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作品タイトル不明

第5話 殿下、私が失ったものは請求書に載りません

翌日の午後、私は王宮西棟の小会議室に呼ばれた。

昨日、ヴァルツ公爵との儀典確認を終えたばかりの部屋とは違う。

今日の部屋は、もっと狭い。

窓はあるが、開けられていない。

壁際には書類棚が並び、中央の卓には、すでに何冊もの帳簿と封印済みの書類箱が置かれていた。

花はない。

香もない。

余計な装飾もない。

ここは、誰かをもてなすための部屋ではない。

確認するための部屋だ。

私は入室前に、扉の前で一度だけ息を整えた。

本日の予定。

午前中、隣国使節団対応の資料修正。

午後一時、会計監査室による未処理請求の負担元確認。

午後四時、外務儀典局への修正回答書作成。

午後五時、神殿側導線の再確認。

その中で、最も気が重いのは、間違いなく午後一時の予定だった。

未処理請求の負担元確認。

つまり、三十八件分の「細かいこと」を、誰が払うのか決める場である。

私は書類を抱え直し、扉を叩いた。

「リディア・クラウゼンです」

「入りなさい」

返ってきたのは、ミリア様の声だった。

扉を開ける。

室内には、すでに人が揃っていた。

王妃陛下第一秘書官、ミリア・グレイス様。

会計監査室の副監査官、エドガー・クライン卿。

王太子府儀典日程室の日程管理官、ベネット卿。

外務儀典局の文官が一名。

そして、王太子府の上級書記官が二名。

少し遅れて、奥の扉からレオンハルト殿下が入ってきた。

護衛騎士が二名。

王妃陛下秘書官室の文官が一名。

王太子府の侍従が一名。

殿下は、昨日の朝よりさらに顔色が悪かった。

青い上着はいつも通り整っている。

けれど、襟元の留め具がほんの少しだけ曲がっていた。

以前なら、私は気づいた瞬間に直すための合図を出していた。

侍従に目配せし、会話の流れを切らずに、殿下の印象が崩れないよう整えていた。

今日は、何もしなかった。

気づいた。

ただ、それだけだった。

「お座りください」

ミリア様が言った。

殿下は、卓の正面に座った。

私は、ベネット卿の斜め後ろに用意された席へ着く。

中央ではない。

けれど、末席でもない。

記録を補足する者の席だった。

「本日の確認を始めます」

クライン卿が、淡々と告げた。

「対象は、王太子レオンハルト殿下の私的事情に伴う日程再調整により発生した未処理請求、三十八件です」

殿下の指が、卓の下でわずかに動いた。

「まず、用語を確認します」

クライン卿は一枚の紙を卓へ置いた。

「未処理請求とは、すでに費用が発生しているにもかかわらず、最終的な負担元が確定していない請求を指します。王太子府儀典費、第二王子府の一時負担、外務儀典局予備費、劇場および神殿側への補填予定分を含みます」

「分かっている」

殿下が低く言った。

クライン卿は表情を変えなかった。

「では、確認いたします。これらの請求について、王太子府の 公費(こうひ) として処理するのか、殿下の 私費(しひ) として補填するのか、あるいは正当な公務上の変更として各部署の予算に戻すのか。本日、案件ごとに確認します」

