軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

夜を組み直した魔術師

翌朝、私はいつもより少しだけ遅く目を覚ました。

窓の外には、薄い朝日が差していた。

昨日の夜、私は本当に王宮から帰った。

予定表に「帰宅」と書き、その通りに帰った。

それだけのことが、ひどく不思議だった。

夕食の席で、父は何度も何かを言いかけては口を閉じ、母は私の皿に温かいスープをよそい続けた。

二人とも、婚約解消の正式文書については何も聞かなかった。

きっと、聞きたいことは山ほどあったはずだ。

王太子殿下は何と言ったのか。

王妃陛下はどう判断されたのか。

私は本当に後悔していないのか。

けれど、母はただ言った。

「今日は眠りなさい」

その一言で、私はようやく、自分がどれほど疲れていたのかを知った。

眠れないと思っていた。

けれど、寝台に横になると、まるで糸が切れたように眠ってしまった。

夢は見なかった。

少なくとも、覚えていない。

朝、机の上には、昨日持ち帰らなかった書類の代わりに、一通の短い手紙が置かれていた。

父の字だった。

王家宛ての婚約解消正式文書は、本日午前、クラウゼン伯爵家より提出する。

お前は、お前の仕事をしなさい。

それだけだった。

余計な慰めはない。

余計な怒りもない。

けれど、便箋の端が少しだけ滲んでいた。

私はその手紙を丁寧に折り、引き出しへしまった。

そして、鏡の前に立つ。

今日は、淡い青のドレスではない。

王太子殿下の隣に立つための色ではない。

選んだのは、灰青の落ち着いたドレスだった。

飾りは少ない。

動きやすく、書類を持って歩いても裾が邪魔にならない。

髪も高く結わず、首元でまとめた。

婚約者としてではなく。

職務者として。

私は今日、隣国ヴァルツ公爵との 儀典確認(ぎてんかくにん) に同席する。

予定表を開き、今日の欄を見た。

午前十時。

隣国ヴァルツ公爵との儀典確認に同席。

その文字は、昨日の夜よりも少し重く見えた。

怖くないと言えば、嘘になる。

見抜かれた。

昨夜の予定変更の痕跡を。

あの短時間で夜を組み直した魔術師に、一度会ってみたい。

そう書いた人に、会う。

私は予定表を閉じた。

ぱたん、という音が部屋に落ちる。

「魔術では、ありません」

誰に言うでもなく、私は小さく呟いた。

王宮に着くと、空気が昨日とは少し違っていた。

変化は大きくない。

衛士の立ち方も、文官の足音も、朝の鐘の響きも、いつも通りだ。

けれど、視線が違う。

私を見る視線。

王太子殿下の婚約者を見る視線ではない。

騒動の中心にいる令嬢を見る視線でもない。

何かを提出し、何かを動かした者を見る視線。

その中には、好奇心もあった。

警戒もあった。

けれど、昨日までより少しだけ、距離が正確になった気がした。

近すぎず、遠すぎない。

私を誰かの付属物ではなく、一人分の輪郭で見ている。

それだけで、足元が少し安定する。

王宮中央棟の廊下へ差しかかった時、向こう側から複数の足音が聞こえた。

先頭に王妃陛下秘書官室の文官。

その後ろに、護衛騎士が二名。

さらに、王太子府の上級書記官が書類箱を抱えて続いている。

その中央に、レオンハルト殿下がいた。

昨日と同じ青い上着。

けれど、歩き方は昨日と違った。

自由に歩いているのではない。

定められた場所へ、定められた順路で、移されている。

