作品タイトル不明
第三話 名前を呼んでくれる場所
「突然の訪問をお許しください」
濃紺の外套の男性は、部屋に入る前にそう言った。
声は低いが、押しつけがましさはなかった。こちらが断れば引くつもりだと分かる立ち方をしている。
それだけで、少し呼吸がしやすかった。
「娘が眠っています。大きな声は出さないでください」
「もちろんです」
彼はすぐに声を落とした。
「私はテオドール・グランヴィル。北境の領地を預かっています」
グランヴィル辺境伯。
名前は知っている。王都から遠く離れた北境で、戦で親を失った子どもを多く預かっている貴族だ。社交界では変わり者と呼ばれていたが、悪い噂は聞いたことがなかった。
テオドール様の従者が抱いている男の子は、六歳くらいに見えた。顔色が悪く、眠っているのに眉を寄せている。胸元の布には、名前が縫われていた。
ノル。
けれど、その刺繍の一部が焼けて、最後の文字がほどけている。
「その子の名札が」
「ええ。馬車の事故で荷が燃えました。この子は北境の保護院から王都へ登録に来た子です。幸い命は助かりましたが、名綴り布が傷んでから熱が下がらない」
テオドール様は私を見た。
「三つの杯亭の店主から、エレノア様が優れた名綴り師だと聞きました。先ほど名簿局からも、ヴァルト侯爵家の件でお名前が出ていたので……。事情も知らずに頼むのは失礼だと承知しています。ただ、この子の名を今夜だけでも安定させたい」
アンナが心配そうに私を見た。
私は寝台で眠るリネリアへ目を向ける。娘は布うさぎを抱き、静かな寝息を立てていた。今日は疲れただろう。起こしたくない。
「ここで作業します。明かりを少しだけ増やしてください」
「ありがとうございます」
「お礼は、熱が下がってからで」
私は裁縫箱を開けた。
侯爵家を出るとき、これだけは置いていけなかった。母から受け継いだ針、色糸、名綴り用の細い金糸、銀糸。貴族の女性が持つには地味な箱だと、アルベルトに笑われたこともある。
けれど私には、どの宝石より必要なものだった。
従者が男の子を長椅子に寝かせる。
名札の布は、焦げて硬くなっていた。無理にほどけば、残っている文字まで壊れてしまう。私は焼けた端を湿らせた布で柔らかくし、切れた糸の流れを探った。
「この子の正式名は?」
「ノル・ヘインズです。両親は昨冬に亡くなりました。本人は、ノルと呼ばれることを好みます」
テオドール様は迷わず答えた。
子どもの好む呼び名まで知っている。
そのことに、私は少し驚いた。
「では、ノルで綴ります」
「正式名でなくてもよいのですか」
「今夜必要なのは、この子が自分だと分かる名前です」
私は針に糸を通した。
名前は人を縛るものではない。帰ってくるための目印だ。
前世の私は、園庭で泣いている子どもを何度も呼んだ。名前を呼ぶと、子どもは顔を上げる。自分が見つけてもらえたと分かるからだ。
この世界の名綴りも、根は同じだと思う。
一針ずつ、焼けた線の上に糸を置く。
ノ。
ル。
短い名前だった。だからこそ、ほどけると頼りない。私は最後の糸を裏で結び、余分を切った。
その瞬間、男の子の眉間が少し緩んだ。
従者が息を呑む。
「熱が……」
「完全に下がるには時間がかかります。水を少しずつ。汗をかいたら着替えを。明日の朝、名簿局で保護名の再登録をしてください」
「分かりました」
テオドール様は、深く頭を下げた。
「助かりました。ノルの名を、私たちだけでは繋ぎ直せなかった」
「私は応急処置をしただけです」
「その応急処置ができる者を、北境では必要としています」
彼の声は静かだった。
「グランヴィル領には、戦や流行病で家を失った子どもがいます。親族に引き取られる子もいますが、名簿が焼けたり、家名を失ったり、呼ばれる名が定まらない子も少なくありません。名綴り師を探していました」
私は手元の針を置いた。
「私は、夫と離縁する予定の身です」
「承知しています」
「娘もいます」
「もちろんです」
「娘の名前を守ることが、私の最優先です」
「それができない場所へ、あなたを誘うつもりはありません」
即答だった。
私は彼を見る。
アルベルトなら、まず家の都合を語っただろう。侯爵家のため、社交のため、誰かの体面のため。子どもの名前は、その後に置かれる。
けれどテオドール様は、最初からリネリアのことを条件に含めていた。
「住まいは、領都の保護院に隣接した小さな家を用意できます。名簿局への手続きは、私が保証人になります。もちろん、返答は今でなくて構いません」
