作品タイトル不明
第18話 カインの嫉妬と覚悟
商談がひと段落したところで、ミレイユは席を立った。
「では、私は畑の見回りに行ってきますね」
「ああ。気をつけて」
「はい。今日は食魔植物も、もう少し増やしたいと思っています」
そう言って、ミレイユは少し楽しそうに笑った。
食魔植物を増やす。
普通の令嬢なら、まず口にしない言葉だろう。
今日もまた領地のために動いてくれるのだと思うと、ありがたくて仕方がなかった。
「無理はしないようにな」
「はい。休みながらやります」
「本当だな?」
「……本当です」
少し間があった。
怪しい。
だがイーヤがついているし、兵士にも伝えてある。
俺は小さく息を吐き、彼女を見送った。
ミレイユが応接室を出ていく。
扉が閉まると、部屋には俺とエリオットだけが残った。
先ほどまでエリオットは商会の会長らしい、人当たりの良い笑みを浮かべていた。
だがミレイユがいなくなった途端、その笑みが少し崩れる。
いや、崩れるというより、にやついた。
「いやあ、まさかあのカイン様の嫉妬する姿を見られるとは」
「……何の話だ」
「誤魔化しますか?」
「誤魔化すようなことはしていない」
「ミレイユ様が私と種の話で盛り上がっていたら、手を握っていたではありませんか」
「……」
俺は少しだけ視線を逸らした。
ミレイユとエリオットが楽しそうに話していた。
専門的な種の話で、俺には少しわからない内容だった。
ミレイユは目を輝かせていて、エリオットも楽しそうに頷いていた。
それを見ているうちに、胸の奥が少し落ち着かなくなった。
俺の前で、他の男とあまり楽しそうに話さないでほしい。
そんな感情があった。
言葉にすると、ずいぶん子どもっぽい。
だから悟られたくなかった。
だが結局、手を握ってしまった。
エリオットに見抜かれても仕方がない。
「相変わらず、嫌なところを見ているな」
「商人ですので」
エリオットは楽しそうに笑う。
彼とは学生の頃からの知り合いだ。
元々、彼も辺境伯領の出身だった。
王都へ出て商売を学び、今では大きな商会の会長になっている。
それでも、辺境伯領の冬支度には毎年必ず力を貸してくれた。
利益だけで考えれば、割に合わないことも多かったはずだ。
道は悪い。魔物も出る。運ぶ物資の量に対して、危険が大きすぎる。
それでもエリオットは、赤字になってでも物資を運んでくれた。
俺は彼を信頼している。
商人としても、友人としても。
だからこそ、こうして遠慮なく揶揄ってくるのだろう。
「でも、安心しましたよ」
エリオットは表情を少し柔らかくした。
「カイン様が幸せそうで」
「……にやつきながら言われてもな」
「ふふっ、本心ですよ」
「そうか」
俺は小さく息を吐いた。
「なら、礼を言っておく。ありがとう」
「どういたしまして」
エリオットは満足そうに頷いた。
それから、表情を商人のものに戻す。
「さて。では、少し王都の話をしておきましょうか」
「ああ。到着が遅れた理由だな」
「はい。王都のほうで、少々立て込んでおりまして」
「問題があったと聞いた」
「ええ。ルーヴェル商会の件です」
その名前に、俺は目を細めた。
ルーヴェル商会、ミレイユの実家だ。
「やはり、相当悪いのか」
「悪いですね。はっきり申し上げるなら、破滅に向かっています」
エリオットは淡々と言った。
驚きはない。
俺もすでに、ある程度の情報は掴んでいた。
ミレイユがいなくなってから、ルーヴェル商会の商品は明らかに質が落ちている。
主力だった香水、美容品、薬草、香草、嗜好品。
どれも以前の品質を維持できなくなっているらしい。
量も減っていて、納期も乱れている。
貴族たちが離れ始めるのは当然だった。
「ベルマン商会も取引をやめたのか」
「ええ。こちらに納められる品質ではありませんでしたので」
エリオットは肩をすくめる。
「それに、他の貴族家からも声がかかりましてね。ルーヴェル商会から手を引いた家々が、代わりの取引先を探しています」
「それで王都での仕事が増えたのか」
「はい。ありがたい悲鳴ではありますが、そのせいでこちらへの到着が遅れてしまいました」
「問題ない。今年は余裕がある」
「そのようですね。領都を見て、納得しました」
エリオットは窓の外へ視線を向ける。
外には、雪の残る庭と、その向こうの畑が見えていた。
冬だというのに、畑には緑がある。
以前のグレイハルト辺境伯領では考えられなかった光景だ。
