軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

300・スイール様の特別講義

クラリス・リーデルハインは、人生で初めて「夏休み」というものを迎えていた。

概念として聞いたこと、あるいは本で読んだことはあったが、それを享受するのは初めてである。楽しみではあるが、要するに「長期の休み」でしかないので⋯⋯学校に通う前の生活と、さして変わらないかもしれない。

大きな違いはロレンスやポルカ、マズルカ達のような「友人」の存在か。思えば去年の夏は、ルークのおかげでいろいろなところに行けて楽しかったが、今年はもっと楽しくなりそうな予感がある。

さて、ラズール学園の夏休みは、生徒それぞれで過ごし方が大きく変わるらしい。

前期の成績が悪かった者は、ここで補講を受けなければ単位を落としてしまう。いわば貴重な救済期間となる。

故郷へ一時的に帰省する者もいる。ただ、近場であれば気軽に帰れるものの⋯⋯たとえば往復だけで二週間ほどかかるような遠方であれば、帰郷を諦めて学園で過ごしたほうが何かと都合が良い。旅費もただではないし、皇都でアルバイトでもしたほうが建設的である。

それから、夏の短期集中講義で学びを深める者⋯⋯人数としては、これが一番多いかもしれない。この期間は学外の人々にも門戸が開かれるため、人脈を得る上でも有用である。

また、短期集中講義の講師には、「普段は本業が忙しくて教壇に立てない」類の専門家も来る。特に人気の講師になると教室では対応できず、講堂や屋外での講義になるらしい。

たとえば、そう⋯⋯夏休みの直前に発表された、この目玉講義。

『 水属性魔法の可能性と未来 特別講師・宮廷魔導師スイール・スイーズ 』

「⋯⋯結局、すごい数の応募があったそうで、スイール様がドン引きしてましたね⋯⋯入学式で使ったあの大講堂が、満杯になる勢いらしいです」

リルフィから日課のブラッシングされながら、ペットのキジトラがそう呟いた。彼は微妙に遠い目をしている。

「でもこれって魔導師向けの講義なんだよね? 魔導師ってそこまで人数が多くないでしょ?」

クラリスが問うと、いまやスイールの内弟子でもあるリルフィが代わりに応じた。

「皇都の商人達からの申し込みが、想定以上に多かったみたいですね⋯⋯新しい商売の芽につながる報告を期待されていたり、あとライバル商人に先を越されないように、という打算もあるようです⋯⋯その流れで、商業系の進路を目指す学生達まで殺到したとか」

魔導師・研究者としての名声だけでなく、スイールには発明家・事業家としての実績がある。

クラリスは人の噂で聞いた程度だが、彼女は在学中にもベビーカステラの屋台で一儲けして、その後もちょくちょく非凡な発想でお小遣い稼ぎ⋯⋯どころか、結構な荒稼ぎをしたので、商人達からは「若くして立志伝中の人物」という扱いを受けているようだった。

なお今回は「トマト様の水耕栽培の可能性」「水に溶かす液体肥料研究の 進捗(しんちょく) 」などについても触れる予定のようで、亜神も満足顔である。当然、本獣は聴きに行くつもりで仕事のスケジュールを調整していた。

「トマト様の栽培って水属性魔法と関係あるのかな⋯⋯?」などとクラリスは疑問に思ったものだが、リルフィによれば「液体肥料の研究、開発、生産や、水耕栽培のシステムには、水属性魔法や魔道具が使われがち」とのことだった。

このスイールの講義は、本日午後の二時間のみで完結。

一回のみの公開講義で、単位はもちろん発生しない。聴講料は平均的で、学生には割引価格が設定されているが、それでもスイールの懐はだいぶ潤うものと思われる。「⋯⋯水田開発計画の初期費用に足そうかな」とも言っていた。

魔導師であり、なおかつ商売にも興味があるポルカとマズルカは「絶対行く!」とのことで、クラリス達も今日はそれに同行する予定である。

そしてリルフィは内弟子として雑務を手伝うため、午前中のリハーサルから参加する。

多少は緊張しているかとも思ったが⋯⋯意外と平気そうだ。ルークをブラッシングする手つきはいつも通りだし、むしろ楽しそうな気配すらある。先日、ルークの着せ替え遊びを堪能したので、充分な猫力が補充されたのかもしれない。