「今でなくて、よいのですか」
「お子様が眠っている夜に、人生の大きな決定を迫るのは不誠実です」
その言葉に、胸の奥が少し温かくなった。
当たり前のことだ。
でも、当たり前のことを言ってくれる人が、今の私にはありがたかった。
寝台のリネリアが、小さく身じろぎした。
私はすぐにそばへ行く。リネリアは目を半分だけ開けて、ぼんやり私を見た。
「おかあさま……」
「ここにいるわ」
「リネ、いる?」
「いるわ。リネリアはここにいる」
娘は安心したように目を閉じた。
すると、少し離れた場所からテオドール様の声がした。
「リネリア様」
娘のまつげが揺れる。
彼は寝台へ近づきすぎず、低い声で続けた。
「お名前を伺えて光栄です。どうか、よい夢を」
リネリアは眠ったまま、小さく笑った。
私は何も言えなかった。
娘の名前を、初対面の人が丁寧に呼んだ。それだけのことなのに、泣きそうになった。
翌朝。
私たちは名簿局へ向かった。
テオドール様は言葉どおり、保証人として同行してくれた。リネリアは私の手を握り、もう片方の手で布うさぎを抱いている。外套の裏地には、昨日縫い終えた名前がある。
窓口の名簿官は書類を確認し、私へ言った。
「リネリア様の洗礼名は、母方保護名として一時固定できます。ヴァルト侯爵家が移譲を求めても、審査なしには通りません」
「ありがとうございます」
「また、昨日の件は強要の疑いとして記録されます。正式な離縁申し立ての際、必要であれば写しをお出しします」
アンナが小さく息を吐いた。
リネリアは難しい話を理解していないが、私が笑ったので少し安心したらしい。
「おかあさま、リネのおなまえ、まもれた?」
「ええ。守れたわ」
そう答えると、娘は胸を張った。
「リネリアです」
名簿官が微笑む。
「はい。リネリア様ですね」
娘が、ぱっと笑った。
その笑顔だけで、屋敷を出たことが正しかったと分かる。
同じ頃、ヴァルト侯爵家では、予定していた名の移譲式が始まらずにいた。
これは後からアンナの知人を通じて聞いた話だ。
アルベルトは苛立ちながら名簿官を呼び直し、セシリアの娘をリネリアとして登録しようとした。だが、登録簿は開かなかった。名綴り親の拒否が正式に記録されたため、リネリアの名は一時保護に入り、勝手な移譲ができなくなっていたのだ。
それだけではない。
娘の部屋の暖炉が、夜のうちに消えた。
薬箱は開かず、療養食の注文は止まり、子ども部屋の守りも弱まった。すべて、私が日々縫い直し、書き直し、整えていた名綴りの管理に支えられていたからだ。
アルベルトは初めて、それを知ったらしい。
「エレノアを呼び戻せ」
彼はそう命じたという。
けれど、私たちはもう屋敷にはいない。
名簿局を出ると、王都の空はよく晴れていた。
テオドール様は少し離れた場所で待っていた。こちらを見ると、まず私ではなくリネリアへ視線を合わせるために膝を折った。
「リネリア様。お母様とお話をしてもよろしいですか」
リネリアは私を見上げる。
私はうなずいた。
「いいよ」
娘がそう言うと、テオドール様は真面目な顔で礼をした。
「ありがとうございます」
リネリアは、少し得意そうにした。
私はその様子を見て、自然に笑ってしまった。
私たちが必要としていたのは、豪華な屋敷ではなかった。夫の気まぐれな優しさでも、後悔から始まる溺愛でもない。
娘の名前を、当たり前に呼んでくれる場所。
泣いた子どもに、まず毛布をかけてくれる人。
小さな名札を、ただの布切れだと笑わない暮らし。
「グランヴィル卿」
「はい」
「北境の保護院について、詳しく聞かせてください」
テオドール様の表情が、わずかに和らいだ。
「喜んで」
リネリアが私の手を握る。
「おかあさま、きたきょうって、さむい?」
「少し寒いかもしれないわね」
「リネのなまえ、ぬってくれる?」
「もちろん。外套にも、手袋にも、靴にも縫うわ」
リネリアは考えてから、布うさぎを差し出した。
「この子にも」
「ええ。この子にも」
私は娘の手を握り返した。
名前は、世界で迷子にならないための目印だ。
誰かの都合で奪わせたりしない。
夫が後悔するのは、これからだろう。侯爵家が私の名綴りにどれほど頼っていたか、セシリアが娘の名前を変えることの意味をどれほど軽く見ていたか、ひとつずつ思い知ることになる。
でも今は、それより大切なことがある。
リネリアが、自分の名前を好きなまま眠れること。
そのために、私は今日も針を持つ。