作品タイトル不明
第12話 ミレイユ、初めてのお酒
お酒造りを始めてから、三週間が経った。
領都で酒造りに詳しい人を呼んでもらって話を聞くと、小麦でもいろいろなお酒が造れるらしい。
ただ、奥が深い。
時間がかかるものも多いし、温度の管理や、発酵の具合も大切だという。
植物を育てるのと少し似ている。
同じ材料でも、環境や手の入れ方で結果が変わる。
それを聞いた時点で、私はかなり興味を持ってしまった。
ただ、今回は最初の試みということで、比較的作りやすい麦酒を造ることになった。
領都内の職人の方に来てもらい、小麦を用意し、道具を揃え、場所も整える。
準備するものは思ったより多かった。
でも今年は、小麦のおかげで冬支度に使う予定だった資金がかなり残っている。
カイン様が言うには、その一部を使えば十分足りるとのことだった。
それも少し嬉しかった。
私が育てた小麦が、冬の食糧だけでなく、新しいものを作る準備にも役立っている。
そう思うと、胸の奥がふわっと温かくなる。
そして三週間後。
ついに、麦酒ができた。
「泡立ちがよく、すっきりとした味わいが特徴だそうです」
夕食の前、イーヤがそう説明してくれた。
「すっきり……」
私は運ばれてきた小さな樽を見つめた。
麦酒。
小麦からできたお酒。
正直、味はまったく想像できない。
私は十八歳で、二年ほど前からお酒を飲める年齢ではある。
けれど、これまで飲んだことはなかった。
実家では食事も最低限だったし、お酒を楽しむような余裕もなかった。
そもそも私が食卓で長く過ごすこと自体、ほとんどなかったのだ。
だから、今日が初めてのお酒になる。
夕食の席には、麦酒用の杯が用意されていた。
カイン様は今日、仕事をほとんど終わらせてから来てくれたらしい。
私も畑と薬草の確認は早めに済ませてある。
今日は、夕食を食べながら麦酒を試す日だ。
「では、乾杯しようか」
カイン様が杯を持ち上げる。
私も慌ててそれに倣った。
「はい」
「新しい特産品候補の完成に」
「ええと……小麦たちの頑張りに」
そう言うと、カイン様が少し笑った。
「君らしいな」
杯が軽く触れ合い、小さな音が鳴る。
私は麦酒をそっと口に運んだ。
最初に感じたのは、香りだった。
麦の香ばしさ。
少しだけ青いような、でも優しい香り。
それから、舌に触れた瞬間、細かな泡が広がった。
少し苦い。
けれど、その苦みの後にすっきりした味が残る。
思っていたより、飲みやすい。
「……美味しい」
思わず呟いた。
「少し苦みがありますけど、香りがよくて、後味がすっきりしています」
「そうだな。初めて造ったにしては、かなり出来がいいな」
カイン様も一口飲み、頷いた。
「他の麦酒と比べても、香りが強い。雑味も少ない。これは美味い」
「本当ですか?」
「ああ。やはり、君が育てた小麦だから違うんだろう」
「そんなことはないですよ」
そう言いながら、私は照れ隠しにもう一口飲んだ。
冷たい麦酒が喉を通る。
体の中が少し温かくなるような気がした。
なるほど、これがお酒。
少し不思議な感じだ。
「でも、本当に小麦からお酒になるんですね」
「そこからか」
「はい。薬草酒や果実酒は知っていましたけど、小麦はパンの印象が強くて」
「麦酒は比較的飲みやすい酒だ。保存もしやすいし、量も作れる」
「他にもいろいろなお酒があるんですよね」
「ああ。果実酒、蒸留酒、薬草酒、蜂蜜酒……地域によってかなり違う」
「面白そうです」
「飲んでみたいのか?」
カイン様が少し意外そうに尋ねた。
私は即答する。
「いえ、作ってみたいです!」
「作るほうか」
「はい。お酒って、だいたい植物から作られるんですよね? 葡萄ならワイン、果物なら果実酒。花の蜜を使ったら甘くできるかもしれませんし、香草を合わせたら香りも変えられるかもしれません」
言っているうちに、どんどん楽しくなってくる。
麦酒だけでも面白いのに、他のお酒もある。
甘いもの。香りが強いもの。体を温めるもの。
薬草を少し使えば、眠りや疲れにいいものも作れるかもしれない。
もちろん、飲みすぎはよくないだろうけれど。
「いろいろ試してみたいです」
「ミレイユらしいな」
カイン様が笑う。
その言葉が、妙に嬉しかった。
私らしい。
そう言われるのは、くすぐったい。
実家では、私らしさなど邪魔なものだった。
でもここでは、そうではない。
夕食を終えたあとも、私はまだ少しそわそわしていた。
いろいろなお酒があると聞いたら、やっぱり気になる。
そんな私を見て、カイン様が苦笑した。
「そんなに気になるなら、少しだけ晩酌でもするか」
「晩酌、ですか?」
「ああ。領都で作った麦酒以外にも、屋敷には少し酒がある。飲み比べてみるか?」
「はい!」
また即答してしまった。
イーヤが横で少し心配そうな顔をした気がする。
でも少しだけ、飲み比べをするだけだ。
寝る準備を終えてから、私はカイン様の部屋へ向かった。
いつもはハーブティーを持っていく時間だ。
でも今日はお酒。
なんだか少し特別な感じがする。
「失礼します」
「ああ、入ってくれ」
部屋に入ると、小さなテーブルの上にいくつかの瓶と杯が置かれていた。
麦酒。
果実酒。
薬草酒。
それから、琥珀色をしたお酒もある。
見ているだけで楽しい。
「すごい……色が全然違いますね」
「少しずつにしておこう」
「はい、少しずつですね」
私は頷いた。
最初に飲んだのは、今日できた麦酒だった。
