作品タイトル不明
第二十九話 鈴を鳴らす救助隊
北巡礼道は、白と灰色の世界になっていた。
春の雪は重い。崩れた斜面から落ちた雪と土が道を塞ぎ、折れた枝が突き出している。空は低く、今にもまた何かが落ちてきそうだった。
救助隊は十人。
テオドール様、領兵、山に詳しい猟師、医師、そして私。私は腰に鈴をつけ、鞄には銀糸、保温布、仮名札、薬草を入れている。
「二次崩落の兆候があれば即撤退する」
テオドール様は全員にそう告げた。
声に迷いはない。人を救うために来たが、救助隊まで失うわけにはいかない。その厳しさも、領主の責任だ。
祠へ向かう道の途中、古い石碑が倒れていた。
そこにはかすれた文字で、白鈴の聖女、と刻まれている。
私は胸の奥が重くなった。
名を持たない子どもを聖女と呼び、鈴だけで識別する。大人たちはそれを清らかだと思っていたのかもしれない。けれど、今その子たちは雪の中で自分の名前を呼ばれることもないまま震えている。
祠の近くまで来ると、猟師が手を上げた。
「これ以上は声を張るな。雪が緩んでる」
大声で呼べない。
それなら、鈴を使うしかない。
私は小さな鈴を手に取り、布で半分包んで音を柔らかくした。
ちりん。
雪の中へ音が落ちる。
反応はない。
もう一度。
ちりん。
遠くで、かすかな音が返った。
風かもしれない。枝が揺れただけかもしれない。
けれど私は、耳の奥でその音を拾った。
「右です」
救助隊は慎重に進んだ。
崩れた祠の屋根が見えた。石の一部が倒れ、入口は雪と土で塞がっている。中に空間が残っているか分からない。
テオドール様が領兵へ指示し、雪を少しずつ掘る。私は鈴を鳴らし続けた。
ちりん。
今度は、確かに返事があった。
鈴の音ではない。
小さな咳。
「中にいます」
掘削が早まる。けれど焦りすぎれば崩れる。私は自分の鼓動を抑えながら、鈴を鳴らした。
「聞こえるなら、動かないで。こちらから行きます」
名前がない子に、どう呼びかければいいのか。
私は言葉を探した。
「鈴の子たち。あなたたちは、ここから出られます。今は返事をしなくてもいい。息をしていてください」
その言葉が届いたかどうかは分からない。
だが、中から小さな泣き声が聞こえた。
やがて穴が開いた。
中には、老女と子ども二人がいた。老女は意識が薄く、腕を怪我している。子どもは五歳くらいの女の子と、七歳くらいの男の子。どちらも首に鈴をつけ、服に名札はない。
女の子は泣いていたが、男の子はぼんやりと鈴を握っていた。
「名前は?」
領兵が尋ねかけ、私は手で制した。
「今は聞かないでください」
名前を持たないよう育てられた子に、いきなり名を尋ねるのは、空の器を叩くようなものだ。
私は女の子へ毛布をかけた。
「寒かったですね。ここから出ます」
「……すず、なくなる?」
女の子が小さく聞いた。
「なくしません。持っていていい」
その言葉で、女の子は少し落ち着いた。
男の子は動かなかった。
私は彼の手元を見た。鈴の紐が手首に食い込んでいる。長く強く握っていたのだろう。無理に外すと恐怖が強くなる。
「その鈴は、あなたの大事なものですか」
反応はない。
でも、手の力がほんの少し増した。
「では、持っていましょう。外へ出るときも、一緒です」
男の子の目が私を見た。
それで十分だった。
救助隊は三人を外へ出した。
老女は医師が担架に乗せる。子どもたちは毛布に包まれ、テオドール様が女の子を、私は男の子を支えた。
その時、山が鳴った。
猟師が叫ぶ。
「二次崩落だ!」
考える時間はなかった。
テオドール様が女の子を領兵へ渡し、私の方へ腕を伸ばした。
「走れ!」
雪と土が上から落ちてくる。足元はぬかるみ、男の子はうまく走れない。私は彼を抱えようとしたが、重さで体勢を崩した。
その瞬間、テオドール様が私と男の子をまとめて引き寄せた。
大きな岩の陰へ押し込まれ、直後に雪が道を叩いた。
轟音。
白い粉。
息が詰まる。
しばらく何も聞こえなかった。
やがて、耳の奥に鈴の音が戻ってきた。
ちりん。
私の腰の鈴ではない。
男の子が握っていた鈴だ。
彼は震えながら、初めて声を出した。
「……いる」
私は彼を抱きしめた。
「ええ。あなたは、ここにいます」
テオドール様の腕が、私たちを守るように岩を突いている。彼の手の甲から血が流れていた。
「怪我を」
「軽傷です。全員無事か?」
彼は自分のことより先に周囲を見た。
領兵たちが声を掛け合う。女の子、老女、医師、猟師。全員が無事だった。
救助隊はゆっくり撤退した。
保護院へ戻ると、リネリアが玄関で待っていた。約束どおり、アンナが止めてくれていたらしいが、娘の目は真っ赤だった。
「おかあさま!」
「ただいま」
私は雪と泥だらけのまま、娘を抱きしめた。
リネリアは泣きながら鈴を鳴らした。
「おかえり、おかえり」
救助された女の子は、その音を聞いて泣き出した。
リンが窓辺から立ち上がり、ゆっくり近づく。
彼女は女の子の鈴に触れ、小さく言った。
「……すず、こわい、でも、いる」
それは、彼女自身の過去にも向けられた言葉だった。
山の祠から、二人の子どもが戻った。
名前はまだない。
けれど、彼らはもう白紙の供物ではなかった。
ここにいる、と言える子どもだった。