作品タイトル不明
殿下、その手紙ではもう公務は止まりません
翌朝、王宮には新しい紙が貼り出されていた。
正門の掲示板。
王太子府(おうたいしふ) の廊下。
王妃陛下秘書官室(おうひへいかひしょかんしつ) の前。
会計監査室(かいけいかんさしつ) の受付。
そして、私のいる王太子府 儀典日程室(ぎてんにっていしつ) の入口にも。
白い紙に、黒い文字。
王妃陛下の印。
法務官室(ほうむかんしつ) の確認印。
国王陛下の 仮裁可印(かりさいかいん) 。
正式な 王宮令(おうきゅうれい) だった。
王太子府における 私的事情(してきじじょう) を理由とした公務日程変更について。
一、王太子殿下の私的事情による公務変更は、日程管理官、王妃陛下秘書官室、関係部署の 三者確認(さんしゃかくにん) を 必須(ひっす) とする。
一、 私信(ししん) を理由とする公務欠席、 遅参(ちさん) 、途中退席は、王太子殿下個人の判断として記録する。
一、 医師(いし) 、 治療院(ちりょういん) 、 当該家門(とうがいかもん) より 公式要請(こうしきようせい) がある場合は、公式要請として別途記録する。
一、費用発生が見込まれる変更については、事前に 負担元(ふたんもと) を確認する。
一、 緊急時(きんきゅうじ) を除き、 単独(たんどく) の 補佐官(ほさかん) 、調整官、 侍従(じじゅう) による 代替処理(だいたいしょり) を 禁(きん) ずる。
最後の一文を読んだ時、私は少しだけ息を止めた。
単独の補佐官、調整官、侍従による代替処理を禁ずる。
そこに、私の名前はない。
けれど、私のことだと分かった。
私を責めるための文ではない。
私を戻さないための文だ。
私一人が黙って処理すれば、王宮は静かに見える。
けれど、それは正常ではない。
それを、王宮令が文字にしていた。
「読んだか」
背後からベネット卿の声がした。
私は振り返り、礼をする。
「はい」
「どう思う」
「……不思議です」
「不思議?」
「私が今までしていたことが、禁止事項になっております」
ベネット卿は少しだけ目を細めた。
「君が悪かったからではない」
「分かっております」
分かっている。
それでも、胸のどこかが小さく痛んだ。
してはいけないことを、私はずっとしていたのだ。
必要だと思って。
役に立っていると思って。
誰かを守っていると思って。
「制度に書かれると、少し怖いですね」
私がそう言うと、ベネット卿は掲示された王宮令を見上げた。
「怖いくらいでちょうどいい。人の善意に寄りかかる組織は、善意が尽きた時に倒れる」
「はい」
「倒れる前に、紙で止める。それが我々の仕事だ」
紙で止める。
その言葉は、いかにもベネット卿らしかった。
けれど、今の私には少し分かる気がした。
紙は冷たい。
でも、冷たいからこそ、熱に浮かされた判断を止められる。
怒りでも、涙でも、 懇願(こんがん) でもなく。
規定。
承認欄(しょうにんらん) 。
負担元。
記録。
それらが、私の代わりに立ってくれる。
「クラウゼン嬢」
日程室の若い 書記官(しょきかん) が、少し緊張した顔で近づいてきた。
「 外務儀典局(がいむぎてんきょく) より、本日午前の 隣国使節団(りんごくしせつだん) 対応について追加資料です」
「ありがとうございます」
私は書類を受け取った。
今日は、隣国使節団との 港湾通商(こうわんつうしょう) に関する 非公式会談(ひこうしきかいだん) がある。
私は王宮全体の儀典調整補助として、三日間の同席を正式に命じられていた。
正式な依頼。
正式な職務。
誰かの尻拭いではない。
そう思うだけで、手元の書類の重さが少し違って感じられる。
午前八時。
