軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

殿下、彼女の名前で逃げるのはおやめください

翌朝、私はいつもより早く王宮へ着いた。

空は薄く曇っていた。

雨が降るほどではない。

けれど、晴れているとも言い切れない。

そんな朝だった。

昨日、予定表に書き込んだ文字が、まだ頭の中に残っている。

午前十一時。

リュミエール男爵令嬢 事実確認。

記録作成者として 立会(たちあい) 。

私は自分の机に座り、予定表を開いた。

その欄を、もう一度見る。

文字は、昨日よりも重く見えた。

セラフィーナ・リュミエール。

王太子殿下が、何度も名前を口にした人。

体調が悪いから。

魔力熱(まりょくねつ) だから。

不安がっているから。

僕を頼っているから。

だから、 公務(こうむ) を欠席する。

だから、予定をずらす。

だから、リディア、どうにかしてくれ。

私はそのたびに、彼女の名前を記録した。

消さなかった。

ぼかさなかった。

理由欄に書いた。

殿下がそう 申告(しんこく) したから。

それが、 帳簿(ちょうぼ) 上の事実だったから。

けれど、今日。

その名前の持ち主が、王宮へ来る。

私が書いた記録の前に。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が机の横に立っていた。

私は顔を上げる。

「はい」

「クラウゼン伯爵家から返答が来ている」

心臓が、少しだけ強く鳴った。

「父から、でございますか」

「ああ」

ベネット卿は封書を差し出した。

クラウゼン伯爵家の 封蝋(ふうろう) 。

父の筆跡。

私は封を切り、中の書面を開いた。

内容は短かった。

王妃陛下秘書官室および 会計監査室(かいけいかんさしつ) による事実確認への、リディア・クラウゼンの職務上の立会を認める。

ただし、私的な 和解(わかい) 、 弁明(べんめい) 、 謝罪要求(しゃざいようきゅう) 、婚約解消に関する交渉は一切行わないこと。

発言は、記録作成者として求められた範囲に限ること。

クラウゼン伯爵家は、本件を職務上の立会として承認する。

父らしい文章だった。

感情はない。

けれど、守る線だけは引いてある。

私は書面を丁寧に折り直した。

「承認いただけました」

「なら、予定通りだ」

ベネット卿は短く言った。

「今日の君の役割を確認する」

「はい」

「君は、当事者ではない」

その一言が、胸に落ちた。

当事者ではない。

そう言われると、不思議だった。

私の婚約。

私の記録。

私の傷。

それなのに、今日の場では当事者ではない。

「君は記録作成者として立ち会う。発言は、王妃陛下秘書官室または会計監査室から求められた時のみ。感情的な 応酬(おうしゅう) には加わらない」

「承知しております」

「リュミエール男爵令嬢から何か言われても、勝手に返すな」

「はい」

「王太子殿下の名が出ても、君が判断しない」

「はい」

「つらければ、退室を申し出なさい」

私は少しだけ目を伏せた。

「退室しても、よろしいのでしょうか」

「よい」

ベネット卿は即答した。

「制度は、人を壊すためにあるのではない」

その言葉に、私は少しだけ息を吐いた。

制度。

手順。

規定。

それらは冷たい。

けれど、冷たいからこそ、熱くなりすぎたものを止めてくれる。

今の私には、それが少し分かる。

「それと」

ベネット卿は声を落とした。

「本日の事実確認に至った経緯を、もう一度確認しておく」

「はい」

「一昨日の夜、会計監査室で未処理請求の負担元確認が行われた後、王太子殿下はリュミエール男爵令嬢へ私信を送られた」

一昨日の夜。

三十八件の請求先が、一つずつ読み上げられた日。

殿下が、国庫返還という言葉の前で初めて顔色を変えた日。

「あの夜に、でございますね」

「ああ」

ベネット卿は頷いた。

「その私信で殿下は、クラウゼン嬢が不当にリュミエール男爵令嬢の名を原因欄へ記録した、と伝えたらしい」

胸の奥が、静かに冷える。

