作品タイトル不明
第十一話 初めての給金
北境での一週間は、驚くほど早く過ぎた。
朝は名呼びから始まり、午前中は衣類と薬帳の名綴り、午後は子どもたちの聞き取り、夕方はリネリアの文字練習と食事の手伝い。夜になると、私は作業部屋でその日の記録をつける。
忙しい。
けれど、侯爵家で感じていた息苦しさとは違った。仕事には終わりがあり、終えた分だけ誰かが助かる。できなかったことは翌日に回され、できなかった理由を責めるのではなく、次の方法を考える。
ある朝、マリベルが私に小さな革袋を渡した。
「今月分の前払いです」
中には銀貨が六枚入っていた。
契約では月十二枚。着任直後なので半月分を前払いする、ということらしい。
私は革袋の重さを手のひらで確かめた。
侯爵夫人だった頃、もっと高価な宝石を持ったことはある。けれど、これは私の仕事の対価だ。誰かの妻として、家の一部としてではなく、名綴り師エレノアとして受け取るお金。
胸の奥が熱くなった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。リタの夜泣きが減りました。ヨハンは昨日、自分から洗濯物を畳みに来ました。職員たちも助かっています」
マリベルは淡々と言うが、その言葉は銀貨より重かった。
私は革袋をしまい、その日の夕方、領都の市場へ出た。
リネリアとアンナも一緒だ。リネリアは保護院で借りた小さな毛糸の帽子をかぶり、布うさぎのモモを腕に抱いている。
「おかあさま、おかね、もらったの?」
「ええ。お仕事をしたから」
「リネのおなまえ、ぬったから?」
「リネリアだけではなく、保護院のみんなの名前を縫ったから」
娘は少し考えた。
「おかあさま、すごいね」
その単純な褒め言葉に、私は笑ってしまった。
「ありがとう」
市場で買ったのは、リネリアの手袋用の柔らかい羊毛糸、アンナ用の厚い靴下、私の作業用の針、そして小さな焼き菓子だった。
リネリアは屋台の前で、蜂蜜を塗った丸い菓子を真剣に見比べていた。
「ひとつ選んでいいわ」
「アンナも?」
「アンナも」
「おかあさまも?」
「私も」
娘は三つの菓子を選んだ。自分のものだけ一番大きいものにするかと思ったが、彼女は同じ大きさを三つ選んだ。
「いっしょがいいの」
私たちは市場の端の石段に座り、焼き菓子を食べた。春の北風は冷たいが、菓子は温かい。リネリアは頬に蜂蜜をつけ、アンナが布で拭う。
その光景を見ていたら、ふと前世の記憶がよみがえった。
保育園の帰り道、母親に手を引かれた子どもがコンビニの前で肉まんを食べていた。私は夜勤明けで疲れていて、あの子は今日、親と一緒に温かいものを食べられるのだと思った。その当たり前が羨ましかった。
今、私は娘と市場で菓子を食べている。
大きな幸福ではない。
けれど、守りたかったのはこういう時間だった。
帰り道、テオドール様に会った。
彼は領兵と話をしていたが、こちらに気づくと会釈した。リネリアは口の周りを慌てて拭こうとしたが、蜂蜜はすでに乾きかけている。
「リネリア様、よいお菓子を選ばれましたね」
「おかあさまのおきゅうきんで、かったの」
「それは特別なお菓子です」
テオドール様は真面目にそう言った。
リネリアは誇らしげにうなずいた。
「テオドールさまは、おきゅうきん、ある?」
私は思わず咳き込みそうになった。
アンナが無表情で視線を逸らす。
テオドール様は一拍置いて、真剣に答えた。
「私は領地から俸給を受けています。ただ、使い道を間違えるとマリベル院長に叱られます」
「いんちょう、つよい?」
「とても」
リネリアは納得したようだった。
その夜、私はリネリアの手袋に小さなうさぎを縫った。耳の形が少し不揃いになったが、娘は大喜びした。
「リネのしるし」
「ええ。リネリアのうさぎ」
「おかあさまのしるしは?」
聞かれて、私は少し考えた。
侯爵家にいた頃、私は自分の印を持っていなかった。家紋はヴァルトのもの。妻としての署名は夫の家名。母としての名綴りは娘のため。
私自身の印は何だろう。
「針かしら」
そう答えると、リネリアは首を振った。
「おかあさまは、て」
「手?」
「リネ、こわいとき、おてて、ぎゅってするから」
私はしばらく言葉を失った。
リネリアは自分の手袋を見つめ、満足そうに笑っている。
私の印は、手。
名前を縫う手。娘を抱く手。書類を書く手。戻れと言われた手紙を閉じる手。
その手で、私はこれから生活を作る。
誰かに与えられた席ではなく、自分で働いて得た銀貨で、娘と菓子を買う暮らしを。