「一件ずつ、か」

「はい」

「三十八件すべてを?」

「はい」

「そんなことをしていたら、時間がかかる」

クライン卿は、帳簿の端を指で揃えた。

「時間がかかることを、三十八件分、後回しにされた結果が本日の確認です」

室内の空気が、少しだけ重くなった。

殿下は何か言い返そうとして、やめた。

その沈黙を見て、私は思った。

ああ、これが「止まる」ということなのだ。

今までなら、殿下の沈黙が苦しくて、私が助け舟を出していた。

説明を足した。

場を和らげた。

別の書類を差し出した。

けれど今は、誰も殿下の代わりに言葉を作らない。

沈黙は、殿下自身のものとして、その場に置かれている。

「まず、分類済みの三十八件を確認します」

クライン卿が続ける。

「公務上やむを得ない可能性があるもの、九件。私的事情が間接的に影響したもの、四件。私的事情による直接変更と認められる可能性が高いもの、二十五件」

私は手元の分類表を見た。

先日の会計監査室で提出したものに、さらにクライン卿が注記を入れている。

正確だ。

冷たいほどに。

でも、だからこそ信用できる。

「第一件」

クライン卿が書類をめくった。

「昨年秋月十二日、慈善音楽会。王太子殿下、開演一刻前に欠席。理由、セラフィーナ・リュミエール男爵令嬢の魔力熱見舞い。代理、王妃陛下。発生費用、王妃陛下護衛配置変更、音楽会主催者への謝礼増額、新聞発表差し替え」

殿下の顔が固くなった。

「そんな昔のことまで」

「対象期間内です」

クライン卿は短く返した。

「当時の確認欄には、王太子殿下確認未了、後日確認予定とあります」

殿下の視線が、私に向いた。

私は目を伏せなかった。

「リディア」

「殿下」

「この件まで記録していたのか」

「はい」

「なぜ」

なぜ。

また、その問いだ。

「職務ですので」

私は答えた。

「予定変更により発生した費用と手続きは、記録する必要がございます」

殿下は息を呑んだ。

その言葉を、私は昨日も何度か使った。

職務ですので。

便利な逃げ道にもなる言葉。

でも、今日は違う。

これは逃げではない。

線を引くための言葉だった。

クライン卿が問いを戻す。

「殿下。この第一件について、負担元を確認します。公務上の欠席として王太子府儀典費に計上しますか。それとも、私的事情による欠席として、殿下の私費より補填しますか」

「慈善音楽会は公務だ」

「はい。音楽会そのものは公務です」

「なら、公務費でよいだろう」

「欠席理由が公務上の理由ではありません」

殿下の眉が動く。

「セラフィーナは、僕を庇って呪痕を負った」

「承知しております」

「その見舞いだ」

「では、見舞いは公務であった、ということでよろしいですか」

殿下が言葉を失った。

クライン卿の問いは静かだった。

けれど、とても硬い。

公務である、と認めれば、セラフィーナ様の魔力熱見舞いは王太子の公式行動として記録される。

王太子府の公費を使って処理する以上、その理由は公文書に残る。

公務ではない、と言えば、費用は私費で補填する必要が出る。

どちらにしても、曖昧にはできない。

「……私費で補填する」

殿下は低く言った。

「承知しました」

クライン卿は記録係へ視線を向ける。

「第一件、王太子殿下私費補填。補填対象は、護衛配置変更費を除く主催者謝礼増額分、新聞発表差し替えに伴う急配手当。護衛配置変更費は王妃陛下代理出席に伴う公務費として別処理」

「はい」

記録係が筆を走らせる。

殿下は顔を上げた。

「すべて私費ではないのか」

「王妃陛下が代理出席なさった時点で、王妃陛下の護衛配置変更は公務上必要な費用です。殿下の私的事情に起因する部分と、代理公務として正当化される部分は分けます」

クライン卿は淡々と言った。

「殿下を罰する場ではありません。費用の性質を正しく分類する場です」

その言葉に、私は少しだけ息を吐いた。

そうだ。

これは断罪ではない。

帳簿だ。

帳簿は感情的ではない。

だから、逃げられない。

「第二件」

紙がめくられる。

「昨年秋月二十八日、王妃陛下主催の孤児院視察前打ち合わせ。王太子殿下、遅参。理由、リュミエール男爵家への私的訪問。発生費用、打ち合わせ時間延長に伴う文官および侍従の超過手当」