「男爵家は昨日の朝、その私信を受けて防衛に動いた。令嬢本人の署名、男爵の 捺印(なついん) 、医師の診断書を添え、王妃陛下秘書官室へ正式な事実確認要望を出した」

「それで、昨日の夕方に立会命令が」

「そうだ」

ベネット卿の声は冷静だった。

「殿下は、リュミエール男爵令嬢を守るために知らせたつもりかもしれない。だが実際には、彼女と男爵家を監査手続きの中へ引きずり出した」

守る。

その言葉が、頭の中でひどく薄く響いた。

「本日の場では、その経緯も確認される。君は、求められたことだけに答えなさい」

「承知いたしました」

私は深く頷いた。

午前十時半。

私はベネット卿とともに、王妃陛下秘書官室の奥にある小会議室へ向かった。

会計監査室の部屋ほど冷たくはない。

けれど、王妃陛下の執務室ほど柔らかくもない。

事実確認のための部屋。

そう呼ぶのが、たぶん一番正しい。

中央には長い卓。

上座に、王妃陛下第一秘書官のミリア・グレイス様。

その隣に、会計監査室の副監査官、エドガー・クライン卿。

少し離れて、王宮医療院の 治療官(ちりょうかん) が一名。

法務官室(ほうむかんしつ) の 書記官(しょきかん) が一名。

ベネット卿は私の隣に座る。

私は卓の中央ではなく、壁際に近い補助席に座った。

手元には、分類表の写し。

私が作成したものに、会計監査室の 注記(ちゅうき) が入った版だ。

赤い印。

青い印。

黒い印。

そして、いくつかの欄に残る名前。

セラフィーナ・リュミエール。

扉が叩かれた。

書記官が声を上げる。

「リュミエール男爵、セラフィーナ・リュミエール令嬢、ご到着です」

室内の空気が、静かに張り詰めた。

ミリア様が頷く。

「お通ししなさい」

扉が開く。

最初に入ってきたのは、中年の男性だった。

リュミエール男爵。

柔らかな栗色の髪に、疲れた目。

服装は丁寧に整えられているが、袖口に緊張が出ていた。

その後ろに、白い外套を羽織った少女がいた。

セラフィーナ・リュミエール。

初めて間近で見る彼女は、思っていたよりも小柄だった。

淡い金髪。

薄桃色の頬。

身体が弱いという噂にふさわしく、肌は白い。

けれど、目は思ったよりもはっきりしていた。

守られるだけの人形のような弱さではない。

不安と、怯えと、それでも何かを確かめに来た意志が、細い肩の上に乗っていた。

彼女の視線が、私を見つける。

一瞬だけ、止まった。

私は立ち上がり、規定通りに礼をした。

「リュミエール男爵。セラフィーナ様」

「……クラウゼン様」

彼女の声は、小さかった。

けれど、聞こえた。

ミリア様が場を切る。

「本日は、 未処理請求監査(みしょりせいきゅうかんさ) に伴う事実確認です。私的な面談ではありません。王太子殿下の婚約、婚約解消、または当事者間の感情については、この場では扱いません」

最初に線が引かれた。

まっすぐに。

誰も、そこを越えないように。

「確認対象は、王太子レオンハルト殿下の公務変更理由として、リュミエール男爵令嬢の体調不良、魔力熱、見舞い要請等が記録されている複数案件についてです」

クライン卿が続ける。

「本日は、その記録が、公式要請に基づくものか、 私信(ししん) に基づくものか、王太子殿下ご自身の判断によるものかを確認します」

リュミエール男爵の顔色がわずかに悪くなった。

セラフィーナ様は、膝の上で指を握っている。

「まず確認します」

ミリア様が言った。

「リュミエール男爵家より、王太子府または王妃陛下秘書官室に対して、王太子殿下の公務欠席、 遅参(ちさん) 、途中退席を求める公式要請を出したことはありますか」

男爵がすぐに首を横に振った。

「ございません」

声は少し震えていた。

「我が家から、そのような要請を王宮へ出したことは一度もございません」

「医師または治療院からの公式要請は」

王宮医療院の治療官が書類をめくった。

「照会記録を確認しました。過去一年間で、リュミエール男爵令嬢の魔力熱に関する王宮医療院への正式照会は二件。いずれも治療相談であり、王太子殿下の訪問要請ではありません」