そのことは、周囲の人員配置を見ればすぐに分かった。

殿下も、私に気づいた。

ほんの一瞬、足が鈍る。

だが、護衛騎士も秘書官室の文官も止まらない。

「リディア」

すれ違う直前、殿下が私の名を呼んだ。

声は低く、掠れていた。

私は立ち止まり、規定通りに礼をする。

「レオンハルト殿下」

婚約者としてではなく、王宮職員としての礼。

殿下の顔がわずかに歪んだ。

「昨日は……」

その先は、続かなかった。

王妃陛下秘書官室の文官が静かに告げる。

「殿下。確認のお時間が迫っております」

殿下は唇を噛んだ。

私に向けられた視線には、謝罪と、焦りと、まだ言い訳を探す甘さが混じっていた。

けれど私は、何も足さなかった。

「職務がございますので、失礼いたします」

もう一度礼をして、私は歩き出した。

背後で、殿下の足音が遠ざかる。

追いかけられる距離ではなかった。

追いかけることを、王宮が許していなかった。

外務儀典局の会議室は、王宮東棟の二階にある。

南向きの窓から庭園が見えるが、室内の装飾は控えめだ。

壁には各国の紋章が並び、中央には長い卓が置かれている。

卓の上には、地図。

席次案。

来賓名簿。

導線図。

式次第。

そして、今日の会議のために用意された新しい紙束。

私は外務儀典局の書記官に案内され、末席に近い位置へ座った。

本来なら、私の席はここだ。

王太子府の調整官代理。

外務儀典局の会議では、補助的な立場。

前に出すぎてはいけない。

けれど、資料はすべて読んできた。

昨夜、持ち帰り用の書類はベネット卿に没収された。

だから、今朝、王宮に着いてから許可を得て閲覧した。

三十分だけだったが、必要な部分は頭に入っている。

隣国大使夫妻の滞在日程。

ヴァルツ公爵の随行員。

明日の午前に予定されている港湾通商に関する非公式会談。

午後の神殿訪問。

夜の小規模晩餐。

そして、昨日の観劇で生じた印象の修正。

会議室の扉が開いた。

最初に入ってきたのは、隣国大使夫妻だった。

その後ろに、背の高い男性が一人。

無駄のない黒い礼服。

濃い灰色の髪。

冬の湖のような、薄い青の目。

まだ若い。

三十には届いていないだろう。

けれど、若さより先に、静けさが目に入る人だった。

歩き方に迷いがない。

視線に無駄がない。

部屋に入った瞬間、彼は誰がどこに座り、どの資料がどの順で置かれ、窓からの光がどちらへ落ちるかまで見たように思えた。

アーヴィン・ヴァルツ公爵。

その人だと、名乗られる前に分かった。

外務儀典局長代理が挨拶をする。

大使夫妻が穏やかに応じる。

ヴァルツ公爵は短く礼をした。

「本日は、急な確認の場を設けていただき感謝する」

声は低く、よく通る。

飾り気はない。

けれど、一語ずつがはっきりしていた。

会議は形式通りに始まった。

昨日の観劇への謝意。

今後の滞在日程。

港湾通商に関する非公式会談の位置づけ。

神殿訪問時の馬車導線。

晩餐の席次。

すべて、外務儀典局長代理が中心となって進めていく。

私は必要に応じて、手元の資料へ小さく印を付けた。

ここは後で確認。

ここは雨天時の導線が足りない。

ここは大使夫人の休憩時間と重なる。

発言するつもりはなかった。

少なくとも、求められるまでは。

「ところで」

ヴァルツ公爵が、ふと視線を上げた。

会議室の空気が、少しだけ変わった。

「昨夜の観劇について、一つ確認したい」

