作品タイトル不明
第二十三話 アルベルトの手紙
北境へ戻って十日後、アルベルトからリネリア宛ての手紙が届いた。
法務官を通した正式なものだった。
封筒には、リネリア・ヴァルト様、と書かれている。以前なら家長としての命令文を送ってきただろう彼が、娘に様をつけている。そのぎこちなさが、かえって目に残った。
私は手紙を開けず、リネリアへ見せた。
「お父さまからです。読むかどうかは、リネリアが決めていいわ」
娘は封筒をじっと見た。
「おなまえ、とる?」
「その話はしない約束です。中身を先にお母さまが確認することもできます」
「おかあさま、よんで」
私はうなずき、封を切った。
手紙は短かった。
リネリアへ。
この前は、会えなくて残念だった。お前が怖いと思ったことを、私はよく分かっていなかった。名前のことも、軽く考えていた。すまなかった。今すぐ会ってほしいとは言わない。返事も急がない。元気でいることを願っている。
アルベルト。
完璧な謝罪ではない。
「お前」という呼び方も、父親としての距離感が分からず古い癖のままなのだろう。けれど、命令ではなかった。戻れとも、家のためとも書かれていない。
リネリアは私の声を聞き終えると、しばらく黙った。
「おとうさま、ごめんって?」
「そうね」
「リネ、へんじ、いまじゃなくていい?」
「いいわ」
「じゃあ、あとで」
娘は手紙を布うさぎのモモの下に置いた。捨てもしないし、抱きしめもしない。今のリネリアには、それがちょうどよい距離なのだろう。
私はその判断を尊重した。
午後、保護院では黒インク事件の影響で、新しい安全手順を作っていた。子どもたちの外出記録、名札の定期点検、訪問者の身元確認。大人たちは忙しかったが、マリベルは子どもたちに不安を与えないよう、手順を「迷子にならない練習」として説明した。
リネリアも参加した。
「すずをならす」
「知らない人についていかない」
「名前をちがうふうに呼ばれたら、先生に言う」
子どもたちは声をそろえる。
その中で、マイラが手を上げた。
「もし、いい子は返事しろって言われたら?」
部屋が少し静かになった。
マリベルはゆっくり答えた。
「返事をしなくていい。自分の名前と違う呼び方をされたら、黙って逃げてもいい。大人が怒っても、あなたは悪くありません」
マイラはうなずいた。
その顔はまだ少し不安そうだったが、以前より目に力がある。
訓練のあと、私は子どもたちと一緒に新しい迷子札を作った。札の裏には名前だけでなく、「この子は保護院へ帰ります」と書く。場所を書くことで、名前が誰かの所有ではなく帰る先につながるようにした。
ノルが札を見て言った。
「俺、いつか保護院じゃない場所にも帰るのかな」
「そうしたい?」
「分からない。ここ、嫌いじゃない。でも、ずっとここにいていいのかも分からない」
七歳の少年にとって、それは大きな問いだった。
「帰る場所は、一つでなくてもいいと思うわ。保護院も、将来住む家も、友達のところも。名前を呼んでくれる場所が増えるのは、悪いことではないから」
ノルは考え込んだ。
「じゃあ、俺の名前、たくさん覚えてもらった方がいい?」
「ええ。でも、誰に呼ばれたいかは、ノルが選んでいい」
彼は少し笑った。
「じゃあ、リネリアには覚えててもらう」
「本人に頼んでみたら?」
「言わなくても、あいつ覚えてる」
その言い方が子どもらしくて、私は笑った。
夕方、テオドール様から王都での調査報告が届いた。
ダリウスは正式な処分を受けていない。だが中央局長が調査委員会を立ち上げ、彼の職務権限は一部停止された。黒インクの商会は王都にも拠点を持ち、孤児だけでなく、没落貴族の子どもや奉公に出された子の名も扱っていたらしい。
問題は大きい。
けれど、表に出た。
私は報告書を閉じ、窓の外を見た。
中庭ではリネリアが、ミーナから届いた手紙を読んでもらっていた。ミーナは王都で刺繍の練習を始めたらしい。手紙には、歪んだ糸で縫った「ミーナ」の写真代わりの写しが挟まれていた。
リネリアはそれを見て、自分も糸で名前を縫いたいと言い出した。
アンナが小さな布を用意する。
「リネリア様、針はゆっくりです」
「うん。おかあさまみたいにする」
私は隣に座り、娘の手を支えた。
リ。
ネ。
針目は大きく、不揃いだ。けれどリネリアは真剣だった。
「おかあさま」
「なあに」
「おとうさまのおてがみ、あとで、おへんじする」
「そう」
「リネ、まだあわない。でも、おてがみは、よむ」
「分かったわ」
それは娘自身が決めた距離だった。
私はうなずき、針を持つ小さな手を支え続けた。
誰かを許すかどうかも、会うかどうかも、名前をどう呼ばせるかも。
少しずつ、自分で選べるようになればいい。