もちろんリルフィが壇上へ立つわけではないし、そもそも緊張するような話ではないのだが、それでも一年前の彼女ならば「ただの外出」にすら緊張していた。

猫との街歩きや散歩を経て、また様々な猫魔法の驚異に間近で触れ続けたことで、なんとなく度胸がついたのだろうと思う。あれを見て驚き慣れてしまえば、大抵のことは「まぁそんなこともあるか」で流せるようになる。

また、ルーシャン・ワーズワースの著書、『猫の飼い方』にもこう書いてあった。

『家に帰れば猫様がいる。その事実を思うだけで、人は今日の仕事を乗り切れる』と――

あの本は単なるペットの飼育法だけにとどまらず、飼い主に向けた人生訓をも含んでいる。

実際に引きこもりがちだったリルフィはルークの存在に救われ、生きる活力をも得た。

あのリルフィがこんな異国の地で、高位魔導師の内弟子として日々働けるようになったのは、間違いなくルークのおかげなのだ。

他の例で言えば、猫嫌いだったはずのラライナも猫と和解し、これをきっかけにして生き方を変えたらしい。クラリスは本人を見ていないのでなんとも言えないが、先日の手紙は衝撃だった。ロレンスが混乱して取り乱すところなど、初めて見たような気がする。

制服に着替えて身支度を済ませたところで、リルフィからルークを受け取る。

丁寧なブラッシングを終えたばかりなので、その毛並みはツヤツヤのさらさらでふわふわである。ルークはだいたいいつもさわり心地が良いが、ブラッシングの直後は特に柔らかみと滑りの良さがすごい。表面は流れるように手が滑るのに、抱えるとしっかり指がモフみに埋まる。適度な重さもあいまって、このまま抱え込んで歩き回りたい程度には快適感がある。

猫も嬉しそうで微笑ましい。「世の中には抱っこ嫌いな猫もいる」と聞いたことはあるし、ルーシャンの著書にもそう記述されていたが、ルークは抱っこ嫌いどころか初対面の相手にも積極的にすり寄っていく。

兄のクロードいわく「⋯⋯ルークさんのあれは、猫アピールして油断させてるんだと思う⋯⋯」とのことだったが、相手が油断しようがしまいが実際に猫である。他の猫とは少し趣味とか生き方が違うだけで、ルークはあくまで猫なのだ。

飼い主としてはそのことを忘れず、ちゃんと面倒を見なければならない。具体的には、「ペットのやらかしは飼い主の責任」なので⋯⋯ルークが道を間違えないよう、見守っていく必要がある。

特にトマト様を馬鹿にされた時に神罰とか発動してしまうといろいろまずいので、そういう時はリルフィと一緒に撫で回して落ち着かせたい。

幸い、ルークは子供にことさら甘く、ソレッタやセルニア、カティアといったクラリスと年の近い協力者達もできた。子供がなだめればどうとでもなる、基本的には心の広い猫さんである。

キルシュ先生の長女、まだ赤ん坊のルシーナも、生後一年でそろそろ立ち歩きができるようになってきた。「ママ」「パパ」より先に「にゃー」を憶えてしまったのはちょっとどうかと思うが、将来的にはとても心強い。

リルフィが出かける準備をする間、にゃんにゃんとご機嫌に悶えるルークを適当にモフり倒していると、部屋にノックの音が響いた。

「クラリス様、失礼いたします。少々よろしいですか」

「うん。入って」

メイドのサーシャである。兄の嫁なのでもう義姉と言っていい。

こっちでは彼女の姓を隠すため、もう「夫婦」ということになっているものの、本国ではまだ籍を入れていない。クラリスとしては「サーシャ姉様」と呼ぶ準備は万端なのだが、サーシャ本人がまだメイドの立場でいたいらしい。たぶんマリッジブルーみたいなものだろうから、義妹として配慮はしたい。その思いをルークに話したら「クラリス様って、実は人生二周目ですよね⋯⋯?」と、わけのわからないことを言われた。人生に周回はないと思う。神々にはあるのかもしれない。