外務儀典局長代理が頷く。

「何でしょうか」

「代理出席の確定は、開演の何時間前だったのか」

私は手元の紙に置いていた指を止めた。

外務儀典局長代理が、こちらを見る。

発言を求められている。

私は立ち上がった。

「王太子殿下の欠席申告は、午前十時過ぎでございます。第二王子殿下への代理出席打診は午前十一時二十分。仮承諾は正午前。正式確定は午後一時四十分でございました」

ヴァルツ公爵の視線が、私に向いた。

冷たいわけではない。

けれど、見られているという感覚が強かった。

まるで、書類の余白まで読まれているような目だった。

「あなたが、リディア・クラウゼン嬢か」

「はい。王太子府儀典日程室、主任調整官代理リディア・クラウゼンでございます」

「昨夜を組み直したのは、あなたですね」

会議室の何人かが息を止めた。

直球だった。

私は答えを選んだ。

「関係各所のご協力があってこそでございます」

「それは事実でしょう」

ヴァルツ公爵は頷いた。

「だが、協力は勝手に形にならない。誰かが順序を決める必要がある」

私は返事に迷った。

褒められているのではない。

試されている。

そう感じた。

「昨夜、私が気づいた痕跡は四つあります」

ヴァルツ公爵は、指を一本立てた。

「一つ。休憩中の挨拶順が、本来の王太子殿下中心の流れから、第二王子殿下を立てつつ王妃陛下の名を前に出す流れに変わっていた」

二本目の指。

「二つ。大使夫人の導線が、当初予定より短かった。階段を一つ避け、東側の回廊を使っていた」

三本目。

「三つ。席札の差し替えはあったが、花と照明は変わっていなかった。つまり、花の条件は事前に潰されていた」

四本目。

「四つ。第二王子殿下は完璧に代理を務めたが、劇場側の案内係が一度だけ、控え室の呼称を言い直しかけた。控え室の割り当ては、直前まで王太子殿下用だったのでしょう」

会議室が静まり返った。

私は、指先が冷たくなるのを感じた。

見抜かれていた。

本当に。

それも、私が昨夜、最も気を配った部分ばかりを。

私は一度だけ息を吸う。

怖い。

けれど、逃げる場ではない。

「ご推察の通りでございます」

私は言った。

「ただし、花については変更しておりません。大使夫人が強い香りを苦手とされることは、三日前の確認で把握しておりましたので、最初から香りの薄い白薔薇のみを用意しておりました」

「つまり、昨夜の変更とは関係がない」

「はい」

「導線は」

「大使夫人が長時間の観劇後にお疲れになる可能性を考え、第二王子殿下との挨拶後、最短で休憩室へ移れるよう変更いたしました」

「王太子殿下の欠席をごまかすためではなく?」

「ごまかすためであれば、むしろ本来の導線を維持した方が自然です」

私は手元の導線図を開いた。

「しかし、代理出席の場合、第二王子殿下が大使夫妻へお声をかける位置が半歩変わります。そのまま旧導線を使うと、大使夫人が客席前で余分に待つことになります。人が立ち止まる場所が増えると、新聞記者に違和感を拾われます」

ヴァルツ公爵の目が、少しだけ細くなった。

「だから、導線を短くした」

「はい。結果として、大使夫人の負担も減ります」

「休憩中の挨拶順は」

「王太子殿下の名を前に出しすぎると、欠席が目立ちます。第二王子殿下を前に出しすぎると、予定外の代理が政治的な意味を持ちすぎます。ですので、王妃陛下の名で場を整え、第二王子殿下には歓迎の意を示していただく形にいたしました」

