作品タイトル不明
第11話 ルーヴェル商会の破滅の始まり
ミレイユ・ルーヴェルがグレイハルト辺境伯領へ嫁いでから、三カ月が経った。
その頃、ルーヴェル商会は明らかに傾き始めていた。
その日、ダニエルとモニカは、とある伯爵家の屋敷を訪れていた。
相手は、オルブライト伯爵家。
ルーヴェル伯爵家と同格ではあるが、オルブライト家は古くから続く由緒ある家柄だった。
一方、ルーヴェル家は商会の成功によって最近爵位を上げたばかり。
社交界では、まだ成り上がりという目で見られている。
だからこそ、ルーヴェル商会は積極的に同格や上位の貴族に商品を売り込み、繋がりを作ってきた。
だが今、オルブライト伯爵家の応接室に座るダニエルとモニカの顔には、余裕などなかった。
いつもなら二人は、商会のことなど気にせず、王都の店を巡ったり、観劇へ出かけたりしていた。
けれど今は、そんなことをしている場合ではない。
応接室の扉が開き、オルブライト伯爵が入ってきた。
白髪混じりの髪をきちんと撫でつけた、痩せた男性だった。
表情は穏やかだが、その目は冷たい。
「お待たせしました」
伯爵は席に着くと、前置きもなく言った。
「単刀直入に言いますが、あなた方のところとは契約を切ります」
「なっ……」
ダニエルが息を呑む。
モニカも目を見開いた。
「な、なぜですか!?」
先に声を上げたのはモニカだった。
伯爵は、静かに彼女を見る。
「本当にわからないのですか?」
「そ、それは……」
モニカは言葉に詰まった。
わからないわけではない。
最近、商品の質が落ちていることは、彼女も気づいていた。
けれど、それを認めることはできなかった。
伯爵は小さく息を吐いた。
それから、横に控えていた従者へ目配せする。
従者は盆を持って進み出て、テーブルの上にいくつかの商品を並べた。
香水の小瓶。
美容用の軟膏。
乾燥させた香草。
それから、葉巻用に加工された嗜好品。
どれもルーヴェル商会の主力商品だった。
「これはお返しします」
伯爵は淡々と言った。
「本当なら返金してほしいくらいだが、まあ手切れ金だと思ってください」
「手切れ……」
ダニエルの顔が強張る。
モニカの頬も赤くなった。
「お待ちください、伯爵。何か不備があったのであれば、改善を――」
「改善?」
伯爵は静かに笑った。
「改善できるのですか?」
「それは、もちろん」
「では、なぜ最初からしなかったのです」
ダニエルは口を閉ざした。
伯爵の声は荒くない。
だが、だからこそ逃げ場がなかった。
モニカは堪えきれずに口を開いた。
「い、いきなり契約を切るだなんて、失礼ではありませんか!」
「モニカ!」
ダニエルが鋭く言った。
モニカはびくりと肩を跳ねさせる。
普段なら、ダニエルは彼女を庇う。
だが今は違った。
ここで相手を怒らせれば、本当に終わる。
それがダニエルにはわかっていた。
「失礼しました、伯爵」
ダニエルはすぐに頭を下げた。
モニカも不満そうに唇を噛みながら、仕方なく頭を下げる。
伯爵は、まるで動じていなかった。
「いえ、気にしていませんよ」
そう言って、彼はモニカを見る。
「お嬢さん、私が失礼だと言いましたね?」
「……え?」
お嬢さん。
名前ではなく、そう呼ばれた。
仕事相手として見ていない。
商会の代表でも、伯爵令嬢でもなく、癇癪を起こした子どもを相手にしている。
その嫌味は、ダニエルには伝わった。
だがモニカには、伝わらなかった。
伯爵は続ける。
「確かに、急に契約を切るのは失礼なことかもしれません。だが、先に無礼を働いたのは君たちの商会だ」
「無礼、ですか」
ダニエルが低く問い返す。
「ええ。私は、これを頼んだ覚えはありません」
伯爵はテーブルに置かれた香水瓶を指で軽く叩いた。
「商品名は同じでしょう。見た目も同じだ。だが中身が違う。香りが浅い。時間が経つと嫌な雑味が出る。以前のものとは雲泥の差です」
「そ、そんなはずは……」
モニカが震える声で言う。
だが、その後の言葉は続かなかった。
伯爵は今度は美容品の容器に視線を向ける。
「こちらも同じです。以前は肌によく馴染み、香りも穏やかだった。だが今回のものは油が浮く。香りも強すぎる。妻がひと塗りして、すぐに使用をやめました」
モニカの顔が青くなる。
その美容品は、王都の貴婦人たちに特に人気だった。
それが不評となれば、噂は広がる。
伯爵はさらに香草を摘まみ上げた。
「葉巻用の香草もひどいものだ。燃やすとえぐみが出る。香りが残らない」
「申し訳、ございません」
ダニエルは頭を下げた。
それしかできなかった。
「材料の入れ替わりがありまして、一時的に品質が安定しなかった可能性がございます。次回からは必ず――」