「サーシャ、どうしたの?」

「恐れ入ります。クロード様が、夏の短期講義の件で、クラリス様にご相談したいことがあると⋯⋯」

スケジュールの調整だろう。

自分達は王族であるロレンスの警護役も兼ねているため、個々人の都合だけで講義をとるわけにはいかない。ある程度の分散は仕方ないが、常に複数名が同行し、誘拐などの非常事態に備えている。

『ルークがいればどうとでもなる』のは事実だが、彼はただでさえ忙しいし、もしもクラリスやロレンスに実害が及んだら⋯⋯その時のルークの怒りは、国単位、世界単位に及ぶ可能性もあるのだ。

ルークには決して言えないが、これは「純粋に自分達の身を守るため」というより、「神の怒りを買うような、不慮の事態を防ぐため」の用心でもある。

猫を抱えたまま居間へ行くと、兄のクロードは王弟ロレンス、メイドに化けたアイシャ、留学生仲間のマリーン、護衛の女騎士マリーシアと共に、短期講義のリストを囲んでいた。

後見人のペズン伯爵はピタゴラスに寄り添われうたた寝をしている。スイールはたぶんまだ起きていない。

「兄様、講義のことで相談があるって⋯⋯」

「ああ、クラリス。ルークさんも一緒ならちょうどいいや。実は追加で、ちょっとおもしろそうなのを見つけちゃって」

リストにはいくつも印がついていたが、兄がそのうちの一つを指さした。

「香辛料のふるさと⋯⋯世界の香辛料とその産地⋯⋯?」

初期に配布された講義予定表には、こんな講義はなかった。聴講生の集まりがあまりに悪いと差し替えになったり、あるいは急に講義が可能になって飛び入りのように登録する外部の講師もいるらしいので、おそらくこれは後者だろう。

「全三回⋯⋯講師はヴォラック・ラッカ先生⋯⋯あれ? ラッカ? もしかして⋯⋯」

「うん。ソラネさんにはまだ確認してないんだけど、もしかしたら、キルシュ先生の親戚かな、って」

「ほう! それは興味深いですねえ!」

即座に食いついたルークの目がキラキラしている。「香辛料!」と聞いて興奮したのだろう。食べ物に関するこだわりはすごい。

彼は最近、燻製トマト様オイル漬けの研究開発に余念がないようで、こと「香り」「風味」を付加してくれる素材に興味津々である。

ブランフォード伯爵領での燻製トマト様は完成したようなものだが、将来的にはご当地ならではの加工品を世界各地で検討したいらしく、今は貪欲に知識を求めていた。若い猫は好奇心旺盛らしいので、充分に猫らしいと思う。

「確かヴォラックさんというのは、キルシュ先生のお父様のお名前だったかと記憶しています。我々が留学してきた頃は、植物の採取旅行で北部地域に出かけていたので⋯⋯夏を前にして、皇都へ戻ってきたのかもしれませんね!」

ラッカ家の男達については、官僚候補の上級生、ソラネ・ラッカからいろいろ聞かされている。

ソラネの兄、キルシュ・ラッカは「大叔父の捜索」という名目で旧レッドワンドに単身突撃し、フィールドワークをしながら現地の有翼人エルシウル(有翼人シャムラーグの妹)と結婚。

その後、いろいろあってルークに助けられ、今はリーデルハイン領に医師として移住している。

娘のルシーナは生後一歳。しかもルークが名付け親である。生後すぐに『亜神の加護』を得てしまった逸材でもある。

ソラネは以前、「ラッカ家の男には放浪癖がある」などと言っていたが、キルシュ本人によると別にそういうわけでもないらしく⋯⋯「未知のものや調査が好きなだけ」とのことだった。

実際、今は亡きキルシュの祖父は皇都に腰を据えて魔道具職人をやっていたらしいし、キルシュもリーデルハイン領に落ち着いてからは移動しそうな気配がない。理想の居場所を見つけるまではふらふらするが、見つけてしまえばそこに落ち着く、という精神性らしい。

ただ、キルシュとソラネの父親にあたる植物学者、ヴォラックの場合は、その研究対象が「珍しい植物」である以上、どうしてもよその土地へ行きがちなのだと思われる。

そのヴォラックが講師として来るならば⋯⋯

「ルーク、これ、キルシュ先生にも教えてあげたほうがいいよね? 初孫に会える機会になるし」

「あっ! それもそうですね! 後で連絡しておきます」

ラッカ家の面々はもうルークと知り合いである。キルシュはもちろん、官僚候補生のソラネ、二人の母のメルーサにもルークはよく懐いている。彼いわく、「ラッカ家は人材の宝庫」らしい。

