軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第19話 ルーヴェル家の崩壊

ミレイユがグレイハルト辺境伯領へ嫁いでから、四カ月近くが経とうとしていた。

ルーヴェル伯爵家の屋敷には、以前のような華やかさはもうない。

廊下に飾られていた花は枯れかけ、花瓶の水も濁っている。

以前なら使用人がすぐに取り替えていたはずだ。

けれど今は、その使用人の数も少なくなっていた。

給金の支払いを遅らせ、少しずつ辞めていく者が増えたからだ。

屋敷の中はどこか薄暗く、空気まで重い。

「どうなっているんだ……」

執務室で、当主のダリウスは書類を机に叩きつけた。

顔色は悪く、目の下には濃い影がある。

苛立ちを隠す余裕もなく、最近は使用人にも怒鳴ることが増えていた。

その隣では、妻のオルガが椅子に座っている。

以前は身なりに人一倍気を遣い、いつも華やかな装いをしていた。

けれど今は、髪の艶もなく、頬も痩せている。

気がかりが多すぎて、まともに食事も喉を通らないのだろう。

モニカも同じだった。

いや、彼女のほうがひどいかもしれない。

赤みがかった茶髪はまだ丁寧に結われているが、以前のような輝きはない。

目元には焦りが滲み、指先は落ち着きなく扇を握ったり離したりしていた。

「お父様……今日も商会から報告が来ているの?」

「報告なら、毎日のように来ている」

ダリウスは吐き捨てるように言った。

「売上が落ちた。契約を切られた。納品が間に合わない。品質に苦情が来た……どれもこれも同じだ」

「そんな……」

モニカは唇を噛んだ。

少し前までは、こんなことはなかった。

ルーヴェル商会は順調だった。

貴族たちから注文が入り、王都でも評判になり、伯爵家としての地位も上がっていくはずだった。

その中心に、自分と婚約者のダニエルが立つ。

モニカは、そう信じていた。

その時、扉が叩かれた。

「入れ」

ダリウスが不機嫌そうに言うと、扉が開く。

入ってきたのは、ダニエルだった。

以前の彼なら、整った金髪を完璧に整え、余裕のある笑みを浮かべていたはずだ。

だが今は、その面影が薄い。

服装こそ上質だが、顔には疲労が滲んでいる。

目元は険しく、口元にも余裕がない。

そして彼自身、誰にも言っていないことがあった。

頭頂部の髪が、少しずつ薄くなってきている。

それが気になって仕方がない。

ルーヴェル商会の商品には、髪に良いと評判だった薬草油があった。

以前は確かに効き目があり、その商品のおかげで契約できた貴族家もあったほどだ。

ダニエルも最近、それを使っている。

だが、効果はなかった。

以前のように髪に艶が戻ることも、抜け毛が減ることもない。

商品そのものの質が落ちている。

それは、自分の頭で嫌というほど思い知らされていた。

「ダニエル様……!」

モニカが縋るように近づく。

以前なら、ダニエルは彼女に優しく微笑み、手を取っただろう。

だが今は、その余裕がなかった。

「モニカ、少し離れてくれ」

「え……」

「報告がある」

その声は硬かった。

モニカは傷ついたような顔をしたが、ダニエルは気にしなかった。

気にしている余裕がない。

彼は机の前に立ち、書類を置いた。

「今月の売上です」

ダリウスがそれをひったくるように取る。

目を通した瞬間、顔色がさらに悪くなった。

「何だ、この数字は……」

「先月よりさらに落ちています」

「そんなことは見ればわかる!」

ダリウスが怒鳴る。

だがダニエルも、もう怯む余裕はなかった。

「王都の店舗は閑古鳥が鳴いています。以前の常連客も戻ってきません。問い合わせが来るのは、返品や返金の件ばかりです」

「なぜだ……なぜここまで……」

