軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

302・クロム島へようこそ

ヴォラック・ラッカ氏へのご挨拶を終えた数日後。

俺は飼い主たるクラリス様に抱っこされ、夏期集中講義の教室にいた。

なんと講師の権限(※やや職権濫用気味)で、ペットの持ち込みが許可されたのである!

⋯⋯いや、さすがに「ペット」として持ち込み許可されたわけではなく、「猫が匂いを嫌う香辛料、あるいは好きなハーブを、実際に確認してみよう」という⋯⋯いわば実験動物というか、学習教材的なノリでヴォラック先生が参加許可をくれたのだ。

要するに「猫が堂々と講義を聞けるように」というおちゃめな気遣いである。

こちらの講義にはクラリス様、ロレンス様をはじめ、留学生組のほぼ全員が参加したのだが、急な登録だったにもかかわらず他の学生さんと社会人もかなり多かった。

さすがにスイール様のように大講堂を使うほどではないが、階段状に机と椅子が固定された高低差のある広めの教室を用い、およそ二百人ほどが集まった。

あと助手として奥様のメルーサ・ラッカ博士も参加しているが、小柄なせいもあってやっぱり見た目が女学生に近い⋯⋯あれが御夫婦って犯罪では?

肝心の講義内容については、ヴォラック氏は実に弁舌さわやかでユーモアもあり、たいへん興味深く「世界の香辛料」事情について学べた。

やはりこちらの世界、胡椒はない。しかしながら独自の植物、あるいはこちらでの呼び名が違うだけの前世由来植物はそこそこあるようで、香辛料の種類自体はけっこう多い。

シナモンやサフランっぽいものはネルク王国でも流通していたし、南方にはカレーでおなじみの「クミン」っぽいものもある。

ただしいずれも猫さんには毒なので、決して与えてはいけない。

ヴォラック先生も「これらの香辛料やハーブは猫には毒ですから、決して与えないように!」と注意喚起をしていた。

今日の俺のお昼がカレーライス、デザートがシナモンアップルパイだったことはここだけの秘密である。

逆に猫ちゃんが好きなハーブとしては、キャットニップ(西洋マタタビ)、キャットミントあたりが有名だろうか。

これらは実演も兼ねて、俺が教壇の上で実食した。食べ過ぎはよくないが、ちょっとかじる程度なら問題ない。む。割とイケる。にゃーんにゃーん。

「わぁ⋯⋯」「えっ。かわいい⋯⋯」と一部の聴講生から呟きが漏れたが、ここで照れたりドヤ顔をしてはいけない。俺は猫⋯⋯ただの猫なのだ⋯⋯(虚無顔)

でも割と嬉しいから後でモフらせたろ。

さて、キャットニップはマタタビよりは成分が薄めで、リラックス効果はあるが、無意味に荒ぶったりはしない。なんかこう、恍惚としてくる感じ⋯⋯?

人類の嗜好品でたとえると、感覚的には「噛みタバコ」が近いだろうか。

噛みタバコは結局のところニコチンなので口腔がんのリスクとかいろいろあるが、キャットニップの主な成分はネペタラクトンという虫除け、リラックス効果のある成分であり、過剰に摂取しない限りは基本的に安全とされている。

実際どうだかは知らぬが、塩とか砂糖、あるいは水だって適量を超えると危険なので、微量な毒性について云々し始めるときりがない。俺の場合は全属性耐性があるのでなおさら安全である。

あと猫でもイケるハーブといえば、タイムとかカモミールなどもそうなのだが⋯⋯こちらはとりたてて猫の好物というわけではない。たぶん個体差があるし、そもそも猫は草食性ではないので、野草類とはあまり相性がよろしくない。せいぜい猫草をかじって毛玉を吐く程度である。

そんな感じに猫の出番も有りつつ、ヴォラック先生の講義(全三回)はあっという間に終了し、猫はいろいろと新たな知見を得た。

香辛料とハーブ⋯⋯その奥深い世界をこの肉球で踏み分け、新たなトマト様のレシピを引き続き探求していきたいものである。

⋯⋯と、俺が野心に胸を踊躍らせていると、ポルカちゃんとマズルカちゃんがこんな情報をくれた。

「ヴォラックおじさんの講義に出てきた香辛料、だいたい七割くらいはクロム島で買えるよ!」

「残りの三割はそもそも商品としての入手が困難だったり麻薬スレスレの危険物だったり、一部好事家しか欲しがらないクセの強いものだったりするので⋯⋯各国でちゃんと流通している品なら、うちの島でほぼ手に入ると思っていいです」

まじか!

