作品タイトル不明
世界 ⑥
「帰ったぞ。食肉加工所への獲物の搬入も終わった」
「ん!? もうそんな時間か!?」
ガバッと顔を上げたハロルド様の慌てように、お母様が苦笑する。
「いいや。5の鐘が鳴るまでには幾らか時間があるな」
「そ、そうか。悪いが、少しだけ昼食の時間を遅らせてくれないか」
疲れが見える顔で、ハロルド様が目頭を揉む。
良いお父さんだなあ。
どれだけ忙しくてもルナリアとの時間を作ろうとするハロルド様が微笑ましい。
「キリが悪いのか?」
「ああ。一区切り付くところまで終わらせておきたい」
「構わんさ。王都からの移送命令が届くのも、そろそろだろうしな」
「悪い。助かるよ」
領主館に戻って執務室のハロルド様に帰還の報告をした後、半端な時間だったので、昼食前に少しだけ座学を教わることになった。
出兵の準備だけで無く、ルナリアのお兄様たちの葬儀の準備も有るから、ハロルド様はすごく忙しいらしい。
どのくらい忙しいかというと、「さっさと出兵して、ゆっくりしたい」と意味不明な愚痴を零す程度には忙しい。
出兵したら忙しいはずだよね?
お婆様監督の下で今から始まるお母―――、お師様の授業は雑談の形じゃなく、ちゃんとした形での座学は初めてだから、すごく期待している。
テレサなんて目をキラッキラにしているぐらい楽しみだよ。
でも、場所は、なぜか領主執務室の中に置かれた会議用の大机なんだよね。
地図を拡げての作戦会議に使われるという10人は座れそうな大机を挟んで、私たち3人とお師様とお婆様の2人が座り、私たちの後ろにはピーシーズの10人とレーテさん、お師様たちの後ろにはエゼリアさんとアンリカさんが立っている。
「勉強ならピーシーズのみんなも一緒にすれば良いのに」と提案してみたら、正騎士になる方が最優先で、みんな勉強には興味が無いらしい。
「要人警護任務の訓練として同席しているだけだから放っておくように」とアンリカさんからも言われてしまった。
こうやって脳筋の脳筋が熟成されて脳筋具合が上がった脳筋が量産されるのでは無いだろうか。
私やテレサだけでなく、ルナリアもこの大机を使用させて貰うのは初めてだって。
通常、私たちが話し合いの場に呼ばれる際に、この大机が使用されることはない。
大事なお客人であるテレサが参加する場となれば、もっと無い。
なぜならば、領主執務室のソファーセットには、大体、お母様が居座っており、この部屋にお母様が居る限り、私たちはソファーセット以外に座らされることは無いからだ。
ハロルド様の執務のお邪魔になるんじゃないの? と心配になるのだけれど、ルナリアを手元に置く時間を少しでも長くしたいとゴネるハロルド様の強い要望と、テレサの護衛上、要人警護の場所を分散させたくないという、もっともらしい理由により、領主執務室で授業が行われることになった。
執務室の中には、教師役のお師様と監督役のお婆様と部屋の主のハロルド様だけでなく、ハロルド様の傍で決裁待ち書類を椀子そば状態で差し出し続けているワールターさんと、エゼリアさんたちと王都の騎士様たち数人も居て、執務室の外にはディーナさんたちが固めていて、室内外を行き来するのはイディアさんたちという、何が攻めてきても崩せそうに無い鉄壁の警備体制だよ。
「あの・・・。よろしいでしょうか?」
「何だ?」
「わたくしの護衛には騎士団も就いているのですが、本当に、ここで授業を受けさせていただいてもよろしいのでしょうか?」
領主執務室と言えば、地方行政の中枢であり軍事の中枢だからね。
封建国家という地方分権体制下では国家の中枢と言える場所でもある。
それはもう、場違い感が半端ない。
お婆様もお母様の判断を咎める様子が無いけれど、全ての情報が集まる社長室のような場所に他所の従業員を入れるなんて大丈夫? とテレサが心配になる気持ちは分かる。
「ウォーレス家は王家に隠すことなど何一つ無いし、むしろ、情報共有に二度手間が無くて捗る。違うか?」
「そうだな」
前置きも無くお師様から話を振られたハロルド様も、手にした書類に目を落として文字を追いながら即答する。
遠慮がちに出されたテレサのご 尤(もっと) もな疑問は、お師様の一声で問題が問題では無くなってしまった。
その情報共有って私たちの勉強の進度のことだよね?
お師様とハロルド様の息の合い方は、そんじょそこいらの夫婦以上じゃないかな。
べルーサー様もバルトロイ様も大人の時間を継続中で居ないし、暫定的にハロルド様、というかお師様の指揮下に入っているみたいだけれど、王都の騎士団はウォーレス家とは指揮系統が違うからね。
同じ“保守派”に属しているからと言って、みんながみんな強大な軍事力を持つウォーレス家の味方とは限らないし、余計な疑いを持たれないように、騎士団に対するポーズの意味も有るんじゃないかと推察する。
さて、大机の椅子に置かれた高さ調節用のクッションの上に座る私たち子供の前へと広げられているのは、畳2枚分以上もの大きさが有る馬鹿デッカい羊皮紙である。
今更だけれど、羊皮紙というのは、毛皮の毛を削ぎ落した、要するに獣の革だよ。
たぶん羊の皮じゃ無いのに羊皮紙なのか疑問だけど、羊皮紙って言われたから羊皮紙なんだよ。
背中を中心とした部分の革だけでこの大きさってことは、皮を剥がれる前の魔獣がどれだけ大きかったかがよく分かる。
王国では、和紙のような質感が粗いものとはいえ、すでに紙が普及しているのに、なぜ羊皮紙なのかと思ったら、羊皮紙は濡れてインクが滲むことは有っても簡単に破れないから、地図のように重要な資料の記録媒体として使い続けられているらしい。
私は、食料の確保と脅威の排除が何よりも最優先で、小説によくある地球の優良な製紙技術で儲けてウハウハ! みたいな小商いに全く興味が無いから、紙なんて、いつの日か地球から来るかもしれない勇者さんが適当に広めれば良いよ。
紙の話はさておき、日本で流通している紙で一番大きいA0(ゼロ)サイズの2倍以上も有る大きな羊皮紙に描かれているのは、軍事会議で使われる大陸全土地図である。
現代の地球においても地理情報は軍事機密情報の最たるものだ。
人工衛星なんてものが発明されていない世界においては国家最高機密の塊とも言って良いぐらいで、地理情報の価値は地球よりも高い。
ずいぶんと古そう、と思ったら、この地図、何とウォーレス家始祖レティア様の時代から伝わっている羊皮紙に新たな国境線や地形情報を加筆し続けたもので、地球に在れば博物館で厳重に保存されるような国宝級の代物だった。
500年前の現物だよ! すごいね!
確か、羊皮紙は湿気やカビに弱かったはずだから、いくら乾燥気味の気候で腐敗しにくいとは言っても、どれだけ大切に保管されてきた地図なのかがよく分かる。