「民間治療院からの緊急要請は」

「確認されておりません」

クライン卿が筆を取る。

「記録します。リュミエール男爵家および医療関係者より、王太子殿下の公務変更を求める公式要請は確認されず」

紙の上で、言葉が形になる。

公式要請は確認されず。

私はその文字を目で追った。

胸の奥が、少しだけ沈む。

今まで理由欄にあった「見舞い要請」という言葉。

それは、誰の言葉だったのか。

「次に、私信について確認します」

ミリア様が言った。

「セラフィーナ・リュミエール令嬢。あなたは、王太子殿下へ体調不良を知らせる私信を送ったことがありますか」

セラフィーナ様の肩が小さく揺れた。

男爵が娘を見る。

セラフィーナ様は、しばらく唇を結んだ後、静かに答えた。

「ございます」

室内に筆の音が響く。

「回数は把握していますか」

「正確には……」

彼女は目を伏せた。

「覚えておりません。けれど、何度も送ったと思います」

「内容は」

セラフィーナ様は、膝の上の指を握り直した。

「体調が悪いこと。不安なこと。殿下に、会いたいと思っていること」

声は小さい。

けれど、逃げてはいなかった。

「公務を欠席して来てほしい、と書きましたか」

沈黙が落ちた。

ミリア様の問いは、柔らかくない。

けれど、必要な問いだった。

セラフィーナ様は、少し震えながら答えた。

「いいえ」

そして、すぐに付け加えた。

「でも……来てほしいとは、書きました」

その一言で、空気が少し重くなった。

来てほしい。

私信としてなら、ただの願い。

けれど、王太子殿下がそれを公務変更の理由にした時、その願いは帳簿の中で別の重さを持つ。

「王太子殿下に、公務予定があると知っていましたか」

「毎回は、知りませんでした」

「知っていた時もありますか」

セラフィーナ様は、唇を噛んだ。

「……ございます」

男爵が息を呑む。

彼女は続けた。

「けれど、殿下はいつも、『大した予定ではない』『抜けられる』『リディアが整えるから心配いらない』と仰っていました」

私の名前が、部屋に落ちた。

私は、指先を動かさなかった。

表情も変えなかった。

でも、胸の奥だけが小さく揺れた。

リディアが整えるから心配いらない。

私は、そういう存在だったのだ。

彼女にとっても。

殿下にとっても。

「クラウゼン嬢」

クライン卿が私を呼んだ。

「はい」

「記録上、王太子殿下より『リディアが整える』または同様の発言があったという記録はありますか」

私は分類表ではなく、補足記録の写しを開いた。

「直接の記録はございません」

私は答えた。

「ただし、王太子殿下から私へ、『いつも通り頼む』『君ならどうにかできる』『細かい処理は任せる』とのご発言は複数回ございます」

「日付は」

「記録済みです。必要であれば提出いたします」

「提出してください」

「はい」

私は書類を一枚差し出した。

ミリア様がそれを受け取り、クライン卿へ回す。

セラフィーナ様は、私を見ていた。

その目には、怒りではなく、何かが崩れていくような色があった。

「私は」

彼女が小さく言った。

「クラウゼン様が、いつも殿下を私から遠ざけようとしているのだと思っていました」

室内の空気が、少しだけ動いた。

ミリア様が口を開こうとする。

だが、セラフィーナ様はすぐに言った。

「申し訳ありません。私的な感情でした」

彼女は深く息を吸った。

「この場で言うことではないと分かっています。でも、確認のために言わせてください。私は、殿下から、クラウゼン様が厳しすぎるのだと聞いていました。公務や予定を盾にして、私を冷たく扱っているのだと」