日程室では、いつもより多くの文官が動いていた。
王宮令が出た翌朝だからだ。
新しい規定が出ると、最初に混乱するのは現場である。
誰が確認するのか。
どの紙を使うのか。
どこまでが私的事情で、どこからが公式要請なのか。
どの部署に写しを送るのか。
王宮令は一枚の紙だ。
けれど、それを実際に動かすためには、無数の細い道が必要になる。
「リュミエール男爵家から使いが来ています」
その声が日程室に届いたのは、午前八時半を少し過ぎた頃だった。
室内の空気が、一瞬だけ固まった。
誰も大きな声は出さない。
けれど、筆の音が止まった。
リュミエール男爵家。
セラフィーナ様の家。
私は手元の資料から顔を上げた。
以前なら、すぐに私が動いていた。
使者の身分を確認し、手紙を受け取り、殿下の予定を見て、空き時間を探し、関係部署へ 根回(ねまわ) しを始めていただろう。
今日は、違う。
ベネット卿が短く言った。
「 受付規定(うけつけきてい) 通りに」
「はい」
書記官が慌てて動き出す。
私は立ち上がらなかった。
手も出さなかった。
何もしないということが、こんなにも難しいとは思わなかった。
しばらくして、書記官が一通の封書と 受付票(うけつけひょう) を持って戻ってきた。
「リュミエール男爵家より、王太子殿下宛ての私信です。使者は男爵家侍女。医師または治療院の署名はありません」
ベネット卿は頷いた。
「王宮令第二項に基づき、私信として受付。王妃陛下秘書官室へ写しを送れ。王太子府には、私信到着の事実のみ通知する」
「はい」
書記官が受付票に印を押す。
私信。
その一語で、紙の扱いが決まる。
以前なら、そこからすべてが曖昧になった。
セラフィーナ様がお困りらしい。
殿下がお見舞いに行きたいと仰るかもしれない。
今日の公務をどこまでずらせるだろう。
誰に頭を下げれば間に合うだろう。
でも今は、違う。
私信は私信。
公式要請ではない。
それだけで、王宮の動き方が変わった。
「クラウゼン嬢」
ベネット卿が私を見る。
「手が動いている」
「え?」
自分の手元を見ると、私は無意識に予定表の端を開きかけていた。
殿下の今日の予定を確認しようとしていたらしい。
私は慌てて手を止めた。
「申し訳ございません」
「謝る必要はない。癖だ」
「はい」
「だが、癖は直せ」
「……はい」
私は予定表を閉じた。
ぱたん、という音が、少しだけ大きく聞こえた。
その時、王太子府側の廊下がざわついた。
足音。
低い声。
制止する声。
そして、聞き慣れた声。
「リュミエール家から手紙が来たと聞いた」
レオンハルト殿下だった。
室内にいた全員が立ち上がる。
殿下は入口に立っていた。
護衛騎士(ごえいきし) が二名。
王太子府の 上級書記官(じょうきゅうしょきかん) 。
王妃陛下秘書官室の文官。
昨日と同じように、殿下の周囲には人がいる。
けれど、昨日よりも 苛立(いらだ) ちが見えた。
自由に動けないことが、殿下をじわじわと締め付けているのだろう。
「殿下」
ベネット卿が礼をする。
「リュミエール男爵家より、殿下宛ての私信が到着しております」
「見せろ」
「現在、王宮令に基づき受付処理中です。写しを王妃陛下秘書官室へ送付した後、殿下へお渡しします」
「僕宛ての手紙だ」
「はい」
「なら、なぜ母上の秘書官室へ写しを送る」
「王宮令に基づく処理です」
ベネット卿の声は変わらなかった。
殿下の視線が、壁の王宮令へ向く。
黒い文字。
王妃陛下の印。
国王陛下の仮裁可印。
殿下は唇を引き結んだ。
「セラフィーナの体調が悪いかもしれない」
「医師または治療院からの公式要請は届いておりません」
「手紙が来ている」
「私信です」
「私信でも、緊急かもしれない」
「緊急であれば、医師または治療院からの要請が必要です」
