作品タイトル不明
第二十四話 リネリアの初仕事
リネリアが初めて自分で縫った名札は、読めるというより、名札になろうとしている布だった。
リ、ネ、リ、ア。
途中の線は曲がり、最後のアは大きすぎる。けれど娘はそれを両手で持ち、満足そうに眺めていた。
「おかあさま、これ、リネの?」
「ええ。リネリアが縫った、リネリアの名札よ」
「へた?」
「初めてだから、初めての形をしているわ」
そう答えると、リネリアは少し考え、納得したようにうなずいた。
「はじめてのかたち」
子どもは、大人の言葉を不思議な場所で宝物にする。
その名札は、リネリアの小さな箱にしまわれた。名綴り箱と呼ぶにはまだ早いが、娘は自分の宝物をそこへ入れている。ミーナからの手紙、ノルが拾った黒パンの抜け毛、ヨハンとヨナがくれた木の実、そしてアルベルトからの手紙。
父親の手紙を捨てずに箱へ入れたことを、私は何も言わなかった。
リネリアが自分で距離を決めている。それが大事だった。
ある午後、保護院に新しい子どもが来た。
三歳くらいの男の子で、街道の荷馬車置き場で迷子になっていたという。泣きすぎたのか声がかすれ、名前を尋ねても答えない。服に名札はなく、靴は片方だけだった。
領兵が連れてきたとき、男の子は誰の手も拒み、部屋の隅で丸くなった。
マリベルは無理に近づかず、毛布と水を少し離れた場所に置いた。
「名前を聞き出そうとしないでください。まずは安全だと分かってもらいます」
職員たちはうなずいた。
私は男の子の服を観察した。襟の裏に、糸を抜いた跡がある。名札を外されたのか、それとも引っかかって取れたのか。布の色や縫い目から、王都方面の既製服ではない。北東の村でよく使われる麻布だ。
リネリアは作業部屋の入り口から、男の子を見ていた。
「おかあさま、あのこ、おなまえ、ない?」
「今は分からないだけよ」
「こわい?」
「たぶん」
リネリアは自分の手袋を見た。うさぎの印がある。
「リネ、すず、ならす?」
「今は大きな音はびっくりするかもしれないわ」
娘は考えたあと、布うさぎのモモを抱えて、男の子から少し離れた床に座った。無理に話しかけない。ただ、同じ部屋にいる。
しばらくして、リネリアは小さく言った。
「モモです」
男の子は反応しなかった。
「リネリアです」
やはり返事はない。
けれど、男の子の目が少しだけ動いた。
リネリアは続けた。
「おなまえ、わかんなくても、ここ、あったかいよ」
私は息を止めた。
娘は誰かに教えられた言葉ではなく、自分が欲しかった言葉をそのまま差し出している。
男の子は毛布へ視線を向けた。
マリベルが小声で言った。
「よい距離です」
私はうなずいた。
大人が近づけば怖がる子も、子どもの存在なら受け入れられることがある。もちろんリネリアを危険にさらすわけにはいかないが、今の距離なら問題ない。
しばらくして、男の子は毛布に手を伸ばした。
リネリアは嬉しそうにしたが、声を上げなかった。よく我慢したと思う。
夕方、男の子は水を飲んだ。
夜には、薄いスープを三口食べた。
名前はまだ分からない。
けれど、彼は部屋の隅から毛布の上へ移動した。それだけで大きな前進だった。
翌朝、名呼びの時間。新しい男の子にはまだ呼ぶ名がないため、マリベルは「昨日来た小さい人」とだけ言った。するとリネリアが手を上げた。
「おへんじ、しなくていい?」
「ええ。まだお返事はしなくていいです」
リネリアは男の子へ向かって言った。
「したくなったら、すればいいよ」
男の子は毛布の中から少しだけ顔を出した。
昼過ぎ、領兵が荷馬車置き場で拾った片方の靴を持ってきた。内側には、泥で汚れた刺繍があった。
エル。
それが名前なのか、名前の一部なのかは分からない。
私は靴を男の子から見える場所に置いた。
「これは、あなたの靴ですか」
男の子はじっと見た。
やがて、小さくうなずいた。
「エル、と呼んでもいいですか」
首を振るかもしれない。泣くかもしれない。私は待った。
男の子は唇を震わせた。
「……エルク」
初めて聞こえた声だった。
リネリアが目を輝かせる。
「エルク!」
男の子はびくっとしたが、逃げなかった。
マリベルが柔らかく呼んだ。
「エルク。ここは保護院です。おかえりなさい、というのはまだ早いかもしれませんが、今夜はここで眠れます」
エルクは毛布を握りしめた。
「おかあ、さん」
その言葉に、部屋の空気が少し痛んだ。
迷子なのか、捨てられたのか、事件なのか。分からない。けれど今は、泣く子に調査の言葉をかける時ではない。
私はエルクの靴の刺繍を補強した。
エルク。
仮名ではなく、本人が口にした名として。
作業が終わると、リネリアが私の袖を引いた。
「おかあさま、リネ、おしごとした?」
「ええ。エルクが怖くないよう、待つ仕事をしたわ」
娘は驚いたように目を丸くした。
「まつのも、おしごと?」
「とても大事なお仕事よ」
リネリアは少し照れたように笑った。
その夜、娘は自分の箱に新しい紙を入れた。
エルク。
私が書き、リネリアが横に小さな丸を描いた。
「わすれないように」
娘はそう言った。
リネリアの初仕事は、針を持つことではなかった。
名前を思い出すまで、そばで待つことだった。