私は何も言わなかった。

言えなかったのではない。

言う立場ではなかったからだ。

けれど、胸の奥が、ひどく静かになっていくのを感じた。

殿下は、私の名前を使っていた。

セラフィーナ様に対しても。

私が整えるから大丈夫。

私が厳しいだけ。

私が君を遠ざけている。

そう言えば、殿下は優しい人でいられる。

私だけが、冷たい人になれる。

「記録します」

クライン卿が言った。

「リュミエール男爵令嬢は、王太子殿下より、クラウゼン嬢が予定調整上の障害である旨の説明を受けていたと証言」

セラフィーナ様の顔が青ざめた。

「それは、私の言葉が記録に」

「はい」

クライン卿は淡々と答えた。

「本日の発言は、事実確認記録に残ります」

セラフィーナ様は一瞬怯えたように見えた。

けれど、やがて小さく頷いた。

「……構いません」

その声は震えていた。

けれど、消えなかった。

「私も、知っていたことと知らなかったことを分けなければならないのだと思います」

ミリア様が、初めてわずかに表情を緩めた。

「続けましょう」

次に、医療記録の確認が行われた。

魔力熱。

発熱。

不安症状。

治療院の診断。

王宮医療院の照会履歴。

セラフィーナ様の体調不良そのものは、嘘ではなかった。

少なくとも、確認された複数の日付では、確かに症状があった。

ただし。

緊急に王太子殿下の訪問を必要とする医学的理由は、確認されなかった。

公務を止める必要も、確認されなかった。

必要だったのは、医師の処置。

安静。

家族または女官の付き添い。

そして、王宮医療院への照会。

王太子殿下の腕ではない。

私が何度も黒線を引いて通したものは、治療ではなかった。

安心だった。

それも、殿下が与えたいと思った安心。

「第三件」

クライン卿が書類をめくった。

「王太子殿下、王立孤児院視察後の報告会を欠席。理由欄、リュミエール男爵令嬢の魔力熱悪化、見舞い要請。リュミエール男爵家より公式要請は」

「ございません」

男爵が答える。

「医療記録は」

治療官が書類を確認する。

「当日朝、民間治療院による診察記録あり。軽度の魔力熱。安静指示。緊急訪問要請なし」

「私信は」

セラフィーナ様が、青ざめた顔で頷く。

「送りました」

「内容は」

「熱が出て不安だと。もし時間があれば、顔を見せてほしいと」

もし時間があれば。

その言葉が、部屋に落ちた。

クライン卿は淡々と筆を進める。

「記録修正案。原因欄を、リュミエール男爵令嬢からの見舞い要請、ではなく、リュミエール男爵令嬢の体調不良を記した私信を受けた王太子殿下の個人的判断による欠席、へ変更」

