作品タイトル不明
第二十七話 白紙の子
その子が保護院に運ばれてきたのは、雨の夜だった。
年は十歳くらい。白に近い銀髪で、肌は透けるように白い。身なりは粗末ではないが、服には名札も家紋もなかった。領兵によれば、北の巡礼道の祠のそばで倒れていたという。
問題は、名前だけではなかった。
その子は、どの呼びかけにも反応しなかった。
マリベルが「お嬢さん」と呼んでも、私が「聞こえますか」と尋ねても、テオドール様が水を差し出しても、目は開いているのに焦点が合わない。恐怖で固まっている子とは違う。まるで、呼びかけが届く入口そのものが閉じているようだった。
「外傷はありません」
医師が診察を終えて言った。
「栄養状態も極端に悪くはない。ただ、名の反応がありません」
名の反応がない。
それは名綴りの世界では重い言葉だ。
人は自分の名、愛称、家族の呼び声、強く結びついた場所の名などに、わずかでも反応する。意識が朦朧としていても、名前だけは届くことがある。
けれどこの子は、何も返さなかった。
私は彼女の服の縫い目を調べた。名札を外した跡はない。最初から名前をつけられていない服のようだった。
テオドール様が低く言った。
「巡礼道の祠は、古い聖女信仰の場所です」
「聖女?」
「かつて名を持たない子どもを神に捧げる風習があったと聞きます。今は禁じられていますが」
私は寒気を覚えた。
名を持たない子ども。
前世で読んだ物語のリネリアは、“名無しの子”として消えていった。あれは物語の悲劇だと思っていた。けれど、この世界には実際に、名を奪うどころか与えない風習があったのか。
少女は寝台に横たわったまま、天井を見ている。
リネリアは部屋の外から見ていたが、いつものように入ろうとはしなかった。何かを感じているのだろう。
「おかあさま、あのこ、からっぽ?」
子どもの言葉は残酷なほど正確だった。
「からっぽではないわ。入口が閉じているだけ」
「おなまえ、どこ?」
「探しているところよ」
少女の仮の呼び方をどうするか、職員たちは迷った。
勝手に名前をつけることは危険だ。けれど呼びかけがないと生活できない。マリベルは「白い子」と呼ぶことを避け、ひとまず「巡礼道の子」と記録した。
私は彼女のそばに座り、呼びかけ以外の反応を見た。
水を飲む。パンを口にする。光を眩しがる。冷たい布を嫌がる。音には反応が薄いが、鈴の音には少しだけまばたきが増える。
夜、リネリアが自分の鈴を持ってきた。
「ならしてもいい?」
「小さくね」
娘は寝台から離れた場所で、手袋につけた鈴をそっと鳴らした。
ちりん。
少女の指が、ほんの少し動いた。
リネリアは目を見開いた。
「おかあさま、きいた?」
「ええ」
「もういっかい?」
「一度だけ」
ちりん。
少女の唇が動いた。
声にはならない。
けれど、何かを探しているようだった。
私は鈴の音と名綴りの反応を考えた。
名ではない。音に結びついた記憶があるのかもしれない。祠、巡礼、祈り。鈴は聖女信仰で使われることがある。
翌日、テオドール様は古い祠の記録を持ってきた。
そこには、禁じられた風習について書かれていた。
名を持たぬ子は、どの家にも属さず、神に属する。
名を与えなければ、俗世の苦しみを受けない。
聖女の器として、白紙のまま育てる。
私は読んでいるうちに、吐き気を覚えた。
名を与えないことを、清らかさと呼ぶ。
子どもが誰かに呼ばれ、返事をし、自分のものを持つ権利を奪っておいて、神聖だと言う。
「この子は、白紙の聖女候補だった可能性があります」
テオドール様の声は重かった。
「聖女制度は廃止されたはずでは」
「表向きは。ですが辺境の古い信仰や、王都の一部の貴族には、今も残っているかもしれない」
王都の一部の貴族。
ダリウスの家名秩序思想と、名を持たぬ聖女信仰。別のものに見えて、根は同じだ。
子ども自身ではなく、大人が決めた役割に合わせて名を奪う。
私は少女の寝顔を見た。
「仮名が必要です。ただし、こちらが押しつけるのではなく、入口になる音を探す」
「鈴ですか」
「ええ。鈴に反応するなら、音から始めます」
リネリアが小さく言った。
「リン?」
私は娘を見た。
鈴の音。
リン。
それは名前のようで、まだ名前ではない。呼びかけというより、音の目印。
「本人が嫌がらなければ、仮の音として使えます」
マリベルが慎重にうなずいた。
私は少女のそばへ行き、鈴を一度鳴らした。
ちりん。
「リン」
少女のまつげが揺れた。
もう一度。
「リン」
今度は、指がわずかに動いた。
名前ではない。
けれど、呼びかけが初めて届いた。
リネリアは息を詰めて見ていたが、やがて小さく笑った。
「リン、きいた」
白紙の子は、まだ自分の名前を持たない。
でも、音への入口が開いた。
私たちはそこから、ゆっくり待つことにした。