オルガが震える声で呟く。

「うちの商品は、貴族たちに選ばれていたはずでしょう?」

「以前は、です」

ダニエルは言った。

「今は違います」

「違うって、何がよ!」

モニカが苛立ったように言う。

「商品は同じでしょう? 瓶も箱も、以前と同じものを使っているはずよ!」

「中身が違うんだ」

ダニエルの声が低くなる。

「香水は香りが浅い。美容品は馴染まない。薬草は効きが弱い。茶葉は渋みが強い。嗜好品も、以前の香りが出ない」

「そんなの、職人たちの腕が悪いだけでしょう!」

「そう言って、何人辞めさせた?」

ダニエルがモニカを見る。

モニカは言葉に詰まった。

温室の管理人。

薬草の加工職人。

香水を調合する者。

全員を責めて、そして何人も辞めていった。

だが、誰を替えても結果は同じだった。

「ルーヴェル商会が抜けた穴を、他の商会が狙っています」

ダニエルは続けた。

「すでに複数の貴族家が、別の商会と契約を結び始めています」

「別の商会……?」

ダリウスが眉を寄せる。

「どこだ」

「いくつかありますが、特に勢いを伸ばしているのはベルマン商会です」

「ベルマン……」

ダリウスの顔が歪んだ。

ダニエルも、その名を聞くだけで苛立つ。

ベルマン商会の会長、エリオット・ベルマン。

人当たりは良いが、抜け目のない商人だ。

ダニエルは昔から、あの男が好きではなかった。

それに、ベルマン商会はグレイハルト辺境伯家と関係が深い。

つまり、ミレイユが嫁いだ先と繋がっている。

そのことも、妙に腹立たしかった。

「ベルマン商会は、うちから離れた貴族たちと次々に契約を結んでいます」

「ふざけた話だ……!」

ダリウスが吐き捨てる。

「うちの客を奪っているのか」

「奪われたというより、こちらが手放した客を拾われている状態です」

「ダニエル様!」

モニカが非難するように声を上げる。

「どうしてそんな言い方をするの?」

「事実だからだ」

ダニエルは疲れたように言った。

もう綺麗事を言っている場合ではない。

「それだけではありません」

「まだ何かあるのか」

ダリウスが睨む。

ダニエルは少し沈黙してから、口を開いた。

「グレイハルト辺境伯領が、栄えているという噂があります」

部屋の空気が一瞬止まった。

モニカが眉をひそめる。

「グレイハルト辺境伯領? あの、魔物だらけの荒れ地でしょう?」

「そうです」

「それがどうしたの?」

モニカの声には、心底わからないという響きがあった。

ダリウスも同じような顔をしている。

「そんな辺境の噂など、今はどうでもいい」

「どうでもよくありません」

ダニエルの声が少し強くなった。

「以前は作物が育たず、冬支度にも苦労していた領地です。魔物被害も多かった。それが今では、作物が多く取れ、他領へ交易に出せるほどになっているそうです」

「……は?」

オルガが怪訝そうに眉を寄せる。

「さらにその作物を使った酒や商品も作り始めている。冬支度も今年は問題ないと聞きました」

「だからどうしたんだ?」

ダリウスが苛立ったように言った。

「辺境伯領が少し持ち直したからといって、うちに何の関係がある」

「なぜわからないんですか?」

ダニエルは思わず声を荒げた。

自分でも抑えきれなかった。

「ミレイユです」

「……」

「ミレイユが行ったから、グレイハルト辺境伯領は栄え始めたんです」

その言葉に、モニカの顔が強張った。

だがすぐに、彼女は強く首を振る。

「そんな馬鹿なこと、あるはずがないわ」

「あるはずがない?」

「そうよ。あの子は雑草令嬢よ。植物をいじるしかできない、地味で役立たずの妹よ」

「その植物をいじる力で、ルーヴェル商会は成り上がっていたんだ」

