作品タイトル不明
第17話 辺境伯夫人の自覚と、商人の来訪
食魔植物を作ってから、一週間ほどが経った。
その間、領都内の畑で魔物の被害は出ていない。
冬のこの時期になると、グレイハルト辺境伯領では魔物の被害が増えるらしい。
雪が積もると、森や山のほうでも餌が減る。
そのせいで魔物が城壁を越えて領都の中へ入り込み、わずかな作物を狙うこともあるのだと聞いた。
魔物は昼夜関係なく動く。
夜間に侵入されれば、兵士の方々がどれだけ見回っていても、すべてを防げるわけではない。
作物だけで済めば、まだいいほう。
畑を荒らされるだけではなく、領民の方々が怪我をすることもあったらしい。
けれど今のところ、食魔植物を置いた畑では被害が出ていない。
もちろん、別の問題はある。
「朝起きたら、食魔植物が魔物を食べていて腰を抜かした者がいるらしい」
朝食の席で、カイン様がそう言った。
「……それは」
私は茶器を持ったまま、少し考える。
食魔植物は魔物を食べる。
そのために作ったのだから、正しく働いてくれている。
ただ朝から魔物を食べている場面を見たら、驚くのも無理はないかもしれない。
「慣れていただくしかないですね」
「まあ、それしかないな」
カイン様が苦笑する。
「だが、魔物を防げているのは確かだ。領民からも、最初は驚いたが助かっているという声が多い」
「それならよかったです」
見た目は少し怖いかもしれないけれど、食魔植物はきちんと畑を守ってくれている。
領民の方々が大切に育てた作物を、守ってくれているのだ。
ただ、領都内だけで満足するわけにはいかない。
魔物の被害があるのは、領都だけではない。
むしろ、城壁がない町や村のほうが深刻だろう。
できるだけ早く、食魔植物を辺境伯領内の町や村にも配りたい。
ただ、種に魔法をかけて送るのとは違う。
食魔植物は一つずつ魔化させなければならない。
魔化は魔力も使うし、調整も難しい。
それでも、やらないといけないと思った。
その日の夜。
私はいつものように、カイン様の部屋でハーブティーを飲んでいた。
最近は、少しだけお酒を飲む日もある。
でも今日は食魔植物の調整について考えたかったので、ハーブティーにした。
カイン様と並んでソファに座り、私は領内の地図を眺める。
「まずは魔物の被害が多い町や村から、食魔植物を送ったほうがいいと思うんです」
「そうだな。北の村と森沿いの集落は優先したい」
「はい。あとは、畑の広さによって必要な数も変わりますよね」
「……ミレイユ」
カイン様が静かに私の名を呼んだ。
「はい?」
「そこまで辺境伯領のためにしてくれるのはありがたい。だが、無理はしていないか?」
「無理、ですか?」
「ああ。食魔植物を魔化させるのは、かなり魔力を使うのだろう」
「それは、そうですね」
嘘はつけない。
五十草ほど魔化させた日は、さすがに疲れた。
でも、できないほどではない。
「大丈夫です。休みながらやれば問題ありません」
「君は、植物のことになると休みながらの意味を忘れることがあるが」
「……少しだけです」
「少しではない」
カイン様の声は優しい。
でも、心配しているのがわかった。
「君は、自分のために植物を育ててもいいんだ」
「え?」
「領地のためになるものばかりでなくていい。君が育てたいものを育てればいい。ここでは、それを咎める者はいない」
その言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
きっとカイン様は、私が実家で自由に植物を育てられなかったことを案じてくれているのだ。
金になるものだけを育てろと言われていたこと。
好きに試すことも、見たことのない植物を育てることも許されなかったこと。
それを知って、こうして言ってくれている。
優しい人だ、本当に。
そういうところが、好きだと思う。
「ありがとうございます、カイン様」
私は地図から顔を上げて、カイン様を見た。
「でも私は、楽しく自由に植物を育てていますよ」
「そうか?」
「はい。食魔植物も、私が作りたいと思って作ったものです。畑を守りたかったから。領民の方々が育てた作物を守りたかったから」
私は自分の手を見つめる。
土に触れて、種を植えて、魔力を流してきた手。
「それに、私はグレイハルト辺境伯家の夫人ですから」
そう言うと、カイン様が少し目を見開いた。
私は続ける。
「辺境伯領のために。カイン様がずっと守ってきた領民の方々のために働くのは、当たり前です」
「……」
カイン様はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり目を細める。
嬉しそうな、けれど少し泣きそうにも見えるような。
そんな優しい笑みだった。
「ああ」
カイン様は私の手を取った。
「ありがとう」
「カイン様?」
「君がグレイハルト辺境伯家に嫁いでくれて、本当に心の底から嬉しく思う」
低い声が、近くで響く。
「辺境伯領を治める者としても……個人的にも」
その言葉に、胸が跳ねた。
すると、カイン様は私の手の甲へ唇を落とした。
「……っ」
時々される仕草だ。
前にも何度かあった。
でも今日は、なんだかいつもよりずっと胸が騒がしかった。
手の甲に残った温かさが、なかなか消えない。
「ミレイユ?」
「あ、いえ……」
私は慌てて視線を逸らした。
「今日は、少し早めに休みます」
「ああ。そのほうがいい」
その日はお酒を軽くにして、自室に戻った。
けれど寝台に入ってからも、カイン様の言葉と笑みが頭から離れなかった。
結局、その夜は眠りにつくまで少し時間がかかった。
――それから数日後。
領都に、大きな商会の商人がやってくる日が来た。
ベルマン商会。
毎年、冬の前になるとグレイハルト辺境伯領へ物資を運んでくる商会らしい。
食料、日用品、薬、布、道具。
辺境伯領で不足しがちなものをまとめて運んでくれるため、これまでは冬支度に欠かせない存在だったという。
ただ今年は、少し到着が遅れた。
王都のほうで何か問題があって、出発が遅れたらしい。
いつもなら大変なことだったのだろう。
けれど今年は、小麦も野菜も薬草もある。
カイン様は、無理に急がなくても構わないと商会に連絡したそうだ。
「今年は、ベルマン商会に頼らずとも冬を越せる」
カイン様がそう言った時、私は少しだけ不思議な気持ちになった。
私が育てた植物が、この土地の冬支度を変えたのだ。
その実感は、まだ少し遅れてやってくる。
その日の午後、ベルマン商会の会長が屋敷へやってきた。
「どうもどうも、お久しぶりでございます、カイン様」
名前は、エリオット・ベルマン。
黒髪の男性で、年齢はカイン様より少し上だろうか。
穏やかな笑みを絶やさず、柔らかな物腰をしている。
「いやはや、驚きました」
応接室で向かい合って座ると、エリオット様は笑顔でそう言った。
「屋敷に来るまでの領都内を見て、本当に驚きましたよ。雪の時期だというのに、畑に作物が育っている。それも、かなり状態がいい」
「すべてミレイユのおかげだ」
カイン様がすぐに言った。
私は思わず背筋を伸ばす。
「カイン様……」
「事実だろう」
「それは……そうかもしれませんが」
面と向かって言われると、やっぱり照れる。
エリオット様は私のほうを見て、にこりと笑った。
「あなたがミレイユ様ですね。噂はかねがね。エリオット・ベルマンと申します。以後、お見知りおきを」
「ミレイユ・グレイハルトです。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
グレイハルト。
そう名乗るのは、まだ少しだけ慣れない。
でも嫌ではない。
むしろ胸の奥が少し温かくなる。
商談は、穏やかに始まった。
今年必要になるもの。
来年以降、定期的に仕入れたいもの。
カイン様が必要なものを伝えていく。
私は隣で聞きながら、時々質問をした。
そして話が一段落したところで、カイン様が言った。
「それから、ミレイユのために植物の種も欲しい」
「種、でございますか」
「ああ。できるだけ多くの種類を」
「カイン様……!」
思わず声が出た。
カイン様は優しい笑みで頷く。
「君のお陰で資金も潤沢に余っているしな」
「ありがとうございます!」
とても嬉しい。
新しい種、まだ見たことのない植物。
それを育てられるかもしれないと思うと、胸が弾む。
エリオット様は微笑んだまま、持っていた帳面を開いた。
「かしこまりました。では、具体的にはどのような種をお探しでしょうか?」
「ええと、寒さに強い香草があれば嬉しいです。あとは、乾燥に強い薬草。根に栄養を溜める種類も気になります。それから、花の蜜が多い植物も探しています」
「花の蜜、ですか」
「はい。お酒や菓子に使えないかと思いまして」
「なるほど。それなら南方で扱っている蜜花草がございます。寒さには弱いですが、室内で育てるなら可能かもしれません」
「蜜花草……! どんな花ですか?」
「小さな白い花で、甘い香りが強いです。蜜は少量ですが、香り付けには向いております」
「見てみたいです」
「では、次回の荷に少量お入れしましょう。他には――」
そこから、私とエリオット様は種の話で少し盛り上がった。
寒冷地でも育つ豆。
香りの強い花。
虫を避ける葉。
私はつい、前のめりになって質問してしまう。
「その豆は根に栄養を残しますか?」
「ええ、土を少し良くすると聞いております」
「では、小麦の後に植えるといいかもしれませんね」
「なるほど。そういう使い方もありますか」
エリオット様は楽しそうに頷いた。
その時だった。
ふいに、膝の上に置いていた私の手に、温かいものが重なった。
「……っ」
カイン様の手だった。
驚いて隣を見ると、カイン様は穏やかな顔をしている。
けれど、その手は私の手をしっかり握っていた。
「カ、カイン様?」
「俺にもわかるように言ってくれ」
「あ……」
そう言われて、私ははっとする。
たしかに、専門的な種の話ばかりになっていた。
カイン様にはわかりにくかったかもしれない。
「し、失礼しました」
「いや、楽しそうなのはいい」
カイン様はそう言った。
でも、手は離してくれない。
商談中なのに、手を繋いでいる。
それに気づくと、急に心臓が騒がしくなった。
エリオット様は一瞬だけ、含みのある笑みを浮かべた。
けれど、何も言わない。
何も気にしていないような顔で、帳面に視線を戻した。
私はどうしても繋がれた手が気になってしまう。
カイン様の指が、私の手を包むようにしている。
力は強くない。
でも、離す気はなさそうだった。
その後も商談は続いた。
エリオット様は終始穏やかで、こちらの話をよく聞いてくれた。
けれど私は、半分くらい手の温かさに意識を持っていかれていた。
カイン様は、商談が終わるまで私の手を離してはくれなかった。
……いや、離してくれなかった、という言い方は少し違うかもしれない。
私も、離そうとはしなかったのだから。