言葉が、規定の上を滑っていく。
以前なら、ここで誰かが折れた。
殿下の顔色を見て、声の強さを聞いて、結局は「念のため」と言って予定を動かした。
その「念のため」を、今日は誰も言わない。
殿下が苛立ったように言った。
「では、僕が今からリュミエール家へ向かうと言えばどうなる」
室内の空気がさらに重くなる。
私は息を止めた。
ベネット卿は、一拍置いて答えた。
「本日午前十時より、隣国使節団との港湾通商に関する非公式会談がございます」
「分かっている」
「殿下は同席予定です」
「分かっていると言った」
「では、現時点で私信を理由にリュミエール男爵家へ向かわれる場合、王宮令第二項に基づき、王太子殿下個人の判断による公務欠席または遅参として記録されます」
殿下の顔色が変わった。
「また記録か」
「はい」
「費用もか」
「発生すれば」
殿下は、何かを言いかけた。
けれど、言葉が続かない。
昨日の小会議室で、三十八件を一つずつ確認した記憶が、まだ新しいのだろう。
記録される。
負担元を問われる。
父王へ 上申(じょうしん) される。
国庫返還(こっこへんかん) 手続きに乗る。
それらの言葉が、殿下を止めていた。
私ではない。
ベネット卿でもない。
王宮令が、殿下を止めていた。
「……手紙を確認してから判断する」
殿下は低く言った。
「承知しました。処理後、王妃陛下秘書官室同席のもと、殿下へお渡しします」
「同席?」
「はい。私信であっても、公務変更の可能性を伴うためです」
殿下は目を閉じた。
ほんの一瞬だった。
けれど、その顔には、疲れと 屈辱(くつじょく) が滲んでいた。
「分かった」
殿下はそう言い、 踵(きびす) を返した。
その時、入口近くに立っていた私と視線が合った。
殿下の目が、一瞬だけ揺れる。
責めるような。
助けを求めるような。
あるいは、昔と同じように私が何かを整えてくれることを期待するような。
私は、礼をした。
ただ、それだけだった。
殿下は何も言わず、護衛たちとともに廊下の向こうへ消えた。
足音が遠ざかる。
日程室の中に、静けさが戻った。
誰かが小さく息を吐いた。
私も、知らないうちに息を止めていたらしい。
胸が少し苦しかった。
「クラウゼン嬢」
ベネット卿が言った。
「はい」
「今の処理を、どう見た」
突然の問いだった。
私は少しだけ考えた。
「……間に合った、と思いました」
「何が」
「私が動く前に、制度が」
ベネット卿は、わずかに頷いた。
「そうだ」
それだけだった。
でも、その一言で十分だった。
私は、もう殿下を止めるために消耗しなくていい。
殿下が困らないよう、先回りしなくていい。
セラフィーナ様の名前をどうぼかすか悩まなくていい。
外務儀典局への説明文を、私一人で考えなくていい。
王宮令がある。
受付票がある。
確認欄がある。
同席者がいる。
それらが、私の代わりに立っている。
「外務儀典局へ向かいなさい」
ベネット卿が言った。
「港湾通商会談の 導線(どうせん) 確認があるだろう」
「はい」
私は書類を抱えた。
手元の予定表を見ずに済んだことに、少しだけ驚いた。
分かっている。
次の予定は、私の中にある。
誰かの穴を埋めるためではなく。
私が任された仕事として。
外務儀典局の会議室には、すでに隣国使節団の資料が並べられていた。
港湾通商に関する非公式会談。
表向きには親善。
中身は、互いの港の使用料、商会の利権、海上警備の負担割合、来年度の交易許可枠。
笑顔で茶を飲みながら、国同士が縄を引く場である。
私は外務儀典局長代理の横に立ち、導線図を確認した。
昨日指摘した北回廊は、雨天時の 聖具(せいぐ) 搬入を避けるため、予備導線として西回廊が追加されている。
