作品タイトル不明
第二十二話 リネリアへの手紙
審査が終わった夜、私は三つの杯亭の机で手紙を書いた。
リネリアへ。
お母さまは、今日、名簿局へ行きました。リネリアの名前は守られました。誰かが勝手に別の子へ移すことはできません。リネリアがリネリアでいられるように、たくさんの人が力を貸してくれました。
ここまで書いて、私は筆を止めた。
たくさんの人。
イザベル、テオドール様、セシリア、ミーナ、マリベル、アンナ、三つの杯亭の店主。リネリアの名を守るために、私だけではなく多くの人が関わった。
屋敷を出たとき、私は娘の名前を自分一人で抱え込むつもりだった。夫から守るには、私が強くならなければならないと思っていた。
けれど本当に名前を守るには、呼んでくれる人を増やす必要があるのだ。
私は続きを書いた。
リネリアが待っていてくれたから、お母さまはがんばれました。明後日には北境へ戻ります。帰ったら、手袋のうさぎを見せてください。お母さまも、リネリアに見せたいものがあります。
見せたいものとは、中央名簿局の保護継続証だった。
子どもに証書の意味は難しいかもしれない。でも、リネリアの名前が紙に正式に守られていることを、娘自身に見せたかった。
手紙を封じる前に、テオドール様が部屋を訪ねてきた。
「少しよろしいですか」
「はい」
彼は一枚の書面を持っていた。
「黒インクの調査について、中央局長から正式な協力要請が出ました。私は王都に二日残ります。あなたは先に北境へ戻ってください」
「私も証言が必要では」
「正式な証言は後日で足ります。リネリア様が待っています」
私は反論しかけて、彼の顔を見た。
テオドール様は疲れていた。ここ数日、彼もほとんど休んでいない。けれどその目は揺れていなかった。
「あなたは、いつも娘を優先するよう言ってくれますね」
「私が言わなくても、あなたはそうするでしょう。ただ、責任感で自分を後回しにしすぎることがある」
思わず苦笑した。
「それを領主であるあなたに言われるとは」
「私もマリベルに同じことを言われます」
彼は少し肩をすくめた。
その仕草が領主らしくなくて、私は少し笑った。
沈黙が落ちた。
以前なら、こういう沈黙をすぐ仕事の話で埋めていただろう。けれど今は、疲れた夜に誰かが静かにそばにいることが、悪くなかった。
「エレノア様」
「はい」
「今回の審査で、あなたはリネリア様の名を守りました。同時に、北境の子どもたちの件も中央へ押し上げた。感謝しています」
「私は自分の娘のために動いただけです」
「自分の娘を守る人が、他の子どものことも見捨てなかった。それは簡単なことではありません」
彼の言葉に、胸の奥が温かくなる。
褒められることに慣れていないのだと、今さら気づいた。侯爵家では、できて当然。足りなければ叱責。感謝されるとしても、家の体面のため。
名綴り師として、母として、私自身の行動を認められることは少なかった。
「ありがとうございます」
私は素直に言った。
テオドール様は少しだけ目を細めた。
「北境へ戻ったら、少し休んでください」
「あなたも」
「努力します」
「マリベル院長に報告します」
「それは困る」
私たちは小さく笑った。
翌朝、私はセシリアとミーナに別れを告げた。
ミーナは自分の名前を練習した紙を見せてくれた。ミーナ、と少し大きく書かれている。
「リネリア様に、お手紙を書いてもいいですか」
「リネリアが望めば」
「はい。お返事を待ちます」
その言い方に、私は安心した。
一方的に距離を詰めるのではなく、相手の返事を待つ。それは大人でも難しい配慮だ。
セシリアは私に言った。
「わたしは、しばらく王都で働き口を探します。刺繍なら少しできます。ミーナの祖母が教えてくれました」
「名綴りではなく、装飾刺繍ですか」
「はい。田舎風ですけれど」
「田舎風は、温かい糸です」
セシリアは少し泣きそうな顔で笑った。
「いつか、ミーナの名前を自分で縫い直せるようになりたいです」
「それなら、練習用の布を送ります」
「ありがとうございます」
王都を出る馬車の中で、私はリネリアの手紙を何度も読み返した。
リネは、まっています。
その一文が、帰る場所の印になっている。
北境へ戻る道は、行きよりも短く感じた。
領都の門をくぐると、胸が軽くなった。門の文字が見える。
帰る名を持つ者を迎える。
保護院の中庭では、リネリアがアンナの手を握って待っていた。
馬車が止まる前に、娘は走り出しそうになり、アンナに止められる。私は扉が開くのを待ちきれず、降りるなり膝をついた。
「リネリア」
「おかあさま!」
娘が腕の中に飛び込んできた。
温かい。
少し重くなった気がする。
「ただいま」
「おかえり。リネ、まってた」
「ありがとう。あなたの名前、守れたわ」
私は保護継続証を見せた。
リネリアは難しい文字を読めない。それでも、自分の名前が書かれていることは分かった。
指でなぞる。
「リネリア」
「ええ」
娘は証書を胸に抱いた。
「おかあさま、すごい」
「リネリアが待っていてくれたからよ」
その夜、リネリアは私の隣で眠った。
手をつなぎながら、何度も「おかえり」と言った。
私はそのたびに「ただいま」と返した。
名前を守ることは、帰る言葉を守ることでもあるのだと思った。