「それは」

殿下が口を開く。

「結果的に、打ち合わせには出席した」

「遅参です」

「欠席ではない」

「はい。欠席ではありません。ですが、打ち合わせが延長され、超過手当が発生しております」

殿下は黙った。

「殿下。この件の負担元は」

「……私費でよい」

「承知しました」

また筆が走る。

一件。

また一件。

費用に名前がついていく。

今まで「後日確認予定」と書かれていた空欄に、負担元が入っていく。

王太子殿下私費補填。

王太子府公務費。

外務儀典局予備費戻し。

第二王子府補填。

劇場側謝礼増額分、殿下私費。

神殿急使手当、王太子府儀典費。

一つずつ。

本当に、一つずつ。

「第七件」

クライン卿が言った。

「隣国小使節団との昼食会。王太子殿下、途中退席。理由、セラフィーナ・リュミエール男爵令嬢の体調悪化。代理対応、外務儀典局長および第二王子殿下。発生費用、第二王子府急配手当、席次変更、使節団への贈答品追加」

殿下は疲れたように額へ手を当てた。

「これは、セラフィーナから助けを求める手紙が来た」

「手紙は公式要請ですか」

クライン卿が尋ねた。

「何?」

「リュミエール男爵家、または医師、または魔力治療院からの公式要請として記録されていますか」

殿下の表情が止まった。

「いや……私信だ」

「では、王太子殿下ご自身の判断による途中退席です」

「彼女は不安がっていた」

「それは、公式要請ではありません」

冷たい。

けれど、正しい。

殿下の指先が白くなる。

「彼女を責めるつもりか」

「いいえ」

クライン卿は即答した。

「この場では、リュミエール男爵令嬢の責任は扱っておりません。確認しているのは、王太子殿下が公務を途中退席なさった判断の性質です」

ミリア様が静かに続けた。

「殿下。セラフィーナ様を守りたいのであれば、なおさら私信と公式要請の区別をなさってください」

殿下はミリア様を見た。

「どういう意味だ」

「私信を理由に公務を変更した場合、その判断責任は殿下にございます。公式要請であれば、リュミエール男爵家または医師側の要請として記録されます」

「……」

「どちらになさいますか」

その問いは、刃物のようだった。

もし殿下が、あの手紙を公式要請として扱えば、セラフィーナ様の名はさらに重く記録される。

王太子の公務を中断させる要請を出した者として。

けれど、私信として扱えば、責任は殿下の判断に戻る。

「私信だ」

殿下は、絞り出すように言った。

「公式要請ではない」

「承知しました」

クライン卿が記録係へ告げる。

「第七件、王太子殿下の私的判断による途中退席。発生費用のうち、第二王子府急配手当および贈答品追加分は殿下私費補填。席次変更に伴う外務儀典局内処理費は、王太子府儀典費より戻し入れ」