私の胸の奥で、何かが静かに動いた。

名前が消えるわけではない。

セラフィーナ様の体調不良は、事実として残る。

私信が送られたことも、残る。

けれど、公務を止めた主体は、彼女ではない。

王太子殿下の判断。

そこへ戻される。

それが、正しい位置だった。

「第四件」

「第五件」

「第六件」

同じ確認が続く。

私信。

体調不良。

不安。

王太子殿下の訪問。

公務の変更。

その一つ一つから、公式要請ではないものが剥がされていく。

曖昧だったものが、分類されていく。

セラフィーナ様は、途中で何度か唇を震わせた。

男爵は何度も頭を下げた。

だが、ミリア様もクライン卿も、必要以上に責めなかった。

責める場ではない。

確認する場だ。

けれど、確認は時に、責めるよりも逃げ場がない。

「確認します」

クライン卿が言った。

「リュミエール男爵令嬢。あなたは、王太子殿下があなたの私信を理由に公務を欠席、遅参、途中退席していたことを、どの程度把握していましたか」

セラフィーナ様は、しばらく何も言わなかった。

男爵が口を開きかける。

けれど、彼女が小さく首を横に振った。

自分で答える、という意思表示だった。

「全部は、知りませんでした」

声は小さい。

「でも、まったく知らなかったわけでもありません」

部屋が静かになる。

彼女は、膝の上の手を握りしめていた。

「殿下が忙しい方だということは、知っていました。公務があることも、知っていました。でも……」

言葉がそこで詰まった。

クライン卿は待たなかった。

「では、王太子殿下に公務があると知りながら、私信を送った日がある、ということでよろしいですか」

セラフィーナ様の肩が震えた。

男爵が小さく息を呑む。

「……はい」

「その私信によって、王太子殿下が公務を欠席、遅参、途中退席する可能性があることは、想定していましたか」

「そこまでは……」

「想定していなかった」

「……はい」

「しかし、王太子殿下が実際に来訪したことはあった」

「ございました」

「その後、その日の公務がどう処理されたかを確認しましたか」

セラフィーナ様は、答えられなかった。

唇が震える。

「……して、おりません」

クライン卿の筆が、紙の上を走った。

その音に、彼女の顔色がさらに白くなる。

「私は」

彼女は、ようやく声を絞り出した。

「殿下が『問題ない』と仰るなら、本当に問題ないのだと……思いたかったのです」

最後の方は、ほとんど息のようだった。

「来てくださると、安心しました。嬉しかった。だから、深く考えませんでした」

涙は落ちなかった。

けれど、その声は泣いているのと同じだった。

「私が知らなかったからといって、何もなかったことにはならないのだと、今日分かりました」

彼女の声が、少しだけ震えた。

「私の名前が残るのですね」

クライン卿は答えた。

「事実として関係する部分には残ります。ただし、公式要請を出していないものについては、そのように修正されます」

「私が命じたわけではない、と」

「はい」

「でも、私信は送った、と」

「はい」

セラフィーナ様は目を閉じた。

「分かりました」

その顔は、泣きそうだった。

けれど、涙は落ちなかった。

私は、不思議な気持ちで彼女を見ていた。

憎かったはずの人。

顔も見たくなかった人。

殿下に選ばれた人。

私の予定表に、何度も割り込んできた名前。

でも今、目の前にいるのは、王太子の言葉を信じ、自分の名前がどう使われたのかを知らず、そして今それを知らされている一人の令嬢だった。

許せるかどうかは、分からない。

けれど、全部を彼女のせいにすることは、もうできなかった。

「クラウゼン嬢」

ミリア様が私を呼んだ。

私は背筋を伸ばす。

「はい」

「作成者として確認します。あなたが原因欄に、公式要請のないリュミエール男爵令嬢の名を記載した理由は」

私は分類表を見た。

何度も見た文字。

何度も書いた名前。

それを、今度は本人の前で説明する。

「王太子殿下より、予定変更の理由として『セラフィーナ様の体調不良、魔力熱、見舞い要請である』と、直接申告されたためです」

声は震えなかった。

「その申告を削除、あるいはぼかして記録した場合、発生費用が用途不明となります。したがって、当時の殿下の申告通りに記録いたしました」

「リュミエール男爵令嬢を責める意図はありましたか」

「ございません」

私は、はっきりと答えた。

「私が記録したのは、セラフィーナ様の責任ではなく、王太子殿下が公務変更の理由として用いた言葉です」

部屋の空気が、静かに冷えた。

私は続けた。

「帳簿は、申告を映すものです。私は、殿下が仰った理由を、職務として記録したに過ぎません。そこに、私の主観や他意はございません」

セラフィーナ様が、小さく息を呑んだ。

私を見ている。

けれど、私はそれ以上、彼女へ言葉を向けなかった。

これは私的な弁明の場ではない。

私が答えるべきなのは、彼女ではなく、監査の問いだった。

クライン卿が筆を置いた。

「確認しました」

その声は淡々としていた。

「原因欄にリュミエール男爵令嬢の名が残ったのは、記録作成者の主観によるものではありません。王太子殿下が、公式要請のない私信および体調不良を、公務変更の理由として申告し続けたためです」

ミリア様も静かに頷いた。

「つまり、問題は記録そのものではありません」

彼女の声は、冷えていた。

「公式要請ではないものを、あたかも公務変更に足る要請であるかのように扱い、王太子殿下がご自身の判断責任を曖昧にしていたことです」

リュミエール男爵の顔色が変わった。

セラフィーナ様は、私から視線を外し、卓の上の書類を見つめた。

「では……」

彼女の声は、かすれていた。

「私の名前を、そういう形で記録させていたのは」

誰もすぐには答えなかった。

だが、沈黙そのものが答えだった。

クライン卿が言った。

「現時点で確認できる限り、申告者は王太子殿下です」

その一言で、部屋の空気がさらに重くなった。

セラフィーナ様は、唇を震わせた。

「私は、あなたが私を憎んで、陥れたのだと思っていました」

彼女は、私を見た。

「殿下が、そう仰っていたから」

私は答えなかった。

答えるべきではなかった。

ただ、彼女の目をまっすぐに見返した。

私はあなたを陥れてなどいない。

そう言葉にする必要はなかった。

帳簿が、記録が、今日の確認が、すでにそれを示していた。

私がしたのは、殿下の言葉を写すこと。

彼女の名を盾にしたのは、私ではない。

その事実が、紙の上で静かに形を持っていく。

セラフィーナ様はしばらく私を見ていた。

それから、視線を落とした。

「……分かりました」

小さな声だった。

けれど、聞こえた。

「私も、知らなかったでは済まないことと、私が背負うべきではないことを、分けなければいけないのですね」

クライン卿が頷く。

「そのための事実確認です」

「はい」

セラフィーナ様は、震える息を吸った。

「私の私信が、殿下の公務変更の理由として扱われていたことについて、私は全てを把握していたわけではありません。ですが、殿下が忙しい立場であることを知りながら、何度も不安を書き送ったことは事実です」