ダニエルの声が低くなった。

「ここ数年、ルーヴェル商会の売上が伸びたのは何のおかげだった? 薬草も、香草も、茶葉も、美容品も、香水も。どれも植物を材料にしていた」

「それは……」

「そしてミレイユがいなくなった途端、それらは育たなくなった。育っても質が落ちた」

「偶然よ!」

モニカが叫ぶ。

「そんなの、偶然に決まっているわ!」

「偶然で、ここまで全部が崩れるか?」

ダニエルはモニカを睨むように見た。

「管理人も言っていた。以前の種が異常だったと。一日、二日で育つほうがおかしいと」

「でも、今までは育っていたじゃない!」

「だから、それを育てていたのがミレイユだったんだ!」

部屋に、ダニエルの声が響いた。

モニカは目を見開く。

ダリウスも、オルガも、黙った。

認めたくない。

そんな空気が部屋を満たしている。

けれど、ダニエルはもうわかってしまっていた。

認めたくなくても、答えはひとつしかない。

ミレイユの力だ。

あの雑草令嬢と嘲っていた少女こそが、ルーヴェル商会を支えていた。

彼女を手放したから、すべてが崩れた。

このままでは、自分ごと商会は沈む。

代表になったことを、ダニエルは心の底から後悔し始めていた。

数カ月前までは、大きな商会を手に入れるつもりだった。

モニカと結婚し、ルーヴェル商会をさらに大きくして、華やかな未来を得るはずだった。

だが今、自分が手にしているのは、沈みかけた船の舵だった。

「ミレイユを戻す必要があります」

ダニエルは言った。

「何を言っているの?」

モニカが掠れた声で言う。

「あの子を戻す?」

「そうだ」

「嫌よ! あんな子に頭を下げるなんて」

「頭を下げるかどうかの問題ではない」

ダニエルは苛立ちを抑えきれずに言った。

「このままでは破滅するんだぞ」

「だが、ミレイユはグレイハルト辺境伯家に嫁がせた」

ダリウスが重い声で言う。

「もうこちらの都合だけで戻せるものではない」

「まだ正式な婚姻式は済んでいないはずです」

ダニエルは食い下がった。

「今なら、話をつけられる可能性があります。ルーヴェル家の娘です。親が戻れと言えば――」

「……そうだな。あれはうちの娘だ。元々、辺境伯家に嫁がせてやったのもこちらだ。戻れと言えば、戻ってくるだろう」

オルガも少し顔を上げる。

「そうよ。ミレイユは昔から、言われたことには逆らえない子だったわ。きっと戻ってくるはずよ」

「戻ってきたら、温室に入れればいい。以前のように種を管理させる。薬草も香草も育てさせる。そうすれば、商会は立て直せる」

「ええ、連絡を入れましょう。一刻も早く」

「ええ……そうね」

オルガは疲れた顔で頷く。

「ミレイユも、辺境で苦労しているでしょう。実家に戻れるなら、喜ぶはずだわ」

「そうだ。あんな魔物だらけの辺境にいるより、ここへ戻りたいに決まっている」

ダリウスも頷いた。

モニカだけが、悔しそうに扇を握りしめていた。

「あんな雑草令嬢に、下手に出るなんて……」

「下手に出る必要はない」

ダリウスが言う。

「戻れと命じればいい」

「……そうよね」

モニカは自分に言い聞かせるように呟いた。

「あの子は、私たちの言うことを聞くしかないんだもの」

その言葉に、ダニエルは沈黙した。

胸の奥に小さな不安が生まれる。

だが、もう他に道はない。

ミレイユを戻す。

戻して、以前のように働かせる。

それしか、ルーヴェル商会が生き残る道はない。

だが、彼らはまだ知らない。

ミレイユはもう、あの温室に閉じ込められていた雑草令嬢ではない。

グレイハルト辺境伯領で自由を得て、認められ、愛され、自分の価値を知り始めている。

彼女が、ルーヴェル家の命令ひとつで戻ってくる未来など。

もう、どこにも存在しないのだ。