「はい」

殿下は、何も言わなかった。

私は、手元の資料を見つめていた。

セラフィーナ様は悪くない。

殿下は、そう言った。

たぶん、本当にそう思っているのだろう。

でも、守るということは、名前を盾にすることではない。

誰かを理由にして、自分の判断から逃げることでもない。

そのことを、殿下はようやく少しずつ理解し始めているのかもしれない。

理解したとしても、もう遅い。

少なくとも、私の予定には。

「休憩を入れましょう」

ミリア様が言った。

すでに十五件を確認したところだった。

室内の空気は重く、殿下の顔色も悪い。

クライン卿は手元の小さな時計を確認し、それから私を見た。

「当初は一件ごとに揉めると見て、夕刻までかかる覚悟でした」

「……はい」

「ですが、分類表がよくできています。発生理由、費用の性質、仮払い元、確認状況が分かれているため、判断の入口で迷わずに済む」

クライン卿は、帳簿の端を揃えた。

「異例の速さです。四半刻後に再開します」

その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。

眠れないまま作った分類表。

ただ自分が説明に迷わないためのものだと思っていた。

けれど、それは今、この重い部屋の時間を少しずつ短くしているらしい。

私が整えたものが、また誰かの助けになっている。

けれど今度は、私一人が抱えるためではない。

制度へ渡すための助けだった。

人が少しずつ席を立つ。

私は資料を整理しようとして、ベネット卿に止められた。

「君は座っていなさい」

「ですが」

「今日の君は、記録補足者だ。片付け係ではない」

「……はい」

私は手を引っ込めた。

こういうところが、まだ慣れない。

仕事を見つけると、つい手が伸びる。

誰かが疲れていると、つい先回りする。

そうしている方が、落ち着く。

でも、それを続ける限り、私はまた同じ場所へ戻ってしまう。

ミリア様が私の前に茶を置いた。

「飲みなさい」

「ありがとうございます」

温かい茶だった。

香りは薄い。

仕事の場で出される、眠気を飛ばすための苦い茶。

それでも、喉を通ると少しだけ体が温まった。

「クラウゼン嬢」

ミリア様が小声で言った。

「つらければ、退室しても構いません」

「いいえ」

私は首を横に振った。

「最後まで同席いたします」

「理由を聞いても?」

私は茶器を両手で包んだ。

「私が記録したものですので」

「あなたが責任を負うため?」

「いいえ」

少しだけ考えてから、答えた。

「私が、終わるところを見たいのだと思います」

ミリア様は何も言わなかった。

ただ、静かに頷いた。

終わらせたい。

三十八本の黒線を。

三十八件の未処理請求を。

三十八回分の、後日確認予定を。

私が書いたものだから。

私が抱えたものだから。

私が、もう抱えないために。

再開後、確認はさらに進んだ。

第十六件。

第十七件。

第十八件。

殿下の返答は、だんだん短くなっていった。

私費で補填する。

公務費でよい。

いや、私費だ。

その件は覚えていない。

確認してからにしたい。

そのたびに、クライン卿は分類を確認し、ミリア様は必要に応じて王妃陛下の委任範囲を示し、ベネット卿は日程室側の記録を補足した。

私は、求められた時だけ答えた。

以前なら、求められる前に答えていた。

それが仕事だと思っていた。

でも今は違う。

求められた時に、必要な分だけ答える。

それもまた、手順だった。

「第二十一件」

クライン卿の声が、少しだけ低くなった。

「王太子殿下とクラウゼン嬢の婚礼衣装打ち合わせ。王太子殿下、欠席。理由、セラフィーナ・リュミエール男爵令嬢の魔力熱見舞い。発生費用、王宮衣装室職人の待機延長手当、布地商会への日程変更手数料」