「それで、ルーヴェル商会は立て直せそうなのか」
「ほぼ不可能でしょう」
エリオットは即答した。
「信用が落ちました。納期遅れだけならまだしも、品質の低下は致命的です。特に貴族相手の商売では」
「そうだな」
「しかも、代替品を他所から買い集めているようですが、それではルーヴェル商会の商品ではなくなります。以前の顧客は気づきますよ」
当然だ。
ルーヴェル商会の強みは、ミレイユが育て、整えた植物だった。
同じ種でも、彼女が魔法をかけたものと、そうでないものではまるで違う。
それを、ルーヴェル家は理解していなかった。
いや、理解しようとしなかったのだろう。
「実は、私も不思議だったのです」
エリオットが言った。
「なぜ、ルーヴェル商会が急にここまで落ちたのか。あまりに不自然でした」
「……」
「ですが今日、領都を見て、ミレイユ様と話して、わかりました……ミレイユ様ですね?」
「ああ」
俺は頷いた。
「ルーヴェル商会が落ちたのは、ミレイユを手放したからだ」
「やはり」
「俺も、まさか本当に何の対策もなく手放したとは思わなかった」
今でも信じがたい。
これほどの力を持つ者を、役立たずと呼び、追い出した。
商会の基盤そのものだった人間を、不要だと切り捨てた。
あまりにも愚かだ。
だがその愚かさのおかげで、ミレイユはここへ来た。
そのことだけは、感謝してもいいのかもしれない。
ルーヴェル家にではなく、巡り合わせに。
「今回の商談で、ミレイユ様が作った作物や商品は、うちを通して外へ出ることになります」
エリオットが言う。
「そうなれば、気づく者も出るでしょうね」
「ルーヴェル商会の商品と似ている、か」
「似ているどころではないでしょう。以前より質が良ければ、なおさらです」
「……」
「ルーヴェル商会の金の卵が誰だったのか。ミレイユ様がグレイハルト辺境伯家へ移ったのだと、気づく者は気づきます」
エリオットの声は慎重だった。
「それは、外に知られても問題ありませんか?」
「もちろん、問題ない」
俺は迷いなく、はっきりと言った。
「ミレイユは辺境伯家の者で、俺の妻だ。誰にも渡すつもりはない」
エリオットが一瞬、目を丸くした。
それから、ゆっくり笑う。
「まだ婚姻式はこれからでは?」
「いずれそうなる」
「なるほど」
エリオットは楽しそうに頷いた。
「では、そのように扱いましょう」
「ああ。頼む」
「カイン様がそのように想える相手と一緒になれたことを、嬉しく思いますよ」
「……大げさだ」
「そうですか?」
「そうだ」
少しだけ、気恥ずかしかった。
だが、否定はできない。
ミレイユは、もう俺にとって特別な存在になっている。
辺境伯領にとって必要だから……それだけではない。
俺自身が、彼女をそばに置いておきたいと思っている。
その後、細かな商談を終え、エリオットは屋敷を出た。
去り際にも彼はにやりと笑う。
「次に来る時は、ミレイユ様に珍しい種をたくさん持ってまいります。カイン様が嫉妬しない程度に」
「余計なことを言うな」
「失礼いたしました」
まったく反省していない顔で、エリオットは去っていった。
夕食前、ミレイユが屋敷へ戻ってきた。
廊下の向こうから、彼女の声が聞こえる。
「ただいま戻りました」
振り返ると、ミレイユが立っていた。
外套には少し雪がついている。
髪も少し乱れていて、頬は寒さで赤い。
そして彼女の周りには、土と草の匂いがあった。
ミレイユらしい匂い。
彼女が今日も畑で植物に触れてきた証だ。
その姿が、たまらなく好ましかった。
「おかえり、ミレイユ」
「はい、カイン様」
彼女は笑った。
少し疲れているけれど、満足そうな笑みだった。
俺は彼女の前に立ち、自然と手を取った。
細い手が冷えている。
俺はその手を包み、手の甲に唇を落とした。
ミレイユの肩が小さく跳ねる。
「カ、カイン様……」
「冷えていたからな」
「そ、それは理由になりますか?」
「なるさ」
俺がそう言うと、ミレイユは困ったように目を伏せた。
頬が赤い。
寒さのせいだけではないだろう。
その反応が、どうしようもなく可愛い。
「夕食にしよう」
「は、はい」
彼女はまだ少し恥ずかしそうにしていた。
俺はその手を離さず、食堂へ向かう。
ミレイユは少し驚いたようだったが、振りほどくことはしなかった。
そのことが、ひどく嬉しかった。
土と草の匂いをまとった、俺の可愛い婚約者。
誰にも渡すつもりはない。
改めてそう思いながら、俺は彼女の手を少しだけ強く握った。