メルーサ博士は学内の農業研究所・副所長であり、専門は「農業経済学・農業経営学」⋯⋯つまり「作物そのもの」よりも「流通や生産を含めた環境面」の研究者なのだが、こちらでのトマト様の研究や支援も手伝ってくれている。

ついでに意外と多忙なスイールに代わって、「稲作用の水田用地」も人づてに探してくれている。息子のキルシュ同様、ルークの爪が届きにくいところをサポートしてくれる頼もしい味方である。

そんなこんなで追加講義への新規登録を申請しつつ、この日の午後、クラリス達は大講堂での『スイール・スイーズ特別講義』に満を持して参加した。

学生組に加え、アイシャやペズン伯爵、オズワルド、ヘンリエッタ、さらに賢樹ダンケルガの傀儡まで加わった布陣である。

オズワルドとヘンリエッタが一緒に来た時点で、学園側は即座に緊急用の貴賓席を用意してくれた。学園長のマードックが、愛想の良い笑顔の裏でちょっぴり恐怖していた。

講義の題は『水属性魔法の可能性と未来』。

まずは水属性魔法の簡単な歴史。

ホルト皇国における薬学、農業との親和性。

そういった基礎知識は手早くぱぱっと流し、壇上のスイールは早々に「その実例」と「これから」の話を始めた。

ポルカとマズルカも序盤こそ「スイール様かっこいいー!」と目をキラキラさせていたものの、このあたりでギラギラに転じてくる。すなわち商売人の目である。

「ご紹介してきたように、水属性魔法は『水を操る魔法』です。『温度を下げて、空気中の水分から水を生み出す』『その流れで凍らせる』『水や氷の形状を変える』『思い通りに動かす』⋯⋯そういった直接的な操作がメインだと思われがちですが、この水属性魔法の真価は『成分の操作』⋯⋯つまり必要な素材を足した後の『変質』にこそあるというのが私の考えです」

普段のスイールは、割と 物憂(ものう) げで無愛想、あるいは気の抜けた喋り方をするのだが⋯⋯こうした場では、よく澄んだ聞きやすい声音に変わる。声質だけで説得力がすごい。

「他の地、火、風属性魔法にもこれに近い要素はあります。地属性ならば微生物の活性化や腐敗の進行、鉱物の精錬、分離。火属性ならば燃焼による温度変化。風属性ならば空気の撹拌と均質化⋯⋯」

⋯⋯ここでスイールがあえて説明を省いたことに、クラリスは気づく。

以前、ルークとスイールはこんな雑談をしていた。

『ぶっちゃけ、成分の操作とか変質で一番ヤバいのって風属性だよね。任意の範囲を一酸化炭素とか二酸化炭素だらけにしたら、それだけであっさり軍隊まるごと全滅させられるもん』

『えっ⋯⋯怖っ⋯⋯でもそれ、火属性でもできません? 火事みたいな感じで⋯⋯』

『火属性だとそもそも火が必要になるし、密室じゃない限り拡散しちゃうからね。風属性の場合、火を使わずに成分だけ変質させて、空気の流れも完全に操れるから⋯⋯誰にも気づかれないうちに魔法を使える。たとえば戦場に見えない密室を作って、その内側の空気だけ呼吸不可能にしたり、可燃性にしたりできるってわけ。さすがにヤバすぎて私も秘密にしてるけど⋯⋯こんなのが世に知れたら、風属性魔導師の戦争利用、暗殺利用が洒落にならないレベルで広がる。ルークさんも、こういうの思いついても喋っちゃダメだよ?』

『⋯⋯うぇい』

宮廷魔導師と猫の会話には、ところどころ、わからない単語もあったが⋯⋯とにかく、風属性の魔導師は亜神がドン引きする程度には危険な魔法を使えるらしい。ただ、その方法は世に知られていないようだ。