大変心強い情報を得て、バカンスがますます楽しみになってしまった。

なにせ俺の場合、一口食べれば日常分はコピキャし放題であるし、気候風土があえば栽培も検討できる。

おまけに品種改良のスペシャリストたるダンケルガ氏、いろいろ詳しい植物学者のヴォラック先生という協力者達まで得たわけで、これはもう勝ち確では?(油断と慢心)

⋯⋯そんな感じで「バカンス楽しみー!」とウキウキしている間に、あっという間に八月に突入した。

休暇は過ぎるのが早い⋯⋯いや、俺はもうぼちぼち仕事復帰しているのだが、「クラリス様の夏休み」が過ぎるのが早い!

思えば俺も学生時代、夏休みが始まった時点では「こんなに休みが続くなんて!」と感動したものだが⋯⋯中盤から終わりに近づくにつれて「あれ⋯⋯? もう終わり⋯⋯?」という戸惑いのほうがでかくなっていった。

バイト先でうどん打っていただけで終わった夏もあった。技術とバイト代は得たが、もう手に入らない「学生としての夏」を失った寂しさは言葉にできぬ。

ペットの猫として、クラリス様やロレンス様にはぜひ充実した夏休みの思い出をプレゼントしたい。

クロード様とサーシャさんは勝手にそこらでイチャついてろ。(放任主義)

出発までの間に、旅行のための準備もいろいろと進めた。

具体的には水着の購入⋯⋯は、しなかった。

話を振ったら、ポルカちゃんとマズルカちゃんがとても不思議そうなお顔で、

「内海って、サメとか魔魚とかシーサーペントとかいっぱいいるよ?」

「海で泳ぐ命知らずは、あんまり見たことありませんね⋯⋯」

とのことで⋯⋯

みんなの水着を作るつもりでいた 狐耳魔族(ヘンリエッタ) 様(大部分はもう完成済み)が、「ちょっと生態系ぶっ壊してくるね」とハイライトさんが家出した目で狂乱しそうになったため、慌てて『大きな露天風呂があるらしいですから!』となだめる羽目になった。

『いや貴方は長命種なんだから内海の危険くらい知ってるでしょ』とスイール様にまで突っ込まれていたが、知ってはいても実感はしていなかったらしい。

またヘンリエッタ嬢を擁護するわけではないのだが、内海でも海域によって危険度(というか魔物の生息域)に大きな差があり、外周の沿岸部はそれほどでもなく、沖合の孤島・クロム島周辺がヤバいとのこと。

豊富な海の幸を巡って、いろんなおさかなさんが 跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ) しているそうである。漁獲高もすごいかわりに危険度も相応ということか。

とはいえ「船を転覆させるレベルの大型種はさすがにいない」とのことで、つまりモササウルスさんはいない。

シーサーペントという大仰な呼び名の種も、せいぜいリュウグウノツカイといい勝負ができそうなサイズ感のウミヘビだそうな。手足に噛みつかれたら大惨事だが、人を丸呑みするような大きさではない。猫サイズならきっと丸呑みできる。こわい。

人類にとっての直接的な脅威は、むしろ獰猛な小型の肉食魚らしい。アマゾンでも一番怖いのはカンディル(10センチくらいの肉食ナマズ。凶暴!)だというし、「せやろな」という納得感はあった。

水着は温泉用と割り切った上で引き続きヘンリエッタ嬢に任せ、その他の準備を進める。

食料は海の幸や各国の食材を現地調達。滞在先は双子ちゃんのご実家というか、小説家をやっているお爺ちゃん所有の別邸。

こちらは迎賓館的な役割も兼ねており、各国から偉い人が来た時に貸し出すらしい。VIP待遇である。

万が一、使用中の場合にはキャットシェルターでよかろう。異国情緒と特別感では負けるだろうが、快適性はむしろこっちのほうが上だという自負もある。

結局、持って行くものは着替えとか使い慣れた日用品ぐらいで、新規に用意するべきものはあまりなく、その荷物すら猫カフェに放り込んでおけば事足りるとあって、スーツケースなどもないほぼ手ぶらのバカンスとなった。

