作品タイトル不明
第三十四話 夫の後悔は遅すぎる
王宮からの帰り、私たちは三つの杯亭へ戻る前に、王都名簿局へ立ち寄った。
リネリアの保護登録の更新と、王妃殿下から依頼された試験制度の準備のためだ。リネリアは少し疲れていたが、アンナが抱っこを提案すると「あるく」と言い、私の手を握って歩いた。
名簿局の廊下で、アルベルトに会った。
偶然ではないだろう。
彼は以前より痩せ、目の下に影があった。けれど服装は整っている。侯爵としての形を保とうとしているのが分かる。
リネリアが私の手を強く握った。
アルベルトは足を止めた。
「リネリア」
声は以前より柔らかかった。
リネリアはすぐに返事をしなかった。私の後ろに隠れかけ、でも少しだけ顔を出した。
「……こんにちは」
アルベルトの顔に、安堵と痛みが同時に浮かんだ。
「こんにちは。手紙を読んでくれて、ありがとう」
リネリアはうなずいた。
「おへんじ、かいた」
「ああ。読んだ」
「リネ、まだ、あわない」
「分かった」
アルベルトはすぐに言った。
その即答に、私は少し驚いた。
以前の彼なら、父親なのだからと言っただろう。今も内心では言いたいのかもしれない。けれど少なくとも、口には出さなかった。
「名前は、取らない」
リネリアは小さく続けた。
「取らない。二度と」
アルベルトは膝を折った。
目線を合わせるためだ。
しかし近づきすぎず、距離を保った。
「リネリア。私は、お前の名前を軽く見た。怖がらせた。父親なのに、お前のことをよく知らなかった。すまなかった」
リネリアは黙って聞いていた。
廊下の空気が静かになる。
私の胸には複雑な感情があった。
謝罪は必要だった。リネリアのためにも、アルベルト自身のためにも。けれど、謝ったからといって過去が消えるわけではない。娘が夜中に自分の存在を確認した日々も、名を奪われる恐怖も、私が屋敷を出るしかなかったことも。
夫の後悔は、遅すぎる。
それでも、娘が父親の謝罪を聞く権利はある。
リネリアは私を見上げた。
「おかあさま」
「なあに」
「リネ、もういく」
「ええ」
娘はアルベルトへ向き直った。
「さようなら」
「……さようなら、リネリア」
それだけで面会は終わった。
短い。
けれど、リネリアが自分で始め、自分で終えた。
廊下を進むと、娘の手は震えていた。私はすぐ抱き上げた。
「よく言えたわ」
「リネ、こわかった」
「怖かったのに、言えたのね」
リネリアは私の肩に顔を埋めた。
「おとうさま、ごめんって。ほんと?」
「本当だと思うわ。でも、リネリアがすぐ許さなくてもいい」
「ゆるすって、なあに?」
難しい問いだった。
「相手のしたことが、もう怖くなくなることかもしれない。あるいは、思い出しても前へ進めることかもしれない。すぐに決めなくていいわ」
「じゃあ、あとで」
「ええ。あとで」
リネリアはいつものように、答えを保留した。
それでいい。
名簿局での手続きが終わると、私たちは三つの杯亭へ戻った。店主は何も聞かず、リネリアに温かいミルクを出した。
夜、娘が眠ったあと、アルベルトから私宛ての書面が届いた。
離縁協議に応じる。
娘の親権はエレノア側に置くことを認める。
面会はリネリア本人の意思と法務官の調整に従う。
そして、ヴァルト家の長女名リネリアについて、今後一切移譲を求めない。
私はその文面を何度も確認した。
ようやく、離縁が現実のものとして動き始める。
手紙の最後に、私個人への一文があった。
君がいなくなって初めて、君がしていたことの多さを知った。謝罪しても戻らないことは分かっている。だが、謝罪させてほしい。すまなかった。
私はしばらくその文を見ていた。
胸が痛まないわけではない。
四年の結婚生活が、すべて無意味だったとも思いたくない。リネリアが生まれた。私が名綴りを深く学んだ。あの家で耐えた日々があったから、今の私は制度の穴を見抜ける。
けれど、戻ることはない。
夫の後悔を、私の未来の中心に置くつもりはない。
私は返書を書いた。
謝罪は受け取ります。離縁協議は法務官を通してください。リネリアのために、今後は約束を守る父親でいてください。
それだけだった。
翌朝、リネリアは王宮の星菓子の残りを食べながら言った。
「おかあさま、きたきょう、かえる?」
「ええ。帰りましょう」
「リネ、くろぱんに、ほしのおかし、はなす」
「黒パンは菓子を食べないと思うわ」
「はなすだけ」
娘は笑った。
その笑顔を見て、私は心から思った。
帰る場所は、もう侯爵家ではない。
北境の名前の家。
そこで待つ人たちと、呼ばれる名前がある。