神殿側からも、雨天時は南側搬入口を使うとの返答が来ていた。
東方商会代表の席次も修正済み。
文化局長が間に入る形になっている。
「クラウゼン嬢」
背後から声がした。
振り返ると、アーヴィン・ヴァルツ公爵が立っていた。
今日も黒に近い礼服。
表情は静か。
薄い青の目は、昨日と同じように部屋の配置を一通り見た後、私の手元の資料へ落ちた。
「王宮の朝は、少し騒がしかったようですね」
私は表情を崩さなかった。
「王宮では、毎朝さまざまな処理がございます」
「いい返答です」
昨日も聞いた言葉だった。
褒めているのか、測っているのか、分からない。
たぶん両方だ。
「新しい王宮令が出たと聞きました」
「はい」
「あなたの仕事を、禁止するための紙ですか」
一瞬、言葉に詰まった。
外務儀典局長代理がこちらを見る。
ヴァルツ公爵の言葉は静かだったが、刃のように鋭かった。
私は慎重に答えた。
「私の仕事を禁止するものではございません」
「では?」
「私一人で処理していた異常を、制度として止めるためのものです」
ヴァルツ公爵の目が、少しだけ細くなる。
「なるほど」
「私は、職務を失ったわけではありません」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「職務の範囲が、正しく引き直されただけです」
ヴァルツ公爵は、少しの間黙っていた。
そして言った。
「線を引かれて、あなたは楽になりましたか」
答えに迷った。
楽になった。
それは事実だ。
でも、楽という言葉だけでは足りない。
寂しさもある。
痛みもある。
今までの自分が間違っていたと突きつけられる怖さもある。
けれど、それ以上に。
「呼吸は、しやすくなりました」
私は答えた。
ヴァルツ公爵は、今度は何も評価しなかった。
ただ、短く頷いた。
「それは、良いことです」
その言葉は、外交の評価ではなかった。
仕事の査定でもなかった。
少しだけ、人としての言葉に聞こえた。
だからこそ、私はすぐに視線を資料へ戻した。
油断してはいけない。
この人は、優しいだけの人ではない。
昨夜、こちらの弱点を拾えるはずだった交渉材料が潰された、と言った人だ。
「本日の会談について、確認がございます」
私は資料を開いた。
「港湾通商の非公式会談後、使節団は西回廊を経由して神殿訪問へ向かう予定です。ただし、雨天時に神殿側が南側搬入口を使う場合、聖具運搬車が一時的に庭園西路を塞ぐ可能性がございます」
ヴァルツ公爵はすぐに会議の顔へ戻った。
「代替は」
「庭園を通らず、内回廊を使う案を用意しております。ただし、内回廊は王族専用区画に近いため、王妃陛下秘書官室の許可が必要です」
「許可は」
「申請済みです。午前九時半までに回答が来ます」
外務儀典局長代理が補足する。
「クラウゼン嬢の指摘を受け、昨日のうちに回しています」
ヴァルツ公爵の視線が、また私に向いた。
「昨日のうちに」
「はい」
「今日の天候を見てからでは遅い、という判断ですね」
「神殿側の動きは、天候が決まってからでは間に合いませんので」
「当然のように言う」
「当然です」
昨日と同じようなやり取りだった。
けれど、今日は少しだけ違った。
私はもう、その言葉を言うことを怖がらなかった。
当然の確認をしただけです。
そう言えることは、悪いことではない。
午前九時半少し前。
王妃陛下秘書官室から、内回廊使用許可の返答が届いた。
条件付き許可。
王族専用区画に近い扉は閉鎖。
使節団の通行時は、衛士二名追加。
導線変更の理由は、神殿側の聖具搬入との接触回避。
通商会談とは結びつけない。
私は内容を確認し、外務儀典局長代理へ回した。
彼は頷き、すぐに書記官へ指示を出す。
流れるようだった。
私一人ではない。