出発の朝。

みんなには猫カフェに入ってもらい、俺はオズワルド氏に抱っこしてもらう。クロム島にはまだ行ったことがないので、宅配魔法では精度に問題がある。

内海の岸辺までは行けるので、そこから 空路(ウィンドキャットさん) という手段はあるが⋯⋯遊覧飛行の感動は現地でのアクティビティとしてとっておく。オーガス君とか双子ちゃん達は初めてのはずなので。

現在の猫カフェはだいぶ賑やかだ。

ネルク王国組&学生組はもちろんとして、スイール様、アイシャさんもお目付け役として同行しているし、魔族のヘンリエッタ嬢や賢樹ダンケルガ氏ももちろん一緒。

外交官候補生のベルディナさん、官僚候補生のソラネさんもいる。こちらは「将来のために、クロム島の様子を見ておきたい」という見聞目的だが、特にソラネさんは領主のラルゴ・クロムウェル伯爵ともほぼ親戚付き合い(※親戚ではない)しているので、こうした移動日数0で遊びに行ける機会は貴重だろう。

同様の理由で、ラッカ家のメルーサ博士、ヴォラック先生夫妻も来ている。ヴォラック先生には「ついでに双子ちゃんのお爺ちゃん(旧友)に久々に会いに行こう!」という目算もある。奥様も『いつも主人がお世話になってますー』とご挨拶するのが目的だ。今はいないが、キルシュ先生達もバーベキューとかのタイミングでは呼ぶつもりである。

ここに有翼人のソレッタちゃん、ペルーラ公爵家令嬢のセルニア様、アロケイルで保護した魔導師見習いカティアちゃんもお預かりしてきた。

三人とも、いまやすっかりクラリス様のお友達である。ソレッタちゃんとセルニア様は少し年下なので「妹分」かもしれぬ。

セルニア様はさすがに連れ出す時に一悶着あったが、父君のピルクード公爵には、オズワルド氏がちゃんと連絡をとり、「亜神の加護を受けた者達の交流会として、クロ厶島で一週間ほどバカンスをしてくる!」と真実を告げてある。白目剥いてた。

さすがに家臣達には真実を明かせぬので、表向きは『リーデルハイン領の視察』ということにしたようである。実際、メテオラにはもう何度か来てますからね⋯⋯

また別行動ではあるが、正弦教団のファルケさん⋯⋯かつてのフロウガ将爵も、オズワルド氏の差配で先に現地入りしている。こちらは我々の露払いというか、クロム島の先行調査が任務だ。

これは正弦教団内の研修的な意味合いも強い。

今の彼は「エンハンス商会の商人」として第二の人生を歩み始めたので、より見聞を広め、密偵的な対応力や判断力も磨き上げていく必要があるのだ。

トマティ商会の社員組は(ただでさえ忙しいので)今回はお留守番。クロム島の視察は有意義なはずなので、いずれその機会は作るが、今回ばかりはクラリス様達の「たのしい夏休みの思い出作り」が最優先である。

俺も仕事を持ち込む気はないし、旅先ではペットらしいおもしろムーブをかまして飼い主を楽しませたい。なんかこう、ほら⋯⋯具体例は特に思いつかないですけど(一敗)

「ルーク殿、準備はいいかね?」

「はい! よろしくお願いします!」

俺を抱えて、ちゃんと姿も隠したオズワルド氏がさっそく転移! もうすっかり慣れたものである。

着いた先は無人の小高い丘の上。

眼下にはおっきな港町! そしてその向こうに広がるはきれいな大海原と透き通った空!

地中海さん! 憧れの地中海さんじゃないですか!(※違う)

⋯⋯気候風土的には実際だいぶ近そうなのだが、逆にいうと「気候風土しか似ていない」のも事実なので、決して油断はできぬ。

そもそもファンタジーな世界。しかも交易港なのでいろんな国の人がいるし、魔道具とか呪具みたいな不思議アイテムもあるし、もちろん裏社会とかマフィア的な組織もあるだろうし⋯⋯

その中でも特にヤバいとされている組織の一つが、『正弦教団』という魔族に支配された秘密結社らしい。なんだかやけに聞き覚えがある。

具体的に言うと今、俺を抱っこしている親戚のおじさんがお世話している⋯⋯あるいはお世話になっているトコですかね⋯⋯?