「次回はありません」
伯爵は静かに言い切った。
その一言で、応接室の空気が冷えた。
「これで話は終わりです。お帰りはあちらですよ」
伯爵は扉のほうへ視線を向けた。
完全な退去の合図だった。
ダニエルは唇を噛む。
食い下がるべきか。
謝罪を重ねるべきか。
けれど伯爵の表情を見て、もう無理だと悟った。
「……失礼いたします」
ダニエルは立ち上がり、モニカの腕を取った。
モニカはまだ何か言いたげだったが、ダニエルの手に力がこもると、ようやく黙った。
二人は応接室を出る。
背後で扉が閉まる音がした。
それは、契約が完全に切れた音のようにも聞こえた。
屋敷を出て、馬車に乗り込む。
扉が閉まると同時に、モニカは震える息を吐いた。
「何なの、あの伯爵……! あんな言い方、ひどいわ」
「モニカ」
ダニエルの声は低かった。
「今のは、こちらが悪い」
「ダニエル様まで、そんなことを言うの?」
「感情で怒鳴っても契約は戻らない」
モニカは押し黙った。
馬車が動き出す。
車輪の音が、重く響いた。
しばらく沈黙が続いたあと、ダニエルが額を押さえる。
「どうして、こんなことに……」
それは、もう何度目かわからない呟きだった。
最近、同じことばかり考えている。
なぜこうなった、と。
なぜ育たない。
なぜ品質が戻らない。
なぜ顧客が離れていく。
ミレイユがいなくなってから、最初の一カ月は何とかなった。
温室に残っていた種も商品もあった。
だから、問題はないと思っていた。
二カ月目から、収穫量が落ちた。
それでも、ダニエルの伝手で他所から材料を買い集めればいいと考えた。
しかし、本当の問題は品質だった。
ルーヴェル商会の商品は、ただ珍しいだけではなかった。
香りが深く、効能が高く、味や余韻まで優れていた。
貴族たちは、それを求めていた。
他所から買った材料では、同じものは作れない。
しかも、少なくなったとはいえ自家温室で収穫できた植物まで、以前より品質が落ちていた。
香水も、美容品も、葉巻用の加工品も、すべて微妙に劣化している。
その微妙な差を、貴族たちは見逃さなかった。
「このままでは、他の契約も切られる」
ダニエルは低く言った。
「もう、すでにいくつか切られているわ」
モニカの声は震えていた。
「でも、そんなの……私たちのせいじゃない」
「では、誰のせいだ」
モニカは唇を噛んだ。
そして、吐き捨てるように言った。
「あいつよ」
「あいつ?」
「あの雑草女が、何かしたんだわ」
モニカの目に怒りが宿る。
「出ていく前に、きっと何か細工したのよ。温室の種に、変な魔法をかけたとか。そうじゃなきゃ、こんなことになるはずがないもの」
「……ミレイユが?」
ダニエルは眉を寄せた。
ありえない。
そう言いたかった。
ミレイユは、ただの雑草令嬢だったはずだ。
地味で、社交もできず、植物をいじることしかできない女。
自分が婚約破棄した時も、言い返せずに俯いていた。
そんな女に、ルーヴェル商会を揺るがすほどの力があるなど。
だが……ダニエルの脳裏に、管理人の言葉が蘇る。
『以前の状態が異常だったのです』
『一日、二日で葉が揃うなど、本来ならありえないことです』
そして、伯爵の言葉。
『以前のものとは雲泥の差です』
まさか――今までの商品は。
ミレイユがいたからこそ、あの品質だったのか。
その考えが一瞬浮かび、ダニエルはすぐに打ち消した。
認められるはずがない。
自分は、あの女を捨てた。
雑草令嬢と嘲った。婚約破棄できて清々したとまで言った。
その女が、商会の要だったなど。
そんなことは、あってはならない。
「……とにかく、材料をさらに集める」
ダニエルは無理やり言った。
「品質の良いものを探せばいい。侯爵家の伝手をもっと使う」
「それで間に合うの?」
「やるしかない」
「でも、今日みたいに契約を切られたら……」
「黙ってくれ」
ダニエルの声が鋭くなる。
モニカはびくりと肩を震わせた。
だがすぐに、怒りと不安を混ぜたような顔で俯く。
馬車の中に、重い沈黙が落ちた。
ダニエルは馬車の床を見つめていた。
モニカも同じように視線を落としている。
どうすればいいのか。
答えは出ない。
ただひとつだけ、二人の胸に残っている言葉があった。
『そうですね。困らないといいですね』
あの時のミレイユの穏やかな声。
モニカは拳を握りしめる。
「あの女……絶対に許さない」
それは怒りだった。
けれど、その奥には確かに恐怖があった。
ミレイユがいなくなった。
たったそれだけで、ルーヴェル商会が崩れ始めている。
その事実を、二人はまだ正面から見ることができなかった。