外務儀典局、秘書官室、神殿側、 衛士(えじ) 、書記官。
それぞれが少しずつ動いて、一つの導線が整っていく。
これが本来の形なのだろう。
午前十時。
会議は定刻通りに始まった。
定刻の少し前、レオンハルト殿下も入室していた。
護衛騎士二名。
王太子府の上級書記官。
王妃陛下秘書官室の文官。
朝と同じく、殿下の周囲には必ず誰かがいた。
殿下は私を見なかった。
私も、必要以上に殿下を見なかった。
港湾通商の非公式会談は、予定より少し重い空気で進んだ。
隣国側は、港の使用料について柔らかい言葉で譲歩を求めた。
こちら側は、海上警備の負担増を理由に慎重な姿勢を示した。
大使は笑顔だった。
外務儀典局長代理も笑顔だった。
レオンハルト殿下は、王太子として冒頭の歓迎を述べた。
言葉は整っていた。
けれど、少しだけ硬かった。
ヴァルツ公爵は、ほとんど笑わなかった。
けれど、彼が口を開くたびに、場の温度が一段変わる。
「港は、門です」
彼は言った。
「門を広げるなら、誰が番をするのかも同時に決めなければならない」
こちらの港湾管理官が頷く。
「番をする者には、費用がかかります」
「ええ。だからこそ、その費用を誰が負担するのかを曖昧にしたくない」
その言葉を聞いた瞬間、私は手元の筆を止めそうになった。
費用を誰が負担するのか。
昨日まで、王宮の小会議室で繰り返された言葉。
ここでも同じだった。
国と国の会談も、結局は同じところへ戻ってくる。
誰が決めるのか。
誰が払うのか。
誰が責任を持つのか。
規模が違うだけで、手順は似ている。
会談そのものに、私が口を出すことはない。
私は儀典調整の補助だ。
発言の順番。
休憩の合図。
茶器の差し替え。
大使夫人の体調。
港湾管理官の次の予定。
神殿側から届く回答。
それらを見ている。
細かい。
けれど、細かいものの集まりで、場は成り立っている。
午前十時半を少し過ぎた頃、会談はいったん休憩に入った。
大使夫妻は控え室へ。
港湾管理官は外務儀典局長代理と短く打ち合わせ。
レオンハルト殿下は、上級書記官に付き添われて別室へ向かった。
ヴァルツ公爵は窓際へ移動した。
私は茶器の数と次の入室順を確認していた。
その時、外務儀典局の書記官が小声で言った。
「クラウゼン嬢。朝方の王太子殿下の件ですが、正式に処理が決まったそうです」
一瞬、胸が跳ねた。
また。
そう思ってしまった。
けれど、書記官はすぐに続けた。
「リュミエール男爵家からの書状は私信として処理。公式要請とは認められず、公務変更は却下。殿下は本日の後半公務にも予定通り出席されます」
私は、手元の茶器表を見つめた。
「……そうですか」
「代わりに、王宮医療院の治療官が男爵家へ向かったそうです。正式な通知は午後、日程室へ回るとのことです」
私が走らないうちに。
私が根回しを始めないうちに。
もう、処理は終わっていた。
私信は私信として処理され、医療が必要かどうかは医療の経路へ回され、公務は止まらなかった。
「承知しました」
私は答えた。
「正式な通知が来るまでは、現予定で進めます」
「はい」
書記官は頷いて去っていった。
たったそれだけ。
たったそれだけの手順が、私を救っている。
窓際にいたヴァルツ公爵が、こちらを見ていた。
「今のは?」
「王宮内の予定確認です」
「表情が変わりました」
「そうでしょうか」
「ええ。警戒した後、戻った」
私は少しだけ困った。
この人は、そういうところまで見る。
「以前なら、私が先に走っていた案件です」
気づけば、そう答えていた。
「今は?」
「正式な連絡が来るまでは、現予定で進めます」
ヴァルツ公爵は、静かに頷いた。
「良い手順です」
その言葉が、胸に落ちた。
甘くはない。
慰めでもない。
