軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四話 北境からの招待状

名簿局の手続きが終わっても、私たちはすぐ北境へ向かわなかった。

娘の名を一時固定しただけでは、離縁も親権も決まらない。ヴァルト侯爵家は古い家で、アルベルトは家長だ。私が勢いだけで遠くへ行けば、あとで「妻が娘を連れ去った」と主張されるおそれがあった。

だから私は、三つの杯亭の二階部屋に腰を落ち着け、まず書類を整えた。

婚姻契約の写し、リネリアの洗礼証、薬帳、娘の名綴り箱、私の持参金目録、侯爵家に入ってから私が支払った療養費と子ども部屋の保護術の領収書。それらを机に並べると、アンナが片眉を上げた。

「奥様、戦でも始めるのですか」

「戦ではなく、記録の整理よ」

「同じことのように聞こえます」

アンナはそう言いながら、帳面の角をそろえてくれた。彼女は私が涙をこぼすより、紙をそろえている方が落ち着くと知っている。

リネリアは窓際の小机で、宿の店主からもらった紙に自分の名前を書いていた。リ、と書くたびに線が少し傾く。けれど昨日よりはっきりしている。

「おかあさま、リネリアって、ながいね」

「長いわね」

「リネ、ぜんぶかけたら、おおきくなる?」

「きっと少しずつ大きくなるわ」

そう答えると、娘は真面目な顔でまた石筆を持った。名前を練習することが、この子にとって自分を取り戻す作業になっているのだと思う。

昼前、テオドール様が再び訪ねてきた。

彼は宿の一階でまず店主に挨拶し、こちらの都合を確認してから二階へ上がってきた。貴族らしい尊大さはないが、礼を欠くところもない。濃紺の外套は昨夜と同じなのに、朝の光の中で見ると、袖口の刺繍が北境の雪紋だと分かった。

「昨夜はありがとうございました。ノルの熱は下がりました」

「よかった」

「彼は朝、パン粥を半分食べました。まだ眠っていますが、名を呼ぶと目を開けます」

その報告だけで胸が軽くなった。自分の針仕事が、誰かの朝につながったのだと分かる。

テオドール様は机の書類を見て、すぐに視線を戻した。

「離縁の準備をなさっているのですね」

「はい。感情だけで動いたと言われないように」

「証拠は、感情を守る盾になります。必要であれば、北境の法務官を紹介できます」

「そこまで甘えるわけには」

「甘えではありません。私が名綴り師を必要としている以上、あなたが不当な訴えに巻き込まれることは、こちらの問題でもあります」

彼は穏やかに言ったが、その言葉には領主としての責任があった。私個人への親切だけでなく、保護院の子どもたちのために有能な名綴り師を守る、という判断なのだろう。

それは逆に、私を安心させた。

急な好意より、責任に基づく支援の方が信用できる。

「グランヴィル卿。私はあなたの保護を受けるつもりで北境へ行くわけではありません」

「ええ」

「仕事をするなら、報酬と職務範囲を明確にしてください。住まいを用意してくださるなら、賃料の扱いも。娘の生活費は私が払います」

テオドール様は一瞬だけ目を見開き、それから少し笑った。

「承知しました。では、正式な雇用契約を作りましょう。北境保護院付き名綴り師。職務は保護名の補修、仮名登録の補助、衣類と薬帳の名綴り、必要に応じた保護術の助言。報酬は月に銀貨十二枚、住居は職務住宅として無償貸与。ただし生活品は自己負担。娘さんの教育については、保護院の読み書き教室への参加を許可します」

即座に出てきた条件があまりに具体的で、私は思わず黙った。

「まさか、昨夜から考えていらしたのですか」

「名綴り師を探していたのは本当です。あなたの事情を利用するつもりはありませんが、機会を逃すつもりもありません」

正直な答えだった。

私は書類の空いた端へ、条件を書き留める。銀貨十二枚は決して高くはないが、宿代と食費を差し引いても娘を養える額だ。何より、私の仕事に名前がつく。

侯爵家で私がしていたことは、妻の当然の務めと呼ばれ、費用も時間も見えないものにされていた。けれど北境では、それが職務になる。

「返事は、今すぐでなくてよいとおっしゃいましたね」

「はい」

「では一晩考えます」

「もちろんです」

テオドール様はうなずき、リネリアへ視線を向けた。

「リネリア様、お名前の練習をされているのですか」

「うん。ながいの」

「長い名前は、冬の道標に向いています。短い名前は近くの人が呼ぶのに向きます。どちらも大切です」

「リネは、リネリアで、リネなの」

「よいお名前です」

リネリアは照れたように紙を胸へ隠した。

その夕方、ヴァルト侯爵家から最初の使者が来た。

使者は屋敷の執事ではなく、アルベルトの側近である若い文官だった。彼は宿の一階で私を見るなり、明らかに困惑した顔をした。侯爵夫人が粗末な宿にいることも、娘が店主と一緒に焼き菓子を選んでいることも、彼の想像から外れていたのだろう。

「奥様。侯爵閣下より、お戻りになるようにとのご命令です」

「命令を受ける立場ではありません。用件は書面で」

「しかし」

「書面で」

文官は封書を差し出した。封蝋にはヴァルトの紋がある。私はその場で封を切らず、名簿局へ提出する書類入れに収めた。

「お読みにならないのですか」

「あとで読みます。返答も書面でします」

「閣下は今夜中のお戻りを望んでおられます。お嬢様の部屋も整え直すと」

その言葉を聞いて、リネリアが私のスカートを握った。

私は娘の頭に手を置く。

「戻りません」

文官は困ったように声を落とした。

「奥様、閣下も反省しておられます。あの、少しだけですけれど」

少しだけ。

その正直さに、怒るより先にため息が出た。

「では、十分に反省してから書面をください」

文官は返す言葉を失った。

彼が帰ったあと、宿の店主が湯気の立つ茶を運んでくれた。リネリアには蜂蜜を薄く溶いた温かい水を出してくれる。

私は封書を開いた。

中には、短い命令文があった。

娘を連れて戻れ。セシリアとミーナの件は一時保留にする。離縁など認めない。

謝罪はなかった。

リネリアの名前を守る、という言葉もなかった。

私はその手紙を写し、原本をしまった。

「アンナ。明日の朝、名簿局と法務官にこれを提出します」

「はい」

「それから、北境への契約書を作りましょう」

リネリアが私を見上げる。

「きたきょう、いくの?」

「行ってみましょう。嫌だったら、また考えればいいわ」

「おかあさまも、アンナも?」

「もちろん」

娘は少し考え、布うさぎを抱き直した。

「じゃあ、リネもいく」

その小さな決意に、私は笑った。

北境からの招待状は、逃げ道ではない。

私たちが自分の名前で歩くための、最初の仕事だった。