作品タイトル不明
第三十二話 ダリウスの反撃
中央名簿局の調査は、順調とは言えなかった。
ダリウスは職務権限を一部停止されたが、副局長の地位を失ってはいない。彼は自分の提案が悪用された被害者だと主張し、黒インク商会との直接の金銭関係は見つかっていなかった。
そんな中、名前の家に王都から告発状が届いた。
内容は、北境名綴り工房が子どもの名を不当に操作している、というものだった。
リネリアの一時保護、保護院の仮名登録、リンへの仮音付与、鈴の子たちへの名呼び保留。これらを「名簿制度を軽視した私的介入」として訴えている。
差出人は匿名。
だが文体から、中央局内部の者だと分かった。
マリベルは告発状を読み、鼻で笑った。
「私的介入とは便利な言葉です。子どもの話を聞くことがそんなに困るのでしょうか」
テオドール様は笑わなかった。
「これは世論を動かすための文書です。王都の新聞にも似た内容が流れています。『辺境伯が家名のない子どもに勝手な名を与えている』と」
「勝手な名を与えているのではありません」
「ええ。ですが、遠くの人間には実態が見えない。名の秩序を乱す危険な工房、という印象を作られると厄介です」
私は告発状を見つめた。
ダリウスは、こちらが子どもの意思を尊重していることを逆手に取っている。正式名をすぐ決めないことを混乱と呼び、仮名で安全を確保することを私的操作と呼ぶ。
言葉の選び方で、同じ行為がまったく違って見える。
「公開説明会を開きましょう」
私は言った。
テオドール様がこちらを見る。
「王都で?」
「いえ、北境で。工房のやり方を見せます。名簿局、法務官、医師、村の代表、可能なら新聞記者も。子どもたちの個人情報は守りますが、手順と原則を公開する」
マリベルがうなずいた。
「隠していると思われるよりは良いでしょう」
「危険もあります」
テオドール様は慎重だった。
「外部の人間が増えれば、子どもたちが不安になります」
「だから、子どもたちを見世物にはしません。大人向けに模擬名札を使います。リネリアたちには、必要なら別の日に遊びへ出てもらう」
「あなたは説明役を引き受けるつもりですね」
「工房責任者ですから」
そう言ってから、私は自分の言葉に少し驚いた。
工房責任者。
私はいつの間にか、その立場を自分のものとして口にしていた。
公開説明会の準備は忙しかった。
名綴りの基本原則を紙にまとめる。子どもの意思確認の方法、仮名と正式名の違い、名札補修の記録、医療連携、保護者不在時の手続き。前世の保育園で作っていた保護者向け説明資料の記憶が役に立った。
リネリアは、私が紙を大量に書いているのを見て言った。
「おかあさま、がっこうのせんせいみたい」
「前世では少し似た仕事をしていたわ」
「こども、いっぱい?」
「ええ。たくさんいた」
「リネみたいなこ?」
「リネリアみたいに、自分の名前を大事にしている子もいたわ」
娘は満足そうだった。
説明会当日、名前の家には多くの人が集まった。
王都からはイザベル、中央局長の代理、新聞記者二人。領内からは村長、医師、工房職人、保護院職員。テオドール様は領主として後方に立ち、私が前に出た。
緊張はあった。
けれど、侯爵家の夜会とは違う。あの頃は失敗すれば夫の体面を損なうと思っていた。今は、説明すべきことがあるから話す。
「北境名綴り工房、通称名前の家では、三つの原則を置いています」
私は模擬名札を掲げた。
「第一に、名前は本人へ戻るための目印であり、他者の所有物ではありません。第二に、幼い子や傷ついた子には、急いで正式名を決めさせません。安全な仮の呼び方を置き、本人の反応を見ます。第三に、家名や奉公先の都合で、本人の名を拘束することを認めません」
記者が筆を走らせる。
私は続けた。
「これは秩序を壊すためではありません。むしろ、子どもが自分の名で返事をできるようにするための手順です。名簿は人を管理する紙ではなく、人が迷子にならないための道具であるべきです」
質問は厳しかった。
「家名のない子が自由に名を選べば、相続や身元確認に混乱が生じるのでは?」
「自由に変えさせるのではなく、記録を残します。本人が使う名、仮名、調査中の旧名を区別して管理します。混乱を避けるためにも、隠さず記録する必要があります」
「聖女信仰の子どもに仮名を与えたのは、宗教への介入では?」
「名を与えないことで医療や保護が届かないなら、子どもの安全が優先です。仮名は信仰を否定するものではなく、本人へ呼びかけるための入口です」
「父親の権利と母親の名綴り権が衝突した場合は?」
その質問で、会場が少し静かになった。
私は正面を見た。
「どちらの権利が強いかではなく、子どもの安全を基準にします。親の願いが子どもの名を傷つけることもあります。私自身、そのために娘の名を保護しました」
隠さない。
私が当事者であることを、弱点ではなく根拠にする。
説明会は半日続いた。
終わった頃には喉が痛かったが、反応は悪くなかった。村長たちは実用的な手順に関心を示し、新聞記者の一人は「黒インクの拘束印についても追います」と言った。
夜、リネリアが私に水を持ってきた。
「おかあさま、いっぱいしゃべった?」
「ええ。いっぱい」
「えらい」
娘に褒められて、私は笑った。
その翌週、王都の新聞に記事が出た。
見出しはこうだった。
名前は鎖か、道標か――北境「名前の家」の試み。
ダリウスの反撃は、思わぬ形でこちらの理念を広めることになった。