ただ、仕事の評価だった。
「ありがとうございます」
私は礼をした。
「ただし」
ヴァルツ公爵は続けた。
「良い手順ほど、最初は人を苛立たせる」
「……はい」
「今まで近道をしていた者にとって、門を通るのは面倒ですから」
私は王宮令の紙を思い出した。
私信。
公式要請。
三者確認。
負担元。
承認欄。
それらは、殿下にとって面倒な門になった。
でも、門は人を閉じ込めるためだけにあるのではない。
勝手に踏み込ませないためにもある。
私の時間へ。
私の仕事へ。
私の心へ。
「クラウゼン嬢」
ヴァルツ公爵が言った。
「あなたは門番に向いていますね」
「門番、でございますか」
「ええ」
彼は窓の外へ視線を向けた。
「通すべきものを通し、止めるべきものを止める。感情ではなく、手順で」
私は少しだけ考えた。
魔術師。
盾。
門番。
この数日で、私の仕事にはいろいろな名前がついた。
どれも少し大げさで、少し落ち着かない。
けれど、以前のように「便利な婚約者」と呼ばれるよりは、ずっといい。
「まだ、向いているとは言えません」
私は答えた。
「止めることには、慣れておりませんので」
「では、慣れるべきです」
ヴァルツ公爵は淡々と言った。
「通す技術だけでは、門は壊れます」
その言葉に、私は返事ができなかった。
通す技術。
私はずっと、そればかり磨いてきたのかもしれない。
殿下のわがままを通す。
急な予定変更を通す。
無理な謝罪を通す。
破綻しそうな夜を通す。
でも、止める技術はなかった。
止めることが、怖かった。
嫌われるから。
失望されるから。
必要とされなくなるから。
けれど、止めなかった結果が、三十八件の未処理請求だった。
「……覚えておきます」
私がそう言うと、ヴァルツ公爵は少しだけ目を細めた。
「それは便利な返答ですね」
「そうでしょうか」
「ええ。ですが、悪くない」
そこで終わるかと思った。
けれど、彼は続けた。
「クラウゼン嬢」
「はい」
「我が国には、あなたのその手順を、正当な国費で買う用意があります」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「……買う、でございますか」
「ええ」
ヴァルツ公爵の薄い青の目が、私の予定表へ落ちる。
その視線は、優しくなかった。
書類の価値を測る目。
港の税率を測る目。
敵国の弱点と、自国に持ち帰るべき利益を同時に見ている目だった。
「相応の地位と、相応の権限と、相応の予算を与えれば、あなたはもっと正確に働くでしょう」
胸の奥が、冷たく震えた。
「公爵閣下」
「誤解しないでください。慰めではありません」
彼は静かに言った。
「あなたは、この国の歪みを補うために使われていた。ならば、その歪みから引き抜く価値がある」
息が、少し詰まった。
優しい言葉ではなかった。
彼は、私を救おうとしているのではない。
私の価値を見ている。
この国の損失を、隣国の利益に変えられるかどうかを測っている。
外交官として。
貴族として。
そして、国益を扱う者として。
「……私は、王宮の職務者です」
私は答えた。
「今は」
ヴァルツ公爵は、少しも笑わずに言った。
「ええ。今は」
その二文字が、妙に重かった。
今は。
それは、未来に余白を残す言葉だった。
けれど私は、その余白へ踏み込まなかった。
「本日の会談中に、そのようなお話をいただく立場にはございません」
「よい返答です」
また、その言葉。
けれど今度は、褒め言葉というより、試験の採点に近かった。
「では、この話はここまでにしましょう」
ヴァルツ公爵は、あっさりと引いた。
まるで、最初から私の返答まで含めて測っていたように。
「ただし、覚えておくといい」
「何を、でしょうか」
