作品タイトル不明
第三十六話 セシリア、北境へ
セシリアとミーナが北境へ来たのは、初夏の風が柔らかくなった頃だった。
大きな荷物はなかった。衣類の入った鞄が二つ、刺繍道具の箱、ミーナの本、そして祖母の古い裁縫籠。王都での見習い工房を辞めたわけではなく、名前の家で一月だけ研修を受けることになったのだ。
リネリアは門の前で、少し緊張していた。
ミーナとは手紙のやりとりをしている。互いの名前を褒め合い、刺繍の写しも送った。それでも実際に会うとなれば、最初の出来事の記憶は残る。
ミーナも同じように緊張していた。
馬車から降りると、彼女は深くお辞儀した。
「リネリア様。こんにちは」
リネリアは私の手を握ったまま、少し考えた。
「こんにちは。ミーナ」
様をつけなかった。
ミーナは驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに笑った。
「こんにちは、リネリア」
子どもたちの距離が、ほんの少し縮んだ。
セシリアは私へ向き直り、以前より深く、しかし卑屈ではない礼をした。
「エレノア様。受け入れてくださり、ありがとうございます」
「研修です。特別扱いはしません」
「はい。望むところです」
その返事に、私は少し笑った。
初日の研修は、名札の基本だった。
セシリアは刺繍の腕はあるが、名綴りは別の技術だ。美しさより、本人との結びつきが大切になる。整いすぎた文字より、子どもが安心する糸の流れを優先することもある。
「これは難しいですね」
セシリアは練習布を見ながら言った。
「きれいに縫おうとすると、糸が硬くなります」
「装飾刺繍では正確さが価値です。でも名綴りでは、本人の呼吸に合わせる必要があります」
「呼吸」
「例えば、ミーナ様の靴下の刺繍は歪んでいました。でもあれは、祖母様がミーナ様を思って縫った流れがありました。まっすぐに直しすぎると、その温かさが消えます」
セシリアは真剣にうなずいた。
「わたしは、ミーナのためと言いながら、あの子の持っていた温かさを恥ずかしがっていました」
「気づいたなら、今は違う縫い方ができます」
彼女は針を持ち直した。
ミーナはリネリアと一緒に中庭で遊んでいた。最初はぎこちなかったが、ノルが黒パンを紹介したことで一気に距離が縮まった。
「この猫、黒パン」
「パンなの?」
「猫だ」
「じゃあ、どうして黒パン?」
「丸いから」
ミーナは笑い、リネリアも笑った。
子ども同士の関係は、大人の謝罪より柔らかく、時に厳しい。リネリアは時々ミーナを見て不安そうにするが、ミーナが自分の名前を大事にしているのを知っているから、逃げない。
数日後、ミーナは自分で縫った名札をリネリアに見せた。
ミーナ。
まだ不揃いだが、祖母の刺繍に似た温かさがある。
「お母さまと縫ったの」
「かわいい」
「リネリアのも見る?」
リネリアは自分の初めての名札を箱から出した。
歪んだリネリアの文字。
ミーナは真剣に見た。
「初めての形だね」
リネリアの目が輝いた。
「うん。おかあさまが、いった」
その言葉が、二人の間で共有された。
セシリアの研修は順調だったが、簡単ではなかった。
ある日、彼女はリンの仮名札を見て、つい「もっと美しく整えられる」と言った。リンの表情が硬くなり、リネリアがすぐに首を振った。
「リンのは、リンの。きれいにしすぎ、だめ」
セシリアははっとした。
「ごめんなさい。美しくすることが良いことだと、まだ思ってしまって」
リンは鈴を握り、少しだけ言った。
「これ、こわくない」
「ええ。怖くない形が大事なのですね」
セシリアは深く頭を下げた。
失敗して、気づいて、直す。
彼女はその繰り返しを逃げなかった。
研修の終わり頃、マリベルが私に言った。
「セシリア様は補助員として使えます。特に母親向け講座では、説得力があるでしょう」
「過去のことは?」
「隠さなければよいのです。間違えた人が、どう直したかを話せるなら、それも仕事になります」
私はうなずいた。
セシリアが北境へ来たことで、私自身も少し楽になった。
彼女を憎み続けるより、別の形で関わる方が、リネリアにとっても良いのかもしれない。もちろん距離は必要だ。信頼は一月で完全に戻るものではない。
でも、名前の家は、やり直す人も学べる場所でありたい。
研修最終日、セシリアはミーナの前で、自分の名札を縫った。
セシリア。
これまで彼女は、自分の名前をあまり好きではなかったという。弱く聞こえる、儚く見られる、守られることを期待される。けれど今は、自分で働くための名前として縫いたいと言った。
ミーナはそれを見て、母を抱きしめた。
「お母さまの名前も、かわいい」
セシリアは涙をこぼした。
私はその場を少し離れ、窓辺から中庭を見た。
リネリアが黒パンを追いかけて笑っている。
ミーナがその後を走る。
二人の名前は、もう奪い合うものではない。
互いに呼び合えるものになっていた。