作品タイトル不明
第13話 カインと酔ったミレイユ
ミレイユが、思いのほか酔ってしまった。
夕食の時には、麦酒を普通に飲んでいた。
ごくごく、というほどではないが、香りがいいだの、後味がすっきりしているだの、楽しそうに話しながら杯を傾けていた。
顔色もそこまで変わっていなかったし、受け答えもしっかりしていた。
だから、問題ないと思ったのだが。
まさか、今日が初めての酒だったとは思わなかった。
知っていたら、晩酌には誘わなかった。
少なくとも、ここまでいろいろ飲ませはしなかった。
ミレイユがルーヴェル家で雑草令嬢と呼ばれ、あまり大切にされていなかったことは知っている。
食事もまともに楽しめなかったことがあるらしい。
それを考えれば、酒を飲んだことがない可能性くらい、考えられたはずだ。
だが、今さら悔やんでも遅い。
「なんだか、部屋が少し揺れています」
ミレイユが、不思議そうに首を傾げた。
「揺れていない」
「そうですか?」
「ああ。完全に酔っているな」
「酔って……」
彼女は自分の頬に手を当てた。
頬は赤い。
目も少し潤んでいて、いつもより焦点が柔らかい。
これは、これ以上飲ませてはいけないな。
そう思った時には、ミレイユは目の前の果実酒の杯を手に取っていた。
「ミレイユ、それは――」
「ふぅ……ふふ、美味しい」
止めるより早く、彼女は一口飲んだ。
そして、頬を緩める。
その笑みは、普段よりもずっと無防備だった。
嬉しいものを見つけた子どものようで、それでいて、ひどく柔らかい。
こちらを信じ切っているような笑顔。
胸が、妙に強く鳴った。
彼女は酔うと、こうして笑うのか。
ほとんど見たことがない顔だった。
「カイン様は、飲んでます?」
ミレイユがこちらを見る。
とろんとした目だった。
何というか、直視するとかなりまずい。
「飲んでいるよ」
「何を飲んでるんですか?」
「ブランデー。少し強めの酒だ」
「私も飲んでみたいです!」
「駄目だ」
即答した。
「これは強い酒だから、今のミレイユには飲ませられない」
「……ちょっとだけ」
「駄目だ」
「……カイン様のケチ」
ミレイユが上目遣いでそう言った。
責めているのだろうが、声に力はない。
むしろ甘えるような響きが混じっている。
俺は一瞬、息を詰めた。
これは、いけない。
理性に悪い。
「ケチで構わない」
「むぅ……」
「そんな顔をしても駄目だ」
彼女は何がおかしいのか、くすくす笑った。
可愛いから許してしまいそうになるが、俺はそっと彼女の前から杯を遠ざけ、水を置く。
「こっちを飲め」
「水ですか?」
「水だ」
「お酒じゃないんですね」
「ああ、水を飲んでほしいからな」
「ふふっ」
ミレイユは素直に水を飲んだ。
俺たちはソファに並んで座っていて、最初は少し距離があったはずだ。
だが、酔ったミレイユはいつもより距離感が近い。
水を飲み終えると、当然のようにこちらへ身を寄せてきた。
肩が触れる。
髪が揺れる。
彼女から、いつもの草と花のような香りがした。
そこに果実酒の甘い匂いが少し混じっている。
……まずい。
俺はゆっくり息を吐いた。
ミレイユは、この辺境伯家に来てからよく食べ、よく笑うようになった。
最初に来た時は、線が細く、どこか疲れた印象があった。
今は違う。
頬には血色がある。
髪にも艶が出た。
畑を歩く時の足取りは軽く、植物の話をする時の目はよく輝く。
率直に言えば、綺麗になった。
女性として、はっきり魅力的になった。
本人はまったく気づいていないようだが。
領都内を彼女が畑を見て回る時、領民の男たちが時折、妙な視線を向けていることにも気づいていないのだろう。
それを防ぐために、最近は俺が一緒に畑を見に行くことが増えた。
ミレイユには言っていない。
俺が嫉妬しているだけだから。
ただ一緒に行くと言うと、彼女は嬉しそうに笑う。
それで十分だった。
「カイン様」
「何だ?」
「私、本当にグレイハルト辺境伯領に来られてよかったです」
酔った声だった。
けれど、言葉は真っ直ぐだった。
俺は思わず彼女を見る。
「ここでは自由に植物を育てられて、楽しくて、領民の皆様もいい人ばかりで、イーヤも優しくて……」
ミレイユは指を折るように、ひとつひとつ数えていく。
「雪は寒いですけど。でも、小麦も育ちましたし。畑も増えましたし。薬草もいろいろ試せますし。お酒も作れましたし」
