作品タイトル不明
第三十一話 エリスの布
エリスの名綴り布は、子どもの外套の裏地だった。
雪遊び用の厚い布で、端には小さな雪紋が並んでいる。きっと走るのが好きな子だったのだろう。布の隅には泥の跡と、昔の雪解け水が残した薄い染みがあった。
私はまず、ほどけた糸を無理に引かず、残っている流れを記録した。
エリス。
エは力強く、リは少し跳ねている。スは半分消えているが、最後の結び目だけが残っていた。おそらく家族の誰かが縫ったものだ。
「どなたが縫われたのですか」
「母です。妹の外套は、母がすべて名札をつけていました」
テオドール様は工房の椅子に座り、布を見つめていた。
「母は、妹がいなくなったあと、名札を全部箱に入れました。見ると耐えられなかったのだと思います。私も同じでした」
私はうなずいた。
名前は、失った人を思い出させる。
だから大切で、だから痛い。
「補修は、元の糸に添わせます。新しく美しくするのではなく、エリス様が使っていた形を残します」
「それでお願いします」
針を通す。
一針目を置くと、テオドール様の手がわずかに動いた。彼にとっては、妹の時間がまた動き出す瞬間なのだろう。
私は急がなかった。
会話も、必要なときだけ。
やがて、ほどけていたスの線が戻ってきた。
完全ではない。古い糸の色と新しい糸の色は少し違う。けれど、それでいい。失われた年月まで塗りつぶす必要はない。
縫い終えたとき、工房の外は深夜だった。
テオドール様は布を受け取り、長い間黙っていた。
「エリス」
彼が名前を呼んだ。
返事はない。
けれど、その沈黙は以前より冷たくなかった。
「ありがとうございます」
「いいえ」
「不思議です。返事がないことは変わらないのに、名前が見えるだけで、少し息がしやすい」
「忘れないことと、探し続ける苦しみは、同じではないのかもしれません」
彼はその言葉をゆっくり受け止めた。
しばらくして、工房の扉が少し開いた。
リネリアが寝間着姿で立っていた。隣にはアンナがいる。どうやら夜中に目を覚まし、私がいないことに気づいたらしい。
「おかあさま、まだ?」
「ごめんなさい。もう終わったわ」
リネリアは眠そうな目でテオドール様の手の布を見た。
「エリスさま?」
テオドール様が驚いたように娘を見た。
「覚えていてくださったのですか」
「リネ、わすれないって、いった」
彼は言葉を失った。
リネリアは布へ近づきすぎず、少し離れた場所で小さく言った。
「エリスさま、おやすみ」
返事はない。
それでも、テオドール様の目に光るものが浮かんだ。
「ありがとうございます、リネリア様」
「うん。テオドールさまも、ねる」
「はい」
娘は大事な任務を終えたようにうなずき、私の手を引いた。
その夜、私はリネリアと一緒に眠った。
翌朝、テオドール様はエリスの布を領主館の礼拝室へ戻したという。箱の中にしまい込むのではなく、家族の記憶として見える場所へ。
数日後、彼は保護院の名呼びに来た。
いつものように子どもたちの名前が呼ばれる。
ノル、リタ、ヨハン、ヨナ、マイラ、エルク、リン。
そして最後に、マリベルが少しだけ目を伏せて言った。
「今日、ここにはいませんが、忘れない名前として、エリス様」
返事はない。
けれど、テオドール様が静かに目を閉じた。
リネリアは隣で、小さく手を合わせている。
名呼びは、生きている子どもの確認だけではない。
失った人を、雑に消さないための行為でもある。
その日の午後、私は名前の家で新しい棚を作った。
忘れない布の棚。
亡くなった子、行方不明の子、家族の記憶として残したい名綴りを預かる場所だ。ただし、無理に持ってこなくていい。見られるようになるまで、箱にしまっておくこともまた必要だから。
マリベルは棚を見て言った。
「名前の家は、子どものためだけでなく、大人のためにもなりそうですね」
「大人も、名前で傷つきますから」
「ええ。そして大人が自分の傷を見ないと、子どもの名前を道具にしてしまう」
その言葉は、アルベルトにも、セシリアにも、老女にも当てはまる。
私自身にも。
娘を守ると言いながら、自分の恐怖でリネリアの選択を塞がないようにしなければならない。
夜、リネリアはアルベルトへの返事を書き始めた。
もちろん、ほとんどは私の代筆だ。
おとうさまへ。
リネリアです。おてがみ、よみました。リネは、まだあいません。でも、おてがみは、よみます。リネのなまえを、とらないでください。リネは、リネリアです。
最後の署名だけ、娘が自分で書いた。
リネリア。
線はまだ曲がっている。
でも、迷いはなかった。