作品タイトル不明
第三十五話 北境へ帰る馬車
北境へ戻る馬車の中で、リネリアはよく眠った。
王宮、名簿局、アルベルトとの短い対面。四歳の子どもには、どれも大きすぎる出来事だった。膝の上で眠る娘の髪を撫でながら、私は何度も、連れて行った判断が正しかったのか考えた。
だがリネリアは、自分で「行く」と言い、自分で「もう行く」と父親との対面を終えた。
大人が守ることと、子どもの選択を奪うことは紙一重だ。私はその境目を、これからも何度も迷うのだろう。
アンナが向かいの席で、毛布の端を直した。
「お嬢様は、王都へ行く前より少し落ち着いておられます」
「そう見える?」
「はい。怖いものを遠くから想像するより、一度見て、自分で離れた方がよいこともあります」
アンナは淡々と言う。
彼女の観察はいつも正確だ。
「奥様は?」
「私?」
「侯爵閣下の謝罪を受けて、揺れておられるのでは」
私は窓の外を見た。
街道沿いの木々が、春の薄い緑をまとい始めている。
「揺れないわけではないわ。あの人と過ごした年月がなくなるわけではないもの。でも、戻りたいとは思わない」
「それなら十分です」
「冷たいかしら」
「いいえ。遅い謝罪で人生を巻き戻す義務はありません」
アンナらしい言い方だった。
私は小さく笑った。
領都へ着くと、名前の家の前で子どもたちが待っていた。マリベルは一応整列させようとしたらしいが、ヨナがすぐ列を崩し、リタが手を振り、ノルは少し離れた場所で黒パンを抱いている。
リネリアは馬車から降りるなり、皆に囲まれた。
「王宮どうだった?」
「星の菓子って何?」
「王妃様は本当に冠をかぶってるのか?」
質問が降ってくる。
リネリアは目を白黒させながらも、胸を張った。
「おおきかった。おかし、ほし。おうひさま、やさしかった」
説明は短いが、子どもたちは満足したらしい。
ノルが黒パンを差し出した。
「これ、王宮の匂いするか?」
「くろぱん、いかないよ」
「聞いただけだ」
いつもの会話が戻ってきた。
私はその光景を見て、深く息を吐いた。
ここが帰る場所になっている。
夕方、名前の家で王妃殿下からの依頼について会議を開いた。
王都の孤児院に、名前の家方式を試験導入する。そのためには、名綴り師だけでなく、職員向けの研修、仮名登録の書式、医療連携の手順が必要だ。
マリベルはすぐに実務の表を作り始めた。
「エレノア様一人では回りません。北境から二名、王都から二名、見習いを育てましょう」
「見習いですか」
「セシリア様を候補に入れては?」
私は少し驚いた。
「まだ早いのでは」
「名綴り師としてではなく、母親向け名札講座の補助から。彼女は一度間違えたからこそ、伝えられることがあります」
マリベルは人を見る目が厳しい。
その彼女がそう言うなら、検討する価値はある。
テオドール様は王都に残っていたが、翌日には戻ってきた。
彼は領主館へ行く前に、名前の家へ顔を出した。疲れは見えるが、表情は明るい。
「中央局の調査委員会に、王妃殿下の後援がつきました。ダリウスはかなり追い込まれています」
「直接の証拠は?」
「まだです。ただ、黒インク商会の帳簿に『白紙名』という項目がありました。聖女信仰の子どもたちと関係があるかもしれない」
白紙名。
名を持たない子どもを、名前のないまま帳簿で扱うための項目だろうか。
私はリンと鈴の子たちを思った。
「祠の子どもたちを狙った理由も、そこにあるかもしれません」
「ええ。名を持たない子は、偽名登録に使いやすい。死んだ相続人の身代わり、商会の奉公人、貴族家の隠し子。悪用の幅が広い」
名を持たないことが清らかだという信仰と、名を持たないことが便利だという犯罪。
どちらも、子ども本人を見ていない。
テオドール様は私の表情を見て、少し声を柔らかくした。
「疲れていませんか」
「疲れています。でも、止まるわけには」
「休むことも、止まらないための手順です」
彼はそう言い、リネリアの方を見た。
娘はリンと一緒に、鈴飾りを布に縫いつけている。リンはまだ言葉少ないが、針を持つ手は落ち着いている。
「リネリア様に、また叱られますよ」
「それは困りますね」
私は笑った。
夜、リネリアは私に王都の話をもう一度せがんだ。
王妃殿下の星菓子、名簿局の白い廊下、アルベルトの謝罪。父親の話になると、娘は静かになったが、怖がって泣くことはなかった。
「おとうさま、また、おてがみくる?」
「来るかもしれないわ」
「リネ、よむ。あうのは、まだあと」
「ええ」
リネリアは布うさぎを抱きしめた。
「おかあさま、リネのなまえ、まもったね」
「リネリアも、自分で守ったわ」
「リネも?」
「ええ。自分で嫌だと言って、自分で離れたでしょう」
娘は少し誇らしそうに笑った。
名前を守る力は、私の針だけにあるのではない。
本人が自分の名を好きでいること。
それも、強い守りになる。