「測れない価値は、誰かに都合よく使われます。あなた自身の価値もです」
返事ができなかった。
その言葉だけは、勧誘でも、脅しでも、慰めでもなかった。
あまりにも正確な、事実だった。
休憩が終わり、会談は再開された。
その後は、大きな問題なく進んだ。
神殿側の導線変更も間に合い、聖具搬入と使節団の移動が重なることはなかった。
大使夫人は休憩室で十分に休み、午後の神殿訪問にも穏やかな表情で向かった。
東方商会代表は文化局長と劇場支援の話をし、港湾税の話題に踏み込むことはなかった。
すべてが、少しずつ予定通りに収まっていく。
予定通り。
それは、自然にそうなるものではない。
誰かが見て、誰かが止め、誰かが通し、誰かが記録する。
午後、日程室に戻ると、王太子府から正式な連絡が届いていた。
王太子殿下、本日後半の公務は予定通り出席。
リュミエール男爵家からの私信については、王妃陛下秘書官室同席のもと確認済み。
医師署名なし。
公式要請なし。
公務変更なし。
王宮医療院より治療官派遣済み。
私はその紙を、しばらく見つめた。
公務変更なし。
たった五文字。
それだけのために、今までどれほど多くのものが動いていたのだろう。
どれほど多くの人が、動かされていたのだろう。
今日は違った。
手紙は届いた。
殿下は動揺した。
けれど、公務は変わらなかった。
王宮は崩れなかった。
私も、走らなかった。
「クラウゼン嬢」
ベネット卿が机の横に立っていた。
「はい」
「今日の記録を」
「こちらです」
私は、王太子府から届いた通知を差し出した。
ベネット卿は内容を読み、短く頷いた。
「初回としては、悪くない」
「はい」
「殿下は不満だろうがな」
「……はい」
「だが、不満で済むなら安い」
その言い方に、私は少しだけ目を伏せた。
本当にそうだ。
不満。
苛立ち。
屈辱。
それらは、費用ではない。
謝罪先でもない。
国の帳簿に穴を開けるものでもない。
殿下が自分で抱えるべき感情だ。
私が処理するものではない。
夕方近く、日程室に戻ると、私の机に白い公用封筒が置かれていた。
桃色ではない。
香油の匂いもしない。
王宮会計監査室の封蝋。
その横に、王妃陛下秘書官室の受付印。
私は、その二つの印を見ただけで、背筋が少し冷えた。
これは、私信ではない。
誰かの不安を訴える手紙でもない。
王宮が、正式に動いた紙だ。
「クラウゼン嬢」
ベネット卿が机の横に立っていた。
「はい」
「会計監査室からだ」
「私に、でございますか」
「ああ」
彼は封筒を指で押さえた。
「明朝、王妃陛下秘書官室および会計監査室の合同で、セラフィーナ・リュミエール男爵令嬢への事実確認が行われる」
心臓が、少しだけ強く打った。
「セラフィーナ様へ」
「そうだ」
ベネット卿の声は静かだった。
「未処理請求監査において、複数の案件の原因欄にリュミエール男爵令嬢の名が記録されている。その記載内容について、本人および男爵家へ確認を取る必要が生じた」
私は封筒を見つめた。
白い紙。
赤い封蝋。
そこに、逃げ道はなかった。
「ですが」
私は、ようやく声を出した。
「なぜ、男爵家がその記載を知っているのですか。監査整理案は、まだ正式に公表されていないはずです」
ベネット卿の表情が、少しだけ硬くなった。
「王太子殿下だ」
息が止まった。
「殿下が……?」
「ああ」
ベネット卿は、声を低くした。
「昨夜、殿下はリュミエール男爵令嬢宛てに私信を送られたらしい」
「私信を」
「内容の写しは、今朝の王宮令に基づき秘書官室で確認済みだ。要約すれば、こうだ」
ベネット卿は、淡々と言った。
「リディア・クラウゼンが、不当に君の名を原因欄へ記録した。君まで責められるかもしれない。だから、自分の体調不良が事実だったと説明してほしい――と」