『⋯⋯でも魔族にはいそうですよね。そういうヤバいワザ使える人』

『⋯⋯いるだろうね。ルークさんも対策、考えておいたほうがいいかも』

そんな怖い話をしていたが、クラリスはピタちゃんに埋もれて寝たふりをしていたので、この話は聞いていないことになっている。もちろん人に話すつもりもない。

大講堂でのスイールの講義は続く。

「程度の差はあれど、四属性それぞれに、成分の操作、あるいは変質を促進する方法があります。しかし『水属性』の場合、『液体』を媒体とするがゆえに、その範囲と汎用性が格段に広い。液体には魔力を内包させやすく、また瓶に詰めれば保存と運搬が可能な上、薬品として人体に取り込むのも容易です。魔力を回復させる魔法水などは、まさにその例ですね。土や火ではちょっと食べにくいですし、空気はすぐに拡散してしまいます」

スイールの冗談めかした言い方に、大講堂の空気が少し緩んだ。

「他にも身近な例をだせば、金属の錆を防ぎ長持ちさせる液体⋯⋯そう、皆様もご存知の『塗料』ですね。これは水と植物油、鉱物、薬剤を、水魔法や魔道具を用いて変質、安定化させることで作られます。さらに追加で適切な素材、薬剤と魔法を併用すれば、ここに他の特徴を付与することも可能です。現時点での成功例としては、『錆止めの効果を持ちつつ、よく滑る表面塗料』。これは船の外装や、一部の機械部品に有用でしょう。その逆に『錆止めプラス滑りにくい塗料』。これは橋などの建材、あるいは滑ったら困る工具などにも流用可能でしょうか。こうした研究を重ねていくと、遮熱性、光の反射の有無、さらには炎への耐性を操ることができ、この成果は近い将来、『反射炉』の効率向上へとつながる予定です」

おお、と聴衆からどよめきが上がる。スイールが苦笑いを浮かべた。

「期待していただいて恐縮ですが、こちらはまだ未完成です。現在、魔導研究所の試験炉では、通常の耐火レンガで作った炉にこの塗料を用いることで、それこそ炎烈鉱なみの火力を再現するところまでは成功しました。ただ耐久性に難があり、数回の使用で塗料の塗り直しが必要になります。現在はこの耐久性を高めるべく、様々な素材と加工で試行錯誤を繰り返しているところです。続いて他の例もご紹介しましょう。リルフィ、五番のスライドを」

壇上の白幕に、魔道具の「スライド」によって映像が映される。

これもネルク王国にはない魔道具で、紙に書いたものをスクリーンに拡大投影する品らしい。

学生時代のスイールが独自開発したもので、はじめは『何に使うんだ?』と疑問視されていたようだが、今ではこうした場でしっかり活用されている。

映し出された資料は⋯⋯トマト様の細密画だった。

クラリスの腕の中で、猫が無言のガッツポーズを見せる。今日は個室タイプの貴賓席なのでバレてはいない。

「ご存知の方も多いでしょう。こちらはネルク王国、リーデルハイン領原産の『トマト様』という新種のお野菜です。ラズール学園には、レッドトマト商国のトゥリーダ様を経由してもたらされました。これはネルク王国側からの厚意でもあり、トマト様はまさに三国友好の証として、学園でも試験栽培を進めています」

腕の中のルークが、内心で『ブラヴォー!』と拍手喝采している気がする。さすがに声は出していないが、尻尾がすごい荒ぶっている。

スイールはトマト様に関する説明を淡々と、それでいて確かな熱量を感じさせる声音で進めていき、話題はミニトマト様の水耕栽培に及んだ。

「こちらの小さな一口サイズのミニトマト様は、水耕栽培が可能です。水耕栽培の利点は、そもそも土を使わないので土質の違いを考慮しなくて良いこと。デメリットは、液体肥料、あるいは水に溶かして使う粉末肥料が必要なこと。これもうちの研究室で開発中です。我々が想定している活用法は、このような⋯⋯」

スライドが切り替わり⋯⋯

船の上に、ミニトマト様の木が四本ほど並ぶ絵が出てきた。

「海の上での、船上栽培です」

講堂に集まった商人達の一部が、はっと息を呑んだ。大多数の者はまだ「なんでわざわざ船上で?」と首を傾げている。

「古来より、長期航海における船乗りの悩みは壊血病⋯⋯即ち、生鮮品が手に入りにくいがゆえの健康被害でした。これを防ぐ方法は柑橘類や酢漬けのキャベツなどいろいろありましたが、このミニトマト様の船上栽培も、我々としてはぜひ試してみたい案です。なにせ海上ですから、水属性の魔導師が一人いれば、栽培に必要な真水は容易に確保できます。浄水用の魔道具はそこそこ高価ですが、手元にあればもちろん活用できるでしょう。航海中の船上で新鮮な野菜が手に入るとなれば、船員の食生活は劇的に改善されます」

