作品タイトル不明
第三十三話 王妃の依頼
新聞記事が出てから、名前の家への手紙はさらに増えた。
多くは相談だったが、中には批判もあった。家名を軽んじる危険な思想だ、子どもに選択を与えすぎるとわがままになる、母親の感情を制度に持ち込むな。
私は批判を読むたびに、少し胃が重くなった。
けれど一通一通に反論していては仕事が進まない。イザベルの助言で、公開回答を作ることにした。原則を説明し、個別相談は名簿所を通す。感情的な中傷には反応しない。
そんな中、王宮から封書が届いた。
差出人は王妃付き女官長。
内容は、王妃殿下が北境の名前の家について詳しく聞きたい、というものだった。
私は封書を三度読み返した。
「王妃殿下が?」
マリベルはあまり驚かなかった。
「新聞記事が出れば、王宮も見ます。王妃殿下は孤児院の後援もされていますから」
「しかし、私が王宮へ?」
「工房責任者ですから」
最近、周囲が私をそう呼ぶことに慣れてきている。私はまだ少し慣れない。
テオドール様は慎重だった。
「王宮へ行くなら、黒インク事件の証拠も持参しましょう。王妃殿下の関心が本物なら、中央局改革の後押しになります。ただし、政治的な利用もあり得ます」
「利用される可能性は承知しています。でも、制度を変えるには王宮の力が必要です」
「ええ。だからこそ、準備をしましょう」
今回はリネリアを連れて行かない予定だった。
しかし娘は、私が王都へ行くと聞いて唇を尖らせた。
「また、まつ?」
「今回は二回眠ったら戻る予定です」
「リネも、いく」
珍しくはっきり言った。
私は迷った。
王宮は子どもには負担が大きい。けれどリネリアにとって、私が王都へ行くことはまだ不安の種だ。置いていかれることを何度も経験させれば、守るための行動が別の傷になるかもしれない。
テオドール様は私の迷いを見て言った。
「王妃殿下の招待状には、リネリア様の同伴を禁じる文言はありません。短い滞在にし、無理ならすぐ宿へ戻ればよい」
「よろしいのですか」
「リネリア様は、名前の家の理念を誰より分かりやすく体現しています。ただし、見世物にしてはいけない」
その通りだった。
私はリネリアに条件を説明した。
「王宮では静かに待つ時間があります。疲れたらすぐ言うこと。嫌な質問をされたら答えなくていい。お母さまかアンナの手を離さないこと」
「アンナも?」
「もちろん」
「じゃあ、いく」
アンナはすでに荷造りを始めていた。
王都への旅は、前回より穏やかだった。
リネリアは馬車の中でミーナへ手紙を書いた。王宮へ行くこと、少し怖いこと、でもお母さまと一緒だから大丈夫だと思うこと。
三つの杯亭に着くと、店主がリネリアを抱きしめたい顔をしたが、まず膝を折って許可を求めた。
「リネリア様、久しぶりですね。抱きしめてもよろしいですか」
リネリアは少し照れて、うなずいた。
店主の腕の中で、娘は「ただいま」と言った。
その言葉に、私は胸が熱くなった。
ここも娘の帰る場所の一つになっている。
翌日、私たちは王宮へ向かった。
王宮は白い石と青い屋根でできた巨大な建物だった。リネリアは門を見上げて口を開けている。
「おかあさま、おおきい」
「ええ。大きいわね」
「おなまえ、ある?」
「王宮にも名前はあるのよ。星冠宮」
「ほしかんむり」
娘は気に入ったようだった。
王妃殿下は、想像より穏やかな女性だった。
年齢は四十代半ば。華やかな宝石より、深い緑の瞳が印象に残る。彼女は私たちを迎えると、まずリネリアへ目線を合わせた。
「リネリア様。長い旅でしたね。疲れたら、隣の部屋で休んでかまいません」
「はい」
リネリアは緊張しながら返事をした。
王妃殿下は微笑み、私へ向き直った。
「エレノア様。新聞記事を読みました。名前は鎖か、道標か。よい問いです」
「ありがとうございます」
「私は長く孤児院を後援してきましたが、名前の問題を十分に考えていませんでした。食事、寝床、教育、医療。それらを整えれば子どもは守れると思っていた。けれど、呼ばれたい名を持たない子は、そこでも迷子になるのですね」
王妃殿下の言葉は、飾りではなかった。
私は名前の家の原則を説明し、黒インク事件の資料を見せた。王妃殿下は一つ一つ確認し、女官長に記録を取らせる。
「中央名簿局の改革が必要ですね」
「はい。ただ、制度だけでなく現場の手順も必要です」
「あなたは、王都の孤児院で試験的に名前の家方式を導入する気はありますか」
突然の提案だった。
私はすぐには答えられなかった。
北境の工房も始まったばかりだ。王都まで手を広げれば負担が大きい。リネリアの生活もある。
王妃殿下は私の沈黙を急かさなかった。
「今すぐではありません。あなた一人に背負わせるつもりもない。ですが、名綴り師を育てる仕組みが必要です」
育てる。
セシリアの手紙が頭をよぎった。
名札を縫える母親、職員、工房見習い。すべてを私がやるのではなく、手順を広げる。
「条件があります」
私は言った。
「子どもの同意を無視しないこと。名簿局だけでなく、医師、法務官、養育者が関わること。名綴り師に適正な報酬を払うこと。そして、私の娘の生活を犠牲にしないこと」
王妃殿下は少し目を細めた。
「最後が一番大事ですね」
「はい」
「よろしい。あなたの条件を前提に、試験制度を設計しましょう」
話し合いが終わる頃、リネリアは隣室でアンナと一緒に菓子を食べていた。王宮の菓子は小さな星の形で、娘は目を輝かせている。
王妃殿下がリネリアへ尋ねた。
「星冠宮の菓子はおいしいですか」
「はい。ほしのなまえ、ある?」
「たくさんありますよ」
「じゃあ、これ、リネのほし」
リネリアは一つの菓子を指さした。
王妃殿下は笑った。
「では、その星はリネリアの星ですね」
娘は満足そうにうなずいた。
帰り道、私は思った。
名前の家は、北境だけの場所では終わらないかもしれない。
それは喜ばしいことでもあり、少し怖いことでもあった。