「これは大きな港町ですねぇ! ファルケさんが滞在している正弦教団の支部って、どのあたりですか?」

「ああ、あっちにある浄水教の教会はわかるか? 鐘楼に水滴のオブジェがついているだろう。あそこの隣だ。表向きはエンハンス商会のクロム島支店ということになっている」

ふむ。眼下には家屋が密集しているので店構えなどはわからぬが、屋根だけはわかる。

オズワルド氏がかすかに笑った。

「あの浄水教の教会も、中身はほとんど商店みたいなものでな。例のバロウズが整備した交易網の一つだ。浄水教は水運を通じて、物のない地域へ物資を運ぶ活動をしている」

おお、バロウズ大司教猊下! ヨルダ様の父君の、かつての御友人である。その昔、ラダリオン・グラントリム氏が、ブレルド・ペシュク侯爵を相手に反乱を起こした際、バロウズ猊下はその決起から外されて生き延びた。

御本人はずっとそれを心苦しく思っていた様子だが、つい先日、忘れ形見のヨルダ様や、ラダリオンの孫にあたるサーシャさんとも会ったことで心が晴れた。

今では宗教界からトゥリーダ様の外交を支えてくれる協力者となっている。

地位も地位だしご多忙なので、今回の同行は無理だったが、やはりどっかのタイミングでちょっとお招きしたい。

⋯⋯ちなみにアイシャさんと同じ『夢見の千里眼』を持つ身であり、猫のやらかしを遠隔地から一部見てしまった精神的被害者でもある。ごめん。

さて、改めて視線を転じて見回せば⋯⋯

この小高い丘の背後は広く深そうな森となっていた。その向こうには山もある。形状からして火山と思われる。

このクロム島に関する事前知識として、公式情報を信じるならば、その推定面積はだいたい日本の淡路島と同じくらい。つまりけっこうでかい。測量技術の都合で数値が「推定」なのはしゃーないが、そう大きくズレてはいないはず。

関西勢以外にもわかりやすい例で言うと、これは「琵琶湖」や「東京23区」とほぼ近い数字である。

具体的には琵琶湖が約670平方km、東京23区が約630平方km、淡路島が約592平方kmという数字感。(※23区以外も含めた「東京都」そのものの面積は約2200平方km)