今度は他の聴衆にも利点が伝わったようで、感心したような吐息が溢れた。

「とはいえ、液体・粉末肥料の開発や揺れへの対策、塩害対策、強風時の船内への退避方法など、課題も多いのですけれどね。それでも『できる』ことが増えるのは喜ばしい。ホルト皇国には内海しかありませんので、長距離の航海をする機会はそうそうないでしょうが、しかし交易商人の方々は国境を越え、もっと外へと目を向けておられる。その夢をお手伝いできるような技術の模索を、我々はこれからも、鋭意続けていきたいと思います。それでは本日はこのあたりで。ご静聴、ありがとうございました」

講義終了の挨拶をするスイールに、聴講者達からの拍手が送られる。

猫がスタンディングオベーションをしないように抱え直しつつ、クラリスも形だけ拍手をした。何分にもルークを抱えているので、大きな音を鳴らすと猫の耳によろしくない。飼い主の気遣いである。

聴衆は順次退出していくが、ちょっと熱心、かつ権力なり財力なりを持っていそうな一部の人達は、スイールをつかまえて個人的な質問をしていた。たぶんスポンサーや顔見知りだろう。

スイールも「後で対応するより、今済ませちゃったほうが楽」とでも考えているのか、逃げる様子はない。

終わったらねぎらいつつおやつを食べる約束なので、クラリス達も貴賓席に座ったまま、しばらく待つことにした。

クラリス達が上から見守る中、リルフィはその紳士を案内し、大講堂を出ていく。おそらくは貴賓席につながる階段を使うのだろう。

クラリスの背後から、ポルカとマズルカが囁いた。

「クラリス様、ラッカ家の人だよ! 植物学者のヴォラックおじさん!」

「はい。私達の祖父の友人で、ソラネさんやキルシュ先生のパパですね」

ラッカ家のヴォラック・ラッカ⋯⋯今朝も話題に出た、夏季短期講座の講師である。

クラリスの腕の中で、ルークがやや身じろぎをした。

「⋯⋯うお⋯⋯まじか⋯⋯」

初対面の相手を見た時、ルークはたまに本を広げるような仕草と共にこんな反応をする。これは魔力鑑定の一種で、相手の大雑把な能力、適性、称号などを見ているらしい。

「ルーク、何か気になることとかあった?」

「あ、いえ! さすがはキルシュ先生の父君というか、想定以上に優秀な方のようで、少し驚きまして」

素直に答える飼い猫の頭を撫でながら、クラリスは重ねて問う。

「魔導師なの? それとも称号持ちとか?」

「魔導師ではないですが、称号持ちですね⋯⋯何故か『地精霊の祝福』をお持ちのようです」

クラリスはほんのりと首を傾げた。

上位精霊からの『祝福』は、基本的にその属性の魔導師でなければ受けられないと聞く。いや、ルークのように風属性を持っていなくても風精霊の祝福を受けられた例はあるが、少なくとも魔導師でなければ⋯⋯あるいは特殊な称号持ちでなければ、精霊の姿を見ることさえ叶わない。

クラリスやロレンスも『亜神の加護』を得ているから上位精霊達と話せたが、魔導師ではないから祝福は得ていない。

「魔導師じゃないけど地属性魔法は使える、ってこと?」

「いえ、そういうわけでもないようです。ちょっと御本人に聞いてみないとわかんないやつですね、これは」

口ぶりからして、ルークはどうやらちゃんと自己紹介することに決めたらしい。なにせクラリスは飼い主なので、ペットの考えていることはだいたいわかる。ルークがわかりやすいせいもある。

スイールもルークのそんな反応を予想して、ヴォラックの案内をリルフィに任せたのだろう。

ともあれ、思ったよりも早く件の植物学者と接触する機会ができたことに、クラリスはほんの少し猫の導きを感じてしまうのだった。