一瞬、部屋の音が遠くなった。
殿下が。
私を責めるために。
自分の判断を軽くするために。
セラフィーナ様へ、監査の内容を漏らした。
「……それは」
「悪手だ」
ベネット卿は短く言った。
「男爵家側から見れば、王太子殿下の私信によって初めて、自分たちの娘の名が公金処理上の原因欄に残る可能性を知ったことになる」
私は、封筒から目を離せなかった。
「だから、男爵家は防衛に動いた」
「そうだ。令嬢本人の署名、当主の 捺印(なついん) 、医師の診断書を添えて、王妃陛下秘書官室へ正式な事実確認要望を出した」
ベネット卿の声には、怒りはなかった。
けれど、その冷たさがかえって重かった。
「殿下は、リュミエール男爵令嬢を守るために知らせたつもりかもしれない。だが実際には、監査の手続きに彼女本人と男爵家を引きずり出した」
私は、膝の上で指を握った。
守る。
殿下は、何度もそう言った。
セラフィーナ様を守る。
巻き込むな。
傷つけるな。
けれど、殿下の私信が。
殿下自身の保身が。
今度は彼女を、白い公用封筒の中へ入れてしまった。
「つまり、 喚問(かんもん) ……でございますか」
「言葉を選べば、事実確認だ」
ベネット卿は言った。
「だが、王宮へ呼び出す以上、軽いものではない」
喉が、少しだけ乾いた。
セラフィーナ様が、王宮に呼ばれる。
殿下が何度も口にした彼女の名が。
私が記録した原因欄によって。
そして、殿下自身が送った私信によって。
今度は彼女自身を、王宮の手続きの中へ引き出した。
「そして」
ベネット卿は続けた。
「君にも 立会命令(たちあいめいれい) が出ている」
「私に」
「記録作成者としてだ。君が直接説明するわけではない。対応窓口は王妃陛下秘書官室、確認主体は会計監査室。だが、分類表の作成者として、必要な場合に限り補足を求められる」
私は、しばらく言葉が出なかった。
男爵家が私を呼んだのではない。
セラフィーナ様が、私に会いたいと言ったのでもない。
王太子殿下が漏らした私信をきっかけに、男爵家が防衛に動き。
王宮が、事実を確認するために彼女を呼び。
その場に、私を置くと決めた。
「クラウゼン伯爵家には」
「すでに照会が出ている。君は職務者であると同時に、クラウゼン伯爵令嬢でもある。私的な感情が絡む可能性がある以上、家の了承なしに同席させるべきではない」
「……承知いたしました」
「返答は今すぐでなくていい」
ベネット卿は、白い封筒を私の前に置いた。
「これは君を責める紙ではない。君が記録したものと、殿下が漏らしたものが、次の手続きへ進んだという通知だ」
次の手続き。
その言葉で、ようやく少しだけ呼吸が戻った。
私は封筒を見つめた。
桃色ではない。
香油の匂いもしない。
誰かの公務を止めるための手紙でもない。
王宮会計監査室から届いた、白い立会命令。
セラフィーナ・リュミエール。
王太子殿下が守ろうとした人。
王宮の帳簿に名が残ってしまった人。
そして、私がずっと、見ないようにしてきた人。
その人が、明日、王宮へ来る。
私が書いた記録の前に。
私は予定表を開いた。
明日の欄には、隣国使節団の晩餐準備が並んでいる。
その余白に、まだ何も書かれていない白い空欄があった。
私は羽根ペンを持ち、しばらく止めた。
会いたいかどうかは、分からない。
責めたいのかどうかも、分からない。
でも、これは私情ではない。
私が書いた記録が、私の前に戻ってくる。
私は小さく息を吸い、明日の欄に書き込んだ。
午前十一時。
リュミエール男爵令嬢 事実確認。
記録作成者として立会。
文字を書き終えた後も、指先は少し冷たかった。
線を引いた先に、初めて届いたもの。
それは、桃色の封筒ではなかった。
白い命令書だった。