなかった。
自分が呼ばれていると分かった子の涙だった。
その日の夜、リンは初めて名呼びで返事をした。
「リン・エイル」
「はい」
短く、けれど確かな声。
リネリアは隣で泣きそうな顔をしていた。
「おかあさま、リン、いたね」
「ええ。いたわ」
名を選ぶことは、過去を消すことではない。
白紙にされた過去を抱えたまま、それでも自分で一行目を書くことだ。
リン・エイル。
彼女の名前は、名前の家で初めて本人が選んだ正式名として記録された。