クロム島も「昔の測量結果では約600平方km前後」とのことである。

これを「でけぇぇ!」と感じるか、「⋯⋯割と小さいな?」と感じるかは個人の感覚に依るが、個人的には充分でけぇと思う。

なお、地中海最大の島である有名なシチリア島は、約25700平方kmと文字通り桁が違う。あそこは四国よりでかく、九州より小さいぐらいの大きさだ。

そして北海道は、島嶼部を含まぬ本島のみでも約78000平方kmとさらにでかい。

「クロム島? 北海道の中に130個ぐらい入るかな?」みたいな規模感である。北海道さんパネぇっす。さすがっす。自分やきそば弁当買ってくるっす。

その時、猫カフェから我が飼い主の声が聞こえた。

『ルーク、私達ももうそっちに出ていい? 少し歩いてみたいし、ポルカ様とマズルカ様も懐かしがっているから』

「はい! どうぞ!」

俺のすぐ傍で猫カフェのドアが開く。猫がわざわざ扉を開けずとも、こうして中から出てくる分には問題ない。猫カフェは監禁施設ではないので当然である。

ただ、空を飛んでいる時などは危ないので⋯⋯安全装置として鍵をかけることもある。

ぞろぞろと出てきた皆様は、初めて訪れた離島の空気感に興奮気味である。

ピタちゃんは人間形態なのにお鼻をひくひくさせている。あれは他の獣の気配を探っているらしい。反応からして危険はなさそうだ。

留学生組のマリーンさんとかロレンス様の護衛のマリーシアさんも、今日はバカンスらしい夏の私服である。うるわしい。

みんなそれぞれ目を輝かせ、南国の晴れやかな空と真っ白な雲、美しい海に見惚れていた。

地元民のポルカちゃんとマズルカちゃんは「懐かしい!」という感覚だろうが、島を離れてまだ一年も経っていないはずなので雰囲気は緩め。

双子ちゃんが我々の前に並び、丘の上でぱっと両手を広げた。二人の向こう側には港町と碧い海、澄んだ空。

「みんな、クロム島へようこそ!」

「ここがホルト皇国最南端。海の向こうはサクリシアです」

おおー、と学生組から控えめな嘆声。主にクロード様とオーガス君である。

クラリス様とロレンス様もお目々をキラキラさせている。

「ここがクロム島⋯⋯きれいな海⋯⋯」

「ええ、本当に。潮風の匂いも、こころなしか爽やかなような⋯⋯」

それな。

いや、実際にそうなのだ。

海ってもっと、こう⋯⋯身も蓋もない言い方をすると割と臭いはずなのだが、このクロム島の潮風はなんだか爽やかである。たぶん気の所為とか見た目の印象の問題ではなく、もっと根本的な「匂いの成分」的に何かが違う。

多くの海において、潮の香りとは海藻や植物プランクトンから生成されるジメチルスルフィドのことである。これは硫黄臭に近い。

ここに魚介類由来のトリメチルアミン、海藻に含まれるブロモフェノールなどの匂いも混ざり合い、あの複雑な「海の匂い」が生まれるのだ。

たまに人間でも「体臭が魚臭い気がする⋯⋯」みたいな悩みを聞くが、あれは体内でトリメチルアミンを分解する酵素が少なかったり、あるいは肝臓、腎臓の機能低下によって摂取した栄養素を分解しきれず、この成分が汗として排出されてしまうせいである。焼肉の後などには特にコレが起きやすい。

そんなわけで、海の匂いの正体は化学的に判明しているのだが⋯⋯ここの海は、俺の知っている海と明らかに違う。

そういえば前世でも、「地中海の匂いは日本の海の匂いとは全然違う」と聞いたことがある。

その最大の理由は、「海藻やプランクトンが少ない」から。

大海への出入り口が狭い⋯⋯あるいはほとんどない閉鎖性の海域では、潮の干満も穏やかで波もそんなに大きくならず、寒流とか暖流もなく、プランクトンの絶対量が日本の沿岸ほど多くなりにくいのだ。

ジメチルスルフィドはまさに「プランクトン」から発生するので、その総量が少なければ匂いも緩和される。

なお、瀬戸内海なども一応、閉鎖性海域といわれるが⋯⋯こちらは両端がほぼ大洋につながっている上に地形の影響もあり、干満の差が大きい。

内海ゆえに波は低く水も滞留しやすいが、海流は複雑で、太平洋との干満の時間差によって鳴門の渦潮までもが発生する。

そういった特性も影響し、瀬戸内海はたまに赤潮が発生するレベルでプランクトンが増えやすい。同じ「閉鎖性海域」と言っても、特徴がけっこう違うのだ。

地中海はそもそも巨大な入江のような地形なので、流れは穏やか。

そしてクロム島があるこの「内海」にいたっては、外洋につながるルートが他国の河と地下水脈のみで、ほとんど「巨大な塩水湖」みたいなものである。

条件的には瀬戸内海よりも地中海にだいぶ近い。

また、匂いが薄い第二の理由としては、やはり「湿度」の影響があるだろう。

このクロム島も地中海同様、空気が乾燥しカラッとしている。そのために匂いがこもりにくく、微生物も繁殖しにくく、体感でも風がさわやかなのだと思われる。

後は⋯⋯島の大部分を占める深い森に、ハーブ系の植物が多そうなのも一因か?

正面の海がどうこう以前に、後背の森からなんだか爽やかな空気が流れてきている気もする。フィトンチッド的な何かかもしれぬ。

正直、和歌山育ちからすると、こんなにも爽やかな海の匂いは「ちょっと物足りねぇな⋯⋯」感もなきにしもあらずなのだが⋯⋯クラリス様達に喜んでいただけているなら、それが一番良い。このままリゾート気分を満喫して欲しい。

