作品タイトル不明
第十二話 黒いインクの名簿
北境保護院には、月に一度、領都名簿所の出張窓口が来る。
子どもたちの仮名登録、親族調査の進捗、養家候補の確認、薬帳の紐づけ。名簿の仕事は地味だが、子どもの生活の基礎になる。
その日、私はマリベルと一緒に応接室で待っていた。
やって来た名簿官は、王都で会った者より年配の男性だった。名はカール・メイソン。丸い腹と柔らかな笑顔の持ち主で、最初の挨拶だけなら親しみやすい役人に見えた。
「いやあ、辺境伯様の保護院はいつも書類が多い。子どもが多いと名前も多い。大変ですな」
彼は笑いながら台帳を開いた。
私は横からそのページを見て、すぐに違和感を覚えた。
インクが黒すぎる。
普通の名簿用インクは、登録時に青みを帯びる。洗礼名や保護名には微細な魔力を含むため、乾くと深い藍色になるのだ。けれどカールの台帳の一部は、光を吸うような黒だった。
「そのページは、いつの登録ですか」
私が尋ねると、カールは笑顔のまま目だけを動かした。
「去年の冬です。何か?」
「保護名のインクが変色しています」
「古い紙ですからね。北境の湿気は厄介だ」
彼は軽く流そうとした。
マリベルが私を見た。彼女も違和感を持っているらしい。
私は台帳へ手を伸ばす前に、カールへ確認した。
「触れてもよろしいですか」
「名簿師でもない方が?」
「名綴り師として、子どもの衣類と薬帳を照合します。登録名の状態を確認する職務があります」
契約書に入れておいてよかった。
カールは渋々台帳を回した。
黒いインクの欄には、三人の子どもの名前があった。
リタ、ヨハン、マイラ。
いずれも保護院で暮らす子どもたちだ。登録自体は正しい。だが、名前の横に小さな記号がある。家名のない子を一時的に商家や工房へ働きに出す際に使われる、奉公候補の印だった。
「この三人は奉公登録されているのですか」
マリベルの声が低くなった。
「候補ですよ、候補。北境の子どもたちには働き口が必要でしょう。善意の商人が引き取りを申し出ていましてね」
「保護院は同意していません」
「仮登録です。正式ではない」
「仮登録でも、名前に結びつけば子どもへ影響が出ます」
私は黒いインクの部分を指した。
「これは奉公印ではなく、拘束印に近い。誰が使ったのですか」
カールの笑顔が薄くなった。
「奥様。いや、今は名綴り師でしたかな。王都の貴族社会の感覚で、北境の実務に口を出されても困ります」
「子どもの名を拘束することが実務なら、困るのは子どもです」
部屋の空気が張り詰めた。
カールは台帳を閉じようとしたが、マリベルが手を置いた。
「この台帳は確認が終わるまで保護院で預かります」
「それは規則違反です」
「では辺境伯様に判断していただきましょう」
カールの顔色が変わった。
彼は何か言いかけたが、廊下の方から子どもたちの声が聞こえ、口を閉じた。大人同士の争いを子どもの前へ出したくないのは、彼にも分かるらしい。
出張窓口は中止になった。
カールが帰ったあと、マリベルはすぐテオドール様へ使いを出した。私は台帳の黒いインクを薄紙に写し取り、糸の反応を見た。
銀糸を近づけると、わずかに縮れる。
拘束印だ。
子どもの名前を、本人や保護者の同意なく奉公先に結びつけるための古い術式。今では禁じられているが、貧しい村ではまだ使われることがあると聞いたことがあった。
もし正式に発動すれば、子どもは「その店の者」として扱われる。逃げても名簿が戻るよう命じる。悪用すれば、人身売買と変わらない。
私は寒気を覚えた。
リタは夜泣きが減ったばかりだ。ヨハンは月の印を選んだばかりだ。マイラは最近、ようやく食堂で自分の席を決められるようになった。
その子たちの名前が、知らない誰かの帳簿へ売られようとしている。
夕方、テオドール様が保護院へ来た。
彼は台帳を見て、表情を消した。怒鳴りはしない。だが、静かな怒りが部屋の温度を下げるようだった。
「マリベル。該当する子どもたちを今夜から職員棟側へ移す。外部訪問者の出入りは制限。エレノア様、拘束印は解除できますか」
「完全解除には元の契約書が必要です。ただ、発動を遅らせる補強はできます」
「お願いします」
私はうなずいた。
その夜、リタ、ヨハン、マイラの名札を補強した。子どもたちには詳しい事情を話さず、名札の定期点検だと伝えた。
ヨハンは袖の月を見て、私に尋ねた。
「これ、取られない?」
「取らせないために、今から強くするの」
「俺の名前も?」
「ええ」
彼は少し考え、弟のヨナの方を見た。
「ヨナのは?」
「ヨナの星も見ます」
それを聞いて、ヨハンは安心したように腕を差し出した。
作業が終わったのは深夜だった。
テオドール様は最後まで灯りのそばにいた。私が針を置くと、温かい茶を差し出してくれる。
「また厄介ごとに巻き込んでしまいました」
「これは私の仕事です」
「仕事以上の危険があるかもしれない」
「それでも、見つけてしまった以上は放っておけません」
私は黒いインクの写しを見た。
名前は、守るものだ。
けれど名前を扱う者が悪意を持てば、それは鎖にもなる。
この北境で、私が向き合うべきものは、夫の後悔だけではないらしい。