室内が、一瞬だけ静まり返った。

それは公務ではなかった。

完全に、私的な予定だった。

けれど、王太子の婚礼準備は王宮の行事でもある。

衣装室も、商会も、正式に動いていた。

私は、その日のことを覚えている。

淡い青の布地が三種類、机に並んでいた。

王家の青に近いもの。

少し灰を含んだもの。

白に近いもの。

私は、その中で一番目立たない色を選ぼうとしていた。

殿下の隣で邪魔にならない色。

王家の青を引き立てる色。

自分のためではなく、隣に立つための色。

結局、その日は殿下が来なかった。

布地は片付けられ、職人は頭を下げ、私は「後日改めて」と言った。

後日は、来なかった。

「殿下」

クライン卿が尋ねる。

「この件の負担元は」

殿下は答えなかった。

私は、手元の紙を見つめていた。

ここで私が何か言う必要はない。

これはもう、私の悲しみではない。

王宮衣装室の待機延長手当。

布地商会への日程変更手数料。

帳簿上は、それだけだ。

「……私費で補填する」

殿下が言った。

「承知しました」

記録係が筆を動かす。

その音を聞きながら、私は思った。

あの日の布地の色を、私はもう選ばなくていいのだと。

淡い青。

王家の青。

殿下の隣に立つための色。

もう、予定表には戻ってこない色。

「クラウゼン嬢」

不意に、殿下が私を呼んだ。

ミリア様がすぐに視線を上げる。

「殿下。個人的な発言は」

「分かっている」

殿下は短く遮った。

それから、私を見た。

「この件について、君にも負担があったのなら、僕の私費から出す」

室内が静かになった。

「衣装室や布地商会だけではない。クラウゼン伯爵家にも迷惑料を払えばいいのだろう。婚約解消の件も、それで少しは――」

「必要ございません」

私は、静かに言った。

殿下の言葉が止まった。

「だが、君は」

「私が失ったのは、手数料ではございませんので」

殿下の顔が、凍った。

言ってから、少しだけ自分でも驚いた。

責めるつもりはなかった。

けれど、本当のことだった。

私が失ったものには、請求書がない。

領収書もない。

費目もない。

だから、ここでは扱えない。

そして、金額をつけられないものを、金額で戻そうとされたことが、最後の答えのようにも思えた。

「本件は、衣装室および布地商会への費用処理のみご確認ください」

私はそう言って、目を伏せた。

クライン卿が、わずかに頷く。

「では、第二十一件は殿下私費補填として処理します」

「……ああ」

殿下の声は、かすれていた。

殿下は、ようやく気づいたのかもしれない。

この場で清算できるのは、手数料だけだ。

私との婚約ではない。

確認が終わったのは、午後三時半を少し回った頃だった。

三十八件。

すべてに、仮の負担元が入った。

うち二十七件は、殿下の私費補填。

六件は、王太子府儀典費から正式処理。

三件は、外務儀典局予備費からの戻し入れ。

二件は、第二王子府への補填。

数字が並ぶ。

名前が並ぶ。

責任が並ぶ。

もう、後日確認予定ではない。

「本日の確認は以上です」

クライン卿が言った。

「後日、会計監査室より正式な整理案を提出します」

クライン卿は、封印前の帳簿を静かに閉じた。

「なお、王太子殿下の私費補填分につきましては、本日夕刻、会計監査室長より国王陛下へ上申されます」

殿下の顔が上がった。

「父上に?」

「はい」

クライン卿の声は変わらなかった。

「王太子殿下個人の私費枠だけで処理できる範囲を超える可能性があるためです。王家財産管理令に基づき、王家財産管理官、会計監査室、王妃陛下秘書官室の三者で正式な国庫返還手続きが検討されます」

「国庫返還……」

殿下の唇が、わずかに動いた。

「私は、金を払えば済むのではないのか」

「済むかどうかを判断するのは、この場ではございません」

クライン卿は淡々と言った。

「本日の確認は、あくまで費用の性質と負担元を整理するためのものです。殿下の処分、私費補填の方法、王太子府の管理責任については、上位判断に委ねられます」

その言葉で、室内の空気が一段重くなった。

ようやく殿下にも分かったのだと思う。

これは、三十八件の請求をまとめて支払う話ではない。

王太子が、国の帳簿の上で監査対象になったという話なのだ。

「また」

ミリア様が続けた。

「王妃陛下は、本日の確認結果を受け、明朝、王太子府の私的予定変更に関する新たな王宮令を発布なさる予定です」

殿下の肩がわずかに揺れた。

「王宮令?」

「はい。草案はすでに法務官室へ回っております」

ミリア様は、手元の封書に指を添えた。

「今後、王太子殿下の私的事情による公務変更は、日程管理官、王妃陛下秘書官室、関係部署の三者確認を必須とする。リュミエール男爵令嬢に関する見舞い、訪問、医師照会については、私信と公式要請を明確に分けて処理する。以上が骨子です」