港を見下ろす丘から眼下の港町までは、きちんとした石段が整備されていた。

碧い海を眺め、爽やかな潮風を浴びながら、我々はぞろぞろと連れ立ってその石段を降り始める。

セルニア様やソレッタちゃんははしゃぎっぱなしだ。

「すごいですわ! 私、海って初めて見ました! ソレッタ様も初めてですの!?」

「はい! わたしもはじめてです。クラリス様達は、お空の上から見たことがあるんですよね?」

クラリス様が首を横に振る。

「ううん、私達も初めてだよ? 皇都で浄水宮に行った時は水の上を飛んだけど、あそこは湖だし」

そういえばそうか⋯⋯

以前、内海の沿岸部をざっと飛んだことはあるのだが、あの時はトゥリーダ様達と新規交易路の開拓について相談していた流れだったので(239話・猫の新たな交易路)⋯⋯リルフィ様やスイール様、バロウズ大司教らは一緒だったのだが、クラリス様やロレンス様達は普通に学園で授業中であった。

クラリス様は、「ほえー」っと目を見開くきれいな赤毛の友人にも声をかける。

「カティアも海は初めてだよね?」

「もちろん! アロケイルには海なんてないし、そもそも私、王都からほとんど出たことがなかったから⋯⋯連れてきてくれてありがとう、クラリス!」

メテオラの奇祭、キジトラ春の猫祭を経て、クラリス様とカティアちゃんはすっかり仲良くなっていた。名前の呼び捨てやタメ口についても、クラリス様からお願いしたらしい。

お二人はそもそも同い年。こういう「ざっくばらんに話せる同年代の友達」という存在に、お互いほのかな憧れを持っていたとのこと。

雰囲気としてはクラリス様のほうが少し大人びて見えるが、身長はほぼ同じだし、「猫好き」という共通点もある。

現在、カティアちゃんはまだラズール学園に入学していないが、母親のジャニスさんは魔導研究所・ラズール学園支部の住み込み管理人という職を得ており、彼女はそこで小間使いもしている。

リルフィ様やスイール様、ヘンリエッタ嬢からも可愛がられているし、クラリス様とも放課後に接触する機会が多かったのだろう。

実は今回のバカンスではお母様もお誘いしたのだが⋯⋯「たぶん子供達だけのほうが、交流が深まるでしょうから」とのことで、親関係の参加は見送られた。

ライゼー様とウェルテル様も、迷宮の開放と陞爵前の準備を控え、ちょっと領地を空けにくい時期である。いずれ家族水入らずの小旅行なども企画したいところだが、今回は「夏休みの臨海学校」的なノリでよかろう。

引率の先生が我が猫耳に囁いた。

「ルーク殿。私は先にファルケと会って、到着を知らせてくる。しばらく護衛はヘンリエッタだけで構わんか?」

「わかりました! それじゃ、我々も散策しながら浄水教の教会に向かいますので、そっちで合流しましょうか」

「ああ。また後でな」

オズワルド氏は転移魔法でしゅばっと消えた。

護衛についてはまぁ、ヘンリエッタ嬢だけでなくスイール様もサーシャさんもいるので問題ない。猫とかクロード様はちょっとうかつなところがあるのであまり信用してはいけない。

リルフィ様が抱っこしようとしてくれたが、せっかくなので俺も少し自分の足で歩いてみる。

石段の段差は人間用なので、短めな俺の足では二足歩行ができぬ。ちゃんと猫らしく四足歩行で慎重に降りていく必要がある。猫らしくってなんや。猫やぞ。

ぽてぽてと階段を下っていく俺を見て、幼女様達は思案顔。

「⋯⋯なんというか、ルーク様が四足で歩いていると、違和感がありますわね?」

「おなかこすりそう」

「あの、転がってしまいそうなので、ウィンドキャット様をお呼びしたほうが⋯⋯?」

「ルーク、ゆっくりでいいからね? 走っちゃダメだよ?」

⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯若干、見守り介護されてる感があるな? 日頃の移動を抱っこor宅配猫さんと飛翔猫さんに頼りすぎかもしれぬ。今回のバカンスでは俺もちゃんと猫のふりを頑張ろう⋯⋯

それにしても快晴の中、海風を感じながら歩くのはけっこう気持ち良い。

お昼寝も大事だがお散歩も大事である。世界の広さを自らの足で実感できる、これは一種の贅沢ではないかとすら思うのだ。家猫さんには無理ですからね。帰ってこれなくなっちゃうからね⋯⋯

猫に先導されてぞろぞろと石段を降りていく人類は皆、優しい顔をしていた。

その隊列を港町側から「あれ? あんな所に観光客?」と、不思議そうに見上げる視線があることに⋯⋯この時点での我々は誰一人、気づいていないのだった。