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作品タイトル不明

王妃陛下は、恋愛沙汰として扱わない

午後一時。

私は、王宮西棟の 会計監査室(かいけいかんさしつ) にいた。

会計監査室は、王宮の中でも特に静かな場所だ。

華やかな花瓶も、客人をもてなすための絨毯もない。

壁に掛けられているのは、歴代の監査長の肖像画と、王国会計規則の写しだけ。

机の上には、帳簿。

計算札。

封印箱。

そして、数字を間違えた者の言い訳を許さない空気があった。

王宮でもっとも笑わない部署。

その噂は、たぶん正しい。

「では、始めましょう」

そう言ったのは、会計監査室の副監査官、エドガー・クライン卿だった。

四十代半ばの、灰色の髪を後ろで整えた男性だ。

声は低く、感情の起伏がほとんどない。

その隣には、王妃陛下第一秘書官のミリア・グレイス様。

向かいの席には、 外務儀典局(がいむぎてんきょく) の文官が二名。

少し離