夕食の時と同じで、すっきりしていて美味しい。
次に果実酒を少しもらう。
「甘い……!」
思わず声が出た。
麦酒よりずっと甘くて、香りも華やかだ。
「これは果物の甘みですか?」
「ああ。熟した果実を使う」
「なるほど……花の蜜を足したら、もっと香りが柔らかくなるかもしれませんね。あとは、甘みが強い果物と酸味がある果物を合わせるとか……」
頭の中に、いくつも案が浮かぶ。
「お酒って、面白いですね」
「飲むより、作ることを考えている顔だな」
「ふふっ、そうですね。とても興味があります」
薬草酒は少し苦かった。
でも、香りが深い。
私ならもう少し苦みを抑えたい。
甘みのある香草を少し加えたら飲みやすくなるだろうか。
琥珀色のお酒は喉が熱くなった。
これは少しお酒の感じが強い気がする。
でも香りはとてもいい。
「これは……大人の味ですね」
「君も十分大人の年齢だろう」
「そうなのですが、味が大人です」
「そうか」
カイン様は笑っていた。
私は不思議と楽しくなって、いつもより口がよく動いていた。
この果実ならこうしたい。
この香草なら合わせられそう。
花の蜜を使ったらどうなるか。
小麦以外にも、領地で育てられるものが増えたら、お酒の種類も増やせるのではないか。
話したいことがどんどん出てくる。
しばらくすると、カイン様がじっと私を見ていることに気づいた。
「どうかしましたか?」
「いや……大丈夫か?」
「何がです?」
「酒は強いのか?」
「わかりません」
「わからない?」
「はい。初めて飲みましたから!」
胸を張って答えた。
なぜか、カイン様が固まった。
「……初めて?」
「はい」
「今日が?」
「はい。麦酒が初めてです」
カイン様の顔色が変わった。
「ミレイユ」
「はい」
「なぜ、それを先に言わなかった」
「え? ダメですか?」
「ダメじゃないが、知っていたらここまで飲ませなかった」
「でも少しだけですし」
「少しだけではなくなってきているが」
そう言われて、私はテーブルを見る。
杯はどれも小さい。
でも、種類はいくつかある。
……少しずつが、積み重なっている。
「あれ?」
視界が少しふわふわしている気がした。
「なんだか、部屋が少し揺れています」
「揺れていない」
「そうですか?」
「ああ。完全に酔っているな」
「酔って……」
私は自分の頬に手を当てた。
熱い。
体もぽかぽかする。
でも、気分は悪くない。
むしろ楽しい。
――それからのことは、少し曖昧だ。
カイン様が何か言っていた気がする。
私も何か答えた気がする。
カイン様の手が温かかった気もする。
でも、記憶はそこでふわふわと途切れている。
――次に気づいた時には、朝だった。
「……ん」
目を開けると、頭が痛かった。
ずきずきする。
ひどい痛みではないけれど、重い。
喉も少し乾いている。
私はゆっくり上体を起こした。
そして、固まった。
見慣れた自室ではない。
天井も、壁も、家具も違う。
「……カイン様の、部屋?」
カイン様の部屋の、寝台の上にいる。
え、えっ?
一気に目が覚めた。
その時、低い声がした。
「起きたか」
「ひゃっ」
変な声が出た。
視線を向けると、カイン様がソファから体を起こしていた。
どうやら、そこで寝ていたらしい。
上着を掛けてはいるけれど、寝台ではない。
つまり、私はカイン様の寝台を借りて、カイン様はソファで眠ったということだ。
「す、すみません!」
私は慌てて頭を下げた。
頭を下げた瞬間、ずきんと痛む。
「いた……」
「急に動くな。頭が痛いのか?」
「少しだけ……」
「水を飲むといい」
カイン様はすぐに水差しから水を注ぎ、こちらへ持ってきてくれた。
私は両手で受け取る。
「ありがとうございます……」
「体調は?」
「頭が少し痛いくらいです。気分は悪くありません」
「そうか」
カイン様はほっとしたように息を吐いた。
それを見て、胸がさらに申し訳なさでいっぱいになる。
「あの、昨日はご迷惑をおかけしました……!」
「大丈夫だ」
「でも、私、全然覚えていなくて……」
そう。
問題はそこだ。
途中から記憶が曖昧なのだ。
何を言ったのか。何をしたのか。
まったくわからない。
「あの、私……何か失礼なことをしましたか?」
恐る恐る尋ねる。
カイン様は少しだけ黙った。
その沈黙が怖い。
「カイン様?」
「いや……失礼なことはしていない」
「本当ですか?」
「ああ」
なら、なぜ少し目を逸らしたのだろう。
気になる、でも聞くのが怖い。
「次に飲む時は、気をつけような」
カイン様が静かに言った。
その言い方が、子どもに言い聞かせるみたいだった。
「はい……」
「初めて飲むなら、先に言うこと」
「はい」
「飲み比べは少量でも酔う」
「はい」
「楽しくなっても、杯を重ねないこと」
「……はい」
私は小さくなりながら頷いた。
本当に、何をしたのだろう。
「私、何をしたのか全然覚えていない……」
思わず小さく呟く。
カイン様はその声を聞いて、少しだけ口元を緩めた。
「覚えていないなら、そのほうがいいかもしれない」
「えっ」
「冗談だ」
「今のは冗談に聞こえませんでしたが?」
「そうか」
カイン様は少し笑った。
その笑顔が優しくて、私はますます顔が熱くなる。
頭は痛く、記憶はない。
私は水の入った杯を両手で握りしめ、心の中で深く反省した。
お酒は面白い。
作るのも、きっと楽しい。
でも、飲む時は……絶対に、気をつけよう。
私はそう強く心に決めた。