「王太子殿下の不在を薄め、第二王子殿下の存在を立てすぎず、王妃陛下の権威で包んだ」

「……はい」

自分の処理を他人の口でまとめられるのは、落ち着かない。

けれど、間違ってはいなかった。

「控え室の呼称を言い直しかけた案内係は」

「劇場側の責任ではございません」

私は即座に言った。

「正式確定から開演までの時間を考えれば、十分な再教育は不可能でした。案内係は言い直す前に止めております。失礼には当たりません」

ヴァルツ公爵は、表情を変えずに私を見た。

「責めるために言ったのではありません」

「承知しております」

「では、なぜ即座に庇ったのです」

私は言葉に詰まった。

なぜ。

考えるより先に、答えが出ていた。

「現場の過失ではないからです」

ヴァルツ公爵は、少しの間、私を見ていた。

「夜を組み直した魔術師、という表現は少し違っていたようだ」

会議室の空気が、わずかに揺れる。

私は静かに首を横に振った。

「魔術ではございません」

その言葉だけは、はっきりと言えた。

「手順です」

ヴァルツ公爵の目が、初めてわずかに変わった。

冷静な湖面に、小さな波が立つような変化だった。

「手順」

「はい。事前確認、優先順位の整理、承認経路、代替案、現場への負荷、相手方の体調、記者の視線。すべてを順番に並べただけです」

「だけ、ですか」

その言い方には、少しだけ皮肉が混じっていた。

私は目を伏せないようにした。

「魔術なら、説明できません。ですが、手順なら再現できます」

会議室が静かになった。

私自身も、その言葉に少し驚いていた。

言ってから、気づいた。

私はずっと、それをしていた。

奇跡ではない。

才能だけでもない。

感情でもない。

毎回、考えて、並べて、潰して、残した。

だから、記録にできた。

だから、引き継げる。

だから、誰か一人の献身にしなくていい。

ヴァルツ公爵は、しばらく私を見ていた。

それから、静かに頷いた。

「なるほど。魔術師ではなく、もっと厄介だ」

「厄介、でございますか」

「ええ」

彼は淡々と言った。

「偶然ではなく再現できる。しかも、自分の手柄として前に出さない。敵に回せば発見が遅れ、味方に置けば損失が減る」

外務儀典局の文官が息を呑んだ。

「公爵閣下」

私は静かに言った。

「私は王宮の職務者です」

「承知しています」

ヴァルツ公爵は、少しも笑わなかった。

「だからこそ、王宮はあなたの使い方を誤るべきではない」

その言葉は、優しさではなかった。

値踏みだった。

けれど、不快ではなかった。

少なくとも、私を便利な婚約者として扱う言葉ではなかった。

外務儀典局長代理が咳払いをした。

「では、明日の儀典確認に移りましょう」

会議は再び本筋へ戻った。

明日の午前、隣国使節団は港湾通商に関する非公式会談を行う。

場所は王宮北棟の小会議室。

その後、神殿訪問。

夜には小規模晩餐。

表向きは穏やかな交流。

けれど、通商と港湾管理が絡む以上、ただの親睦ではない。

資料上の案では、午前の会談後、使節団は北回廊を通って馬車寄せへ向かう予定だった。

私は導線図を見て、少しだけ眉を寄せた。

発言すべきか。

まだ求められていない。

けれど、見過ごせない。

私が迷っていると、ヴァルツ公爵がこちらを見た。

「クラウゼン嬢。何か」

外務儀典局長代理も私を見る。

私は立ち上がった。

「恐れながら、北回廊の使用について確認がございます」

「どうぞ」

「今朝、宮廷気象官より提出された朝報では、昼前から正午にかけて小雨の可能性が記載されております」

外務儀典局の文官が資料をめくった。

「雨天確率は高くないはずです」

「はい。通常行事であれば、導線変更を検討するほどではありません」

私は手元の別紙を開いた。

「ですが、明日は神殿側から大聖燭台の搬入がございます。神殿の聖具保護規定では、小雨であっても金属聖具は北回廊に一時退避させることになっています」

「……その規定は、外務儀典局の資料には」

「含まれておりません。神殿訪問の準備資料に添付されていたものです」

ヴァルツ公爵の視線が、私の手元の紙へ落ちた。

「あなたは、それを読んでいた」

「神殿訪問が同日に組まれておりましたので」

「当然のように言いますね」

「同じ導線を使う可能性がございましたので、確認いたしました」

外務儀典局長代理が低く息を吐いた。

「神殿側へ、雨天時の聖具搬入経路を確認。王妃陛下秘書官室にも共有を。ただし、依頼理由は通商会談ではなく、参拝者安全確保とする」

「はい」

私は頷いた。

「その名目であれば、神殿側も動きやすいかと存じます」

私は座ろうとした。

だが、ヴァルツ公爵の声が止めた。

「もう一つ、気づいていますね」

私は動きを止めた。

「……はい」

「聞かせてください」

資料の晩餐席次案を開く。

「夜の晩餐ですが、現在の席次では、ヴァルツ公爵の右隣が東方商会の代表、左隣が我が国の港湾管理官となっております」

外務儀典局の文官が眉を寄せた。

「一見すると、問題はないはずです。東方商会は今回の歓迎行事に協賛している。港湾管理官と隣席に置くのは、通商上も自然です」

「通常であれば、その通りでございます」

私は頷いた。

「ですが、東方商会は昨月、港湾税の減免申請を通商局へ提出しております」

文官の表情が変わった。

「その情報は、外務儀典局には共有されていません」

「はい。通商局内で審査中の非公開案件です」

「では、なぜクラウゼン嬢が」

「王太子殿下の通商局視察予定に関連して、事前説明資料を確認しておりました。その際、東方商会の申請予定と、港湾管理官の非公開面談日程が王太子府の日程表に載っておりました」

