作品タイトル不明
第十七話 セシリアの謝罪
セシリアは、保護院の応接室で深く頭を下げた。
「エレノア様。以前のことを、謝らせてください」
彼女の隣に座るミーナは、膝の上で両手を握りしめている。リネリアは私の隣に座っていた。アンナも壁際に控え、マリベルは少し離れた場所で見守っている。
テオドール様は席を外した。これは女性同士、母親同士の話だと判断したのだろう。
私はセシリアを見た。
侯爵家で見た彼女は、儚げで守られることに慣れている女性だった。今も体が丈夫そうには見えない。けれど、その目には以前なかった覚悟があった。
「謝罪を聞きます」
私がそう言うと、セシリアは唇を噛み、言葉を選びながら話し始めた。
「わたしは、アルベルト様に頼ることで安心していました。夫を亡くして、家も傾いて、親戚からは娘を奉公に出せと言われて。侯爵家に迎えていただけるなら、ミーナは守られると思ったのです」
奉公。
その言葉に、私は黒いインクを思い出した。
「でも、そのためにリネリア様のお名前をいただくことが、どんな意味か考えませんでした。ミーナの名前まで軽く扱っていました。母親なのに」
セシリアの声が震えた。
ミーナが小さく言った。
「お母さま、泣かないで」
「泣くのは、わたしが悪かったからよ」
セシリアは娘の手を握った。
「ミーナが、ミーナのままでいたいと言ってくれて、ようやく分かりました。あの子の名前を守るのは、わたしの役目だったのに」
私はリネリアの手を包んだ。
謝罪を受け入れるかどうかは、私だけの問題ではない。リネリアの恐怖がそこにある。
「リネリア」
「なあに」
「ミーナ様と少しお話ししてもいい?」
リネリアはミーナを見た。ミーナも緊張した顔でこちらを見ている。
「おなまえ、とらない?」
リネリアの問いは直接だった。
ミーナはすぐに首を振った。
「とらない。ごめんなさい。ミーナ、リネリア様のお名前、ほしいって言ってない。でも、いやって言わなかった。ごめんなさい」
六歳の子どもが、ここまで言葉にするのは簡単ではなかっただろう。
リネリアはしばらく黙っていた。
「ミーナは、ミーナ?」
「うん。ミーナ」
「リネは、リネリア」
「うん。リネリア様」
リネリアは少し考え、私を見上げた。
「おかあさま、ミーナ、あやまった」
「そうね」
「じゃあ、リネ、だいじょうぶ」
完全に許した、という意味ではないだろう。けれど娘なりに、ミーナ本人が敵ではないと受け止めたのだと思う。
私はセシリアへ向き直った。
「謝罪は受け取ります。ただし、以前のことがなかったことにはなりません」
「はい」
「リネリアを怖がらせた事実も、アルベルト様が名前を奪おうとした事実も、消えません」
「承知しています」
「それでも、ミーナ様の名前を守りたいなら、私は名綴り師として手伝います」
セシリアは目を見開いた。
「よろしいのですか」
「子どもの名前を守ることと、大人の過ちを許すことは別です」
私はミーナの靴下を見た。
祖母が縫ったという刺繍は、何度も触られたせいか少しほつれている。
「ミーナ様。靴下を見せていただけますか」
ミーナは戸惑いながらも、靴下を脱いで差し出した。洗濯はされているが、旅で使ったため少し擦り切れている。ミーナの文字は歪んでいて、けれど温かい。
「良い名綴りです」
「おばあさまが、縫いました」
「愛称のようなものだと言ったのは、誰ですか」
ミーナは少し迷い、セシリアを見た。
セシリアが答えた。
「わたしです。母の縫い方が田舎風で、社交では笑われると思って」
「田舎風でも、子どもを守る糸です」
私はほつれた部分へ針を通した。
ミーナ。
元の文字を崩さないよう、祖母の糸に添うように補強する。美しく整えすぎると、この名札の持つ記憶が消える。少し歪んだままでいい。
縫い終えると、ミーナは靴下を抱きしめた。
「ありがとうございます」
「これは、あなたの名前です。誰かに弱いと言われても、あなたが大事にしていい」
ミーナはこくりとうなずいた。
セシリアは涙を拭き、少し背筋を伸ばした。
「エレノア様。もう一つ、お伝えしたいことがあります」
「何でしょう」
「アルベルト様は、王都の名簿局へ働きかけています。リネリア様の名の一時保護を取り消せないか、と。わたしは詳しく分かりませんが、侯爵家の古い知人に名簿局の高官がいるそうです」
部屋の空気が変わった。
黒いインクの件で、王都の名簿局が関わっている可能性がある。そこへアルベルトが働きかけている。
偶然とは思えなかった。
「その高官の名前は?」
「ダリウス・ベルン。王都中央名簿局の副局長です」
マリベルが低く息を呑んだ。
私はその名を知らなかったが、彼女の反応で重要人物だと分かった。
「セシリア様。なぜそれを私に?」
彼女はミーナの肩に手を置いた。
「わたしは、自分の娘の名前を守りたい。だから、他の子の名前が奪われることにも加担したくありません」
それは償いというより、彼女の最初の自立だった。
夫でも、幼馴染でもなく、娘の母親として選んだ言葉。
私は静かにうなずいた。
「情報をありがとうございます」
リネリアがミーナの靴下を見て言った。
「ミーナのなまえ、かわいいね」
ミーナは驚き、少し笑った。
「リネリア様の名前も、きれいです」
「うん」
リネリアは素直にうなずいた。
その場に、ようやく柔らかい空気が戻った。
大人の過ちは消えない。
けれど子どもたちが互いの名前を認め合えたなら、そこから別の道が始まる。