作品タイトル不明
第十話 ミーナという名前
ミーナは、侯爵家の廊下が嫌いになっていた。
長くて、広くて、足音が大きく響く。母は「立派なお屋敷でしょう」と言ったが、ミーナには誰かに見張られているように感じられた。壁の絵の中の人たちも、階段の上の騎士の像も、みんな知らない名前を持っていそうで怖い。
ローウェル男爵家の家は小さかった。
祖母の家はもっと小さく、台所にはいつも煮込みの匂いがした。祖母はミーナの靴下に名前を縫うとき、よく歌っていた。ミーナ、ミーナ、うちの光。少し古い歌で、母は田舎くさいと笑ったけれど、ミーナは好きだった。
侯爵様は、その名前を弱いと言った。
侯爵家の令嬢には、もっと良い名前が必要だと。
ミーナは良い名前が何なのか分からない。リネリアという名前はきれいだと思う。あの小さな女の子に似合っていた。だからこそ、それを自分がもらうのはおかしいと思った。
母は最近、よく泣いている。
病気だからではない。侯爵様が母に優しくするたび、母は安心した顔をする。けれど侯爵様がエレノア様の話をすると、母の肩が固くなる。
ミーナは子どもだけれど、分かることもある。
大人は、欲しいものをきれいな言葉で包む。
母は幸せになりたいのだ。父が死んでから、母はいつも不安そうだった。お金の心配、親戚の心配、社交界で忘れられる心配。侯爵様は母の昔の友人で、母にとっては暖かい部屋のような人なのだろう。
でもミーナにとって、侯爵様は少し怖い。
リネリア様が泣きそうだったのに、侯爵様は気づかなかった。
自分の名前を取られそうで怖い、と言えば、侯爵様は同じように気づかないのではないか。
夜、母が眠ったあと、ミーナは靴下を抱いて部屋を出た。
廊下には誰もいない。燭台の火が揺れている。ミーナはなるべく足音を立てずに、リネリア様の部屋だった場所へ向かった。
扉は少し開いていた。
中には、侯爵様がいた。
ミーナは息を止めた。
侯爵様は小さな布を持って立っていた。怒っているようでも、泣いているようでもない。ただ、とても困った顔をしている。
「リネリア」
侯爵様がつぶやいた。
返事はない。
ミーナは思わず、自分の靴下を強く抱いた。
名前を呼んでも返事がない部屋は、こんなに寒い。
そのとき、侯爵様がこちらに気づいた。
「ミーナ。なぜここにいる」
怒られると思った。けれど声は意外に静かだった。
「……ごめんなさい」
「セシリアは?」
「眠っています」
「一人で廊下を歩くな」
ミーナはうつむいた。
手の中の靴下を見られたくなかったが、侯爵様の視線はそこへ落ちた。
「それは何だ」
「靴下です」
「なぜ持っている」
ミーナは答えられなかった。
侯爵様はしばらく黙っていたが、やがて少し膝を折った。目線が近くなって、ミーナは驚いた。
「名前をほどかれたくないのか」
声が出なかった。
それでも、うなずいた。
侯爵様は靴下を見た。祖母の縫った少し歪んだミーナの文字。侯爵家の長女名のように美しくも、古くもない。けれどミーナにとっては、自分が生まれたときからある文字だった。
「なぜ、そう言わなかった」
その問いに、ミーナは胸が苦しくなった。
「お母さまが、しあわせになるって言ったから」
侯爵様の顔が変わった。
「ミーナ」
「でも、ミーナは、ミーナがいいです。リネリア様のおなまえ、きれいだけど、リネリア様のです」
言ってしまうと涙が出た。
廊下で泣いてはいけない。母に心配をかけてはいけない。侯爵様を困らせてはいけない。そう思ったのに、涙は止まらなかった。
侯爵様はひどく不器用に、ハンカチを差し出した。
「泣くな」
命令のような慰めだった。
ミーナはハンカチを受け取らず、自分の袖で涙を拭いた。
「エレノア様が、ミーナのなまえもかわいいって言いました」
「……そうか」
「侯爵様は、リネリア様に、そう言いましたか」
ミーナは言ってから、怖くなった。子どもが大人にこんなことを聞いてはいけないのかもしれない。
けれど侯爵様は怒らなかった。
彼は手の中の布を見た。
「覚えていない」
小さな声だった。
ミーナはその答えが、怒鳴られるより悲しいと思った。
翌朝、ミーナは母に言った。
「お母さま。ミーナは、ミーナのままでいたいです」
セシリアは最初、困った顔をした。
それから、靴下の刺繍を見て、唇を噛んだ。
「そうね」
母はミーナを抱きしめた。
「ごめんなさい。お母さま、少し間違えたわ」
ミーナは母の肩に顔を埋めた。
母が間違えたと言うのを、初めて聞いた。
その日の午後、セシリアはエレノアへ二通目の手紙を書いた。
侯爵家の上質な便箋ではなく、自分の鞄に残っていた薄い紙で。
そこには、こう書かれていた。
ミーナは、ミーナのままでいたいそうです。