部屋の空気が変わる。

外務儀典局の見落としではない。

情報が、部署をまたいで共有されていなかったのだ。

「つまり」

ヴァルツ公爵が静かに言った。

「外務儀典局の席次案だけを見れば妥当。しかし、通商局の非公開案件と重ねると、危険な配置になる」

「はい」

私は答えた。

「晩餐の席で東方商会代表とヴァルツ公爵が長く会話すれば、王宮が隣国公爵を通じて港湾税問題に圧力をかけたと見られる恐れがあります」

「では、どうするべきだと思いますか」

「東方商会代表を一席下げ、間に文化局長を入れるべきです。話題を港湾税から、劇場と芸術支援へ流せます」

「私の左隣は」

「港湾管理官のままでよいかと。公務上の会話として整理できます」

「東方商会は不満を持つ」

「持ちます。ですので、食後の茶会で商会代表が大使夫人へ挨拶できる時間を別に設けます。面子は保てます」

外務儀典局長代理が、ゆっくりと息を吐いた。

「席次を組み直します。通商局にも確認を入れます」

「恐れ入ります」

私は頭を下げた。

また、やってしまったかもしれない。

出すぎたか。

王太子府の調整官代理が、外務儀典局の席次に口を出した。

そう思われても仕方がない。

けれど、外務儀典局長代理は私を見て言った。

「助かりました」

昨日に続いて、またその言葉だった。

助かりました。

私は少しだけ胸を押さえたくなった。

「いえ、職務ですので」

ヴァルツ公爵の視線が、こちらへ向いた。

「その言葉は便利ですね」

「え?」

「職務ですので」

彼はそう繰り返した。

「あなたは、評価を受け取りそうになると、その言葉で一段下がる」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

会議室の空気が固まる。

外務儀典局長代理が慌てて口を挟もうとしたが、ヴァルツ公爵は続けた。

「責めているのではありません。昨夜もそうでした。すべてを整え、破綻を防ぎ、しかし自分の功績だけは導線の外へ置いている」

私は言葉を失った。

そんなことを、考えたこともなかった。

功績。

私の仕事に、その言葉を使う人はいなかった。

私自身も、使ったことがなかった。

「公爵閣下」

私はようやく声を出した。

「私は、与えられた役割を果たしただけです」

「ええ」

ヴァルツ公爵は頷いた。

「だから評価されるのです」

簡単な言葉だった。

それなのに、胸に刺さった。

「役割を果たす者は多い。だが、破綻の可能性を事前に潰し、発生した変更を最小の損失で収め、なおかつ現場の過失を庇う者は少ない」

彼は手元の資料を閉じた。

「クラウゼン嬢。私はあなたを慰めているわけではありません」

「……はい」

「昨夜のあなたの処理は、我が国から見れば警戒すべきものです。王族の欠席という失点を、表向きの傷にしなかった。こちらが拾えるはずだった交渉材料を、いくつか潰された」

