作品タイトル不明
第二十五話 名綴り工房を作りましょう
黒インク事件のあと、保護院には近隣の村から相談が増えた。
子どもの名札が古くなった。奉公先で呼び名を変えられそうだ。養子に出すとき、旧名をどう扱えばよいか分からない。戦で焼けた家の洗礼布を直せるか。
すべて私一人で受けるには多すぎた。
マリベルは帳簿を閉じ、はっきり言った。
「工房が必要です」
「工房?」
「保護院内の作業部屋では限界です。名綴り相談、衣類の補修、薬帳の連携、子どもの聞き取り、職員の訓練。専用の場所を作りましょう」
私は返事に詰まった。
工房。
それは私個人の仕事ではなく、場所として名を持つということだ。
「予算は」
「辺境伯様が黒インク対策費として出します」
「テオドール様が?」
「はい。ただし、彼はあなたに相談しなければ怒られると思っています」
「私が怒るのですか」
「ええ。勝手に大きな話を進める人を、あなたは信用しないでしょう」
その通りだった。
私は少し笑った。
数日後、領主館で工房の計画会議が開かれた。
出席者はテオドール様、マリベル、名簿所の新任職員、保護院職員、そして私。リネリアはアンナと文字教室にいる。
「工房の名称はどうしますか」
新任職員が尋ねる。
私は考えた。
北境名綴り工房。保護名相談所。帰名所。
どれも硬い。
テオドール様が口を開いた。
「『名前の家』ではどうでしょう」
あまりに素直な案で、会議室が一瞬静かになった。
マリベルが眼鏡を押し上げる。
「子どもには分かりやすいですね」
「正式名称は北境名綴り工房、通称を名前の家にするのはどうですか」
私が言うと、全員がうなずいた。
名前の家。
家名ではなく、名前が帰れる家。
場所は保護院の隣にある古い洗濯小屋を改修することになった。石壁はしっかりしているし、窓も大きい。中庭から見えるので、子どもたちも不安になりにくい。
改修が始まると、保護院の子どもたちは大騒ぎだった。
ヨナは「俺も釘を打つ」と言い、職人に止められる。ヨハンは木片を種類ごとに分ける手伝いをした。ノルは黒パンの印を工房のどこかに入れたいと言い出し、マリベルに「猫の家ではありません」と言われた。
リネリアは、看板の下絵を描いた。
大きな家と、その中にいくつもの丸。
「このまるは?」
「おなまえ」
「名前は丸なの?」
「ころころ、なくならないように」
よく分からないが、可愛い発想だった。
私はその下絵を元に、看板の端に小さな丸い飾りを入れることにした。子どもの視点は、時々大人の堅苦しさをほどいてくれる。
工房作りの最中、セシリアから手紙が届いた。
王都で刺繍工房の見習いとして働き始めたこと。ミーナが読み書き教室に通い始めたこと。侯爵家から援助の申し出があったが、今は受けていないこと。
そして最後に、こう書かれていた。
もし許されるなら、いつか北境の名前の家で、子どもの名札を縫う手伝いができるようになりたいです。
私はしばらくその一文を眺めた。
セシリアを完全に信用するには、時間が必要だ。彼女は過去に、リネリアの名を奪う側にいた。けれど人は、一度間違えたら永遠に同じ場所にいるわけではない。
私は返事を書いた。
まずはミーナ様の名札を、ご自身の手で縫えるようになってください。その次に、練習布を送ります。名前の家は、急ぐ場所ではありません。
書き終えてから、少し笑った。
私自身にも同じことが言える。
急がなくていい。
侯爵家を出てから、私は走り続けていた。娘を守り、仕事を得て、黒インクを追い、王都へ戻り、審査で戦った。どれも必要だったが、生活には走らない時間も必要だ。
工房の完成祝いの日、リネリアは私の手を引いて看板の前に立った。
北境名綴り工房。
その下に、小さく。
名前の家。
看板の右下には、リネリアの丸い名前たちが彫られている。
「おかあさまのおうち?」
「みんなの名前の家よ」
「リネも?」
「ええ。リネリアの名前も、ここへ来ていい」
娘は看板を見上げ、満足そうに笑った。
テオドール様が隣に立った。
「よい場所になりました」
「ありがとうございます。あなたが予算を出してくださったからです」
「私は必要な支出を承認しただけです。形にしたのはあなたと保護院の人たちです」
その言い方が彼らしくて、私は少し笑った。
開所式は質素だった。
マリベルが短く挨拶し、子どもたちが名呼びをし、最後にリネリアが小さな鈴を鳴らした。鈴の音は高く、春の空へ抜けていく。
名前の家は、こうして始まった。
派手な魔法も、豪華な祝宴もない。
ただ、ほどけた名札を持ってきていい場所。
自分の名前をどう呼ばれたいか、ゆっくり考えていい場所。
それが、私たちの新しい戦いの拠点になった。