「彼女を巻き込むなと言ったはずだ」

「巻き込まないための規定です」

ミリア様は、静かに返した。

「私信は私信として扱う。公式要請は公式要請として扱う。その線引きを曖昧にしてきたことが、今回の混乱の一因です」

殿下は、口を閉じた。

その場で制度が変わったわけではない。

けれど、制度が変わるための手続きは、もう始まっていた。

私は、ミリア様の横顔を見ていた。

線を引く。

それは冷たいことではないのかもしれない。

守るためにも、線は必要なのだ。

「クラウゼン嬢」

クライン卿が私を呼んだ。

「はい」

「本日の補足、助かりました」

「恐れ入ります」

「三十八件の処理について、あなたの役割はここまでです。以後の会計整理は、会計監査室および王太子府で行います」

一瞬、言葉の意味が分からなかった。

「私が、以後は関わらないということでしょうか」

「はい」

「ですが、詳細を最も把握しているのは」

「あなたです」

クライン卿は頷いた。

「だからこそ、今日補足を受けました。以後は制度が処理します」

制度が処理する。

その言葉は、重かった。

私はまた、自分が手を出そうとしていたことに気づいた。

最後まで見届けたい。

綺麗に終わらせたい。

誰かが困らないようにしたい。

その気持ちは、きっと悪いものではない。

でも、それを理由に私が戻れば、また同じことになる。

「承知いたしました」

私は深く礼をした。

「以後は、会計監査室へ引き継ぎます」

「それで結構です」

クライン卿は、書類箱の蓋を閉じた。

封印が押される。

赤い蝋。

王宮会計監査室の印。

三十八件の未処理請求は、私の手元を離れた。

本当に、離れた。

会議室を出る時、殿下がもう一度私を見た。

今度は、名を呼ばなかった。

呼べなかったのかもしれない。

私も、何も言わなかった。

廊下に出ると、窓の外は曇っていた。

雨は降っていない。

けれど、空は重い。

私は手元の予定表を開いた。

午後四時。

外務儀典局への修正回答書作成。

もう次の予定がある。

けれど、それはどこかへ走っていくための予定ではなかった。

自分の机で、正式に依頼された仕事を始めるための予定だった。

日程室へ戻る途中、ベネット卿が隣を歩きながら言った。

「終わったな」

「はい」

「どうだ」

「不思議です」

「何が」

私は予定表を胸に抱えた。

「三十八件もあったのに、終わる時は、一つずつなのだと思いました」

ベネット卿は少しだけ黙った。

それから言った。

「仕事とは、だいたいそういうものだ」

「はい」

「恋も、そうかもしれないな」

思いがけない言葉に、私は顔を上げた。

ベネット卿は前を向いたままだった。

「一度に壊れたように見えても、実際は一つずつ、何かが未処理のまま積み上がっている」

私は、返事ができなかった。

その言葉は、今日のどの帳簿よりも静かに胸へ残った。

日程室に戻ると、机の上に外務儀典局からの修正席次案が届いていた。

東方商会代表は一席下げられ、間に文化局長が入っている。

神殿側からの雨天時導線確認も添付されていた。

私は椅子に座り、羽根ペンを取る。

さあ、次の仕事だ。

けれど、その前に。

予定表の午後一時の欄を見た。

会計監査室による未処理請求の負担元確認。

私は、その横に小さく書き加えた。

完了。

たった二文字。

それを書いた瞬間、胸の奥から、長く息が抜けた。

泣くほどではない。

笑うほどでもない。

ただ、少しだけ軽くなった。

三十八件の未処理請求。

それはもう、私の鞄の中にはない。

私の机の上にもない。

私の予定表の余白にも、もう入り込まない。

私は新しい紙を一枚取り出した。

外務儀典局への修正回答書。

隣国使節団対応。

神殿導線。

晩餐席次。

やるべきことは、まだいくらでもある。

けれど、それは誰かの後始末ではなかった。

正式に依頼された、私の仕事だった。

窓の外で、雲の切れ間から細い光が落ちる。

私は羽根ペンの先を整え、最初の一行を書き始めた。

本件、修正案を確認いたしました。

その文字は、昨日より少しだけ、まっすぐに書けた気がした。