部屋の空気が、少しだけ鋭くなる。

私は静かに息を吸った。

そうだ。

この人は、隣国の公爵だ。

私を救いに来た人ではない。

昨日の夜、私が整えたものは、王国にとっては防御だった。

しかし隣国にとっては、使えたはずの揺さぶりを失ったということでもある。

「同時に」

ヴァルツ公爵は続けた。

「それを行った者が、今後どこに置かれるのかは、外交上の関心事になります」

値踏みされている。

私は、それをはっきり感じた。

けれど、不快ではなかった。

少なくとも、私を便利な婚約者として扱う目ではなかった。

「ご懸念は、外務儀典局を通じて正式に承ります」

私は答えた。

「私は王宮の職務者ですので」

ヴァルツ公爵の目が、わずかに細くなる。

「いい返答です」

褒められているのではない。

判定された。

そう思った。

外務儀典局長代理が、静かに言った。

「クラウゼン嬢。本件について、今後三日間の隣国使節団対応にも同席していただきたい。王妃陛下のご許可は、こちらから申請します」

私は思わず顔を上げた。

「私が、三日間も」

「必要です」

その言葉は、はっきりしていた。

必要。

便利ではなく。

都合がいいからでもなく。

穴を埋めるためだけでもなく。

必要。

胸の奥が、少し熱くなった。

「承知いたしました。ご命令であれば」

「命令でもありますが」

外務儀典局長代理は、少しだけ表情を和らげた。

「正式な依頼です」

正式な依頼。

私は深く礼をした。

「拝命いたします」

会議は、その後も一刻ほど続いた。

神殿への雨天時導線確認。

晩餐席次の修正。

通商局への非公開案件確認。

東方商会代表への茶会時間の追加。

大使夫人の休憩室変更。

ヴァルツ公爵の随行員の控え室位置。

すべてが、細かく調整されていく。

細かいこと。

殿下がそう呼んだもの。

けれど、その細かいものが一つ欠けるだけで、人は怒り、国は疑い、記録は傷になる。

細かいことは、細かいからこそ、誰かが見なければならない。

会議が終わる頃、窓の外では本当に小雨が降り始めていた。

外務儀典局の文官が、驚いたように窓を見た。

「クラウゼン嬢、雨です」

「はい」

私は頷いた。

「神殿側への確認は、急いだ方がよろしいかと」

文官はすぐに席を立った。

会議室の中に、雨の音が小さく響く。

ヴァルツ公爵は窓の外を見て、それから私を見た。

「気象官の朝報まで手順に入れるのですか」

「屋外導線がある場合は」

「当然のように言いますね」

「当然ではございませんか」

そう返してから、少しだけ不安になった。

言いすぎただろうか。

しかし、ヴァルツ公爵は表情を変えないまま言った。

「ええ。そういうことにしておきましょう」

会議室を出る時、ヴァルツ公爵が私に声をかけた。

「クラウゼン嬢」

「はい」

彼の視線が、ほんの一瞬だけ、私のドレスに落ちた。

灰青。

王太子殿下の隣に立つための淡い青ではなく、私が今朝、自分で選んだ色。

「その色は、目立ちすぎない。けれど、記憶には残る」

「……恐れ入ります」

褒め言葉なのか、観察結果なのか、判断に迷った。

誰かにドレスを褒められたことがなかったわけではない。

けれど、それはたいてい、王太子殿下の婚約者としてふさわしいかどうかの言葉だった。

隣に立つ者として。

場に添える色として。

王家の青を邪魔しない装いとして。

でも、今の言葉は違った。

誰かの隣に立つための色ではなく、私が選んだ色を、そのまま見られた気がした。

ヴァルツ公爵は、それ以上踏み込まなかった。

「明日も、よろしくお願いします」

それは、とても普通の言葉だった。

特別に甘いわけでもない。

貴族的な飾りもない。

けれど、その言葉には、投げっぱなしの期待がなかった。

君ならどうにかできる、ではない。

よろしくお願いします。

相手の仕事を認め、敬意を持って手を借りる時の言葉。

私は深く礼をした。

「こちらこそ、よろしくお願いいたします」

顔を上げると、ヴァルツ公爵はもう大使夫妻の方へ向かっていた。

背筋の伸びた、静かな背中だった。

その人は、私を救いに来たわけではない。

甘い言葉で慰めたわけでもない。

ただ、私の仕事を見た。

手順を見た。

痕跡を拾った。

そして、利用価値まで測った。

それだけだった。

それだけなのに、昨日までより少しだけ、呼吸がしやすかった。

日程室へ戻ると、ベネット卿が私の顔を見て、すぐに言った。

「疲れた顔だな」

「はい」

「だが、悪い顔ではない」

「そうでしょうか」

「少なくとも、昨日よりはましだ」

それは褒めているのだろうか。

たぶん、ベネット卿なりには褒めているのだと思う。

私は机に座り、予定表を開いた。

今日の欄には、儀典確認に同席、と書かれている。

その横に、小さく追記した。

隣国使節団対応、三日間同席。

正式依頼。

少し迷ってから、その下にもう一行だけ書いた。

夜を組み直した魔術師ではない。

手順を積み重ねる者。

文字にしてみると、少し気恥ずかしかった。

けれど、消さなかった。

魔術ではない。

奇跡でもない。

誰かのために自分を削ることでもない。

私が積み重ねてきたものには、名前がある。

仕事。

そう呼んでいいのだと、今日初めて思えた。

窓の外では、小雨が王宮の石畳を濡らしている。

私は羽根ペンを置き、乾きかけた文字を見つめた。

明日の予定は、怖い。

でも、もう空白ではない。

そこには、私の仕事が書かれていた。