彼女は言葉を切った。

「今後、体調不良に関する連絡は、医師または男爵家を通じて公式に行います。王太子殿下へ私信で公務に影響するような内容を送ることは控えます」

男爵が慌てて頭を下げた。

「リュミエール男爵家としても、そのように徹底いたします」

クライン卿は記録係へ視線を向けた。

「記録してください」

筆の音が走る。

また一つ、線が引かれた。

セラフィーナ様を守る線。

王宮を守る線。

そして、たぶん私を戻さない線でもあった。

事実確認は、正午前に終わった。

長いようで、短い時間だった。

確認された内容は、会計監査室で整理され、原因欄の一部が修正される。

リュミエール男爵令嬢からの見舞い要請。

その表現は削られる。

代わりに。

リュミエール男爵令嬢の体調不良を記した私信を受けた、王太子殿下の個人的判断。

そう記録される。

名前は残る。

けれど、責任の向きが変わる。

王太子殿下の方へ。

正しく。

逃げられないように。

会議が終わり、ミリア様が書類を閉じた。

「本日の確認は以上です」

リュミエール男爵が深く礼をする。

セラフィーナ様も立ち上がった。

その足元が、少しだけ揺れた。

侍女が支えようとする。

だが、彼女は自分で立った。

そして、私の方を見た。

一瞬だけ、何かを言いたそうにした。

けれど、ミリア様の視線がある。

ここは、私的な場ではない。

セラフィーナ様は言葉を飲み込み、静かに礼をした。

私も、同じ深さで礼を返した。

それだけだった。

謝罪も、和解も、罵倒もない。

ただ、礼だけ。

今は、それでよかった。

彼女たちが退室した後、部屋には紙の匂いだけが残った。

私は座ったまま、手元の分類表を見つめていた。

赤い印。

青い印。

黒い印。

そして、修正される原因欄。

「クラウゼン嬢」

クライン卿が声をかけた。

「はい」

「本日の補足は適切でした」

「恐れ入ります」

「一点だけ」

「はい」

「記録とは、名を残すことです。名を残す以上、その名がどこに置かれるべきかまで考えなければなりません」

その言葉は、重かった。

「はい」

私は答えた。

「覚えておきます」

「覚えるだけでは足りません」

クライン卿は淡々と言った。

「次から、分類してください」

思わず、少しだけ息が漏れそうになった。

厳しい。

けれど、正しい。

「承知いたしました」

私は深く礼をした。

部屋を出ると、廊下には昼前の光が差していた。

朝より少しだけ、雲が薄くなっている。

ベネット卿が隣を歩く。

「どうだった」

「……疲れました」

「正直でよろしい」

「ですが」

私は少しだけ立ち止まった。

「少しだけ、分かった気がします」

「何が」

「名前を消すことが、いつも救いになるわけではないのだと」

ベネット卿は黙って聞いていた。

「でも、間違った場所に置かれた名前は、人を傷つけるのだと思いました」

セラフィーナ様の名。

私の名。

殿下の名。

帳簿の上で、それぞれがどこに置かれるか。

それだけで、責任の形が変わる。

人の見え方が変わる。

「なら、次から気をつければいい」

ベネット卿は言った。

「はい」

「君の仕事は、誰かを救うことではない」

「はい」

「正しく置くことだ」

その言葉が、胸の奥へまっすぐ落ちた。

正しく置く。

予定を。

費用を。

責任を。

名前を。

私は予定表を開いた。

午前十一時。

リュミエール男爵令嬢 事実確認。

記録作成者として立会。

その横に、小さく書いた。

完了。

少し迷ってから、さらに一行。

名前は、正しい場所に置く。

羽根ペンの先が、わずかに震えた。

でも、文字は崩れなかった。

日程室に戻る途中、窓の外で風が吹いた。

雲の切れ間から、細い光が王宮の石畳に落ちている。

白い命令書から始まった午前は、静かに終わった。

けれど、終わったのは私とセラフィーナ様の話ではない。

王太子殿下が使った名前の一つが、ようやく正しい場所へ戻されただけ。

私は予定表を閉じた。

ぱたん、という音が廊下に響く。

その音は、昨日より少しだけ硬く聞こえた。

そして、少しだけ確かだった。