「ああ、そうだな」
「毎日、明日は何をしようかなって考えるのが楽しいんです」
その言葉が、胸の奥に沈んだ。
酔っているからこそ、本音なのだろう。
そう思うと、なおさら嬉しかった。
この土地を嫌って逃げた者はいた。
こんな荒れた地では生きていけないと言われたこともある。
だが彼女は……ここに来られてよかったと言う。
それだけで、何かが救われる気がした。
「そうか、そう言ってくれて嬉しい」
俺がそう言うと、ミレイユはふわりと笑った。
「本当です」
「ああ。わかっている」
「それに、カイン様も私の理想の旦那様で……」
心臓が跳ねた。
「……理想?」
声が少し上擦った気がする。
情けない。
「はい」
「ミレイユの、理想とは?」
ミレイユは少し考えるように首を傾げた。
それから、にこりと笑う。
「植物を自由に育てても、何も言わない人です!」
「……そう、か」
俺は思わず肩の力が抜けた。
最低限ではないか。
それは理想というより、ただ彼女を邪魔しないだけだ。
いや、ルーヴェル家ではそれすら許されなかったのだろう。
そう考えると、笑っていいことではない。
だが、拍子抜けしたのは確かだった。
「そんなことでいいのか」
「そんなことじゃないです。とても大事です」
「そうか」
「はい。それに」
ミレイユはまた少しこちらに体を寄せた。
近い。
顔が近い。
「カイン様は素敵で、格好よくて」
「……」
「笑うと、くしゃっとなるところが可愛くて」
「可愛い?」
「はい、可愛いです」
真顔で言われた。
いや、酔っている顔だが、本人は真面目らしい。
「あと、優しいです。すぐ無理するなって言ってくれますし。私が作ったものを美味しいって言ってくれますし。手も温かいですし」
下げられたと思ったら、急に上げられた。
しかも、本人にはその自覚がない。
顔が熱くなる……これはずるいな。
「だから……私の理想を超えていて……」
ミレイユの声が、少し小さくなる。
潤んだ瞳で見上げられた。
俺は息を止めた。
「ミレイユ……」
「カイン様……」
彼女は、ゆっくり目を閉じた。
その意味を、考えないほど鈍くはない。
唇が、すぐそこにある。
酒に赤くなった頬。
柔らかそうな髪。
草と果実酒の甘い香り。
俺は、しばらく動けなかった。
その時――。
「……すぅ」
寝息が聞こえた。
「……」
寝た。
ミレイユは、目を閉じたまま、そのまま眠ってしまっていた。
俺はしばらく固まったままだったが、思わず小さく笑う。
「……そうか」
残念な気持ちがないと言えば嘘になる。
だが、安堵もあった。
酔っている彼女に、勢いで口づけなくてよかった。
ちゃんと彼女が覚えている時に。
彼女が、自分の意思でこちらを見ている時に。
そういう形でなければ、きっと後悔する。
ミレイユは俺の肩に寄りかかったまま、静かに寝息を立てている。
完全に眠っているから、このまま座らせておくわけにはいかない。
「ミレイユ」
呼んでも返事はない。
俺は彼女の体を支え、そっと横抱きにした。
軽い。
以前より健康的になったとはいえ、まだ軽い。
もっと食べさせなければ、そんなことを考えながら寝台へ運ぶ。
彼女を下ろし、布団を掛ける。
酔って赤くなった頬に、蜂蜜色の髪が少しかかっていた。
それを指でそっと避ける。
眠っている顔は、いつもより幼く見えた。
無防備で、安心しきっている。
胸の奥が、ひどく柔らかくなる。
「おやすみ、ミレイユ」
小さく呟く。
返事はない。
彼女はすやすや眠っている。
俺は少し迷ってから、彼女の額に唇を落とした。
「私の可愛い可愛い、お嫁さん」
声に出してから、少しだけ恥ずかしくなった。
だが、眠っている彼女には聞こえていないだろう。
――最初は何も期待していなかった。
逃げなければいいと思っていた。
それなのに今は、彼女がここにいてくれることが当たり前になりつつある。
いや、当たり前ではない。
大切なことだ。
グレイハルト辺境伯領にとっても、俺にとっても。
俺は寝台のそばを離れ、ソファに腰を下ろした。
今夜はここで眠ることにしよう。
少し体は痛くなるだろうが、それくらいは構わない。
寝台では、ミレイユが小さく寝返りを打った。
そして、かすかに笑ったように見えた。
俺は思わず口元を緩める。
酔った彼女には、今後気をつけなければならない。
だが少しだけ、また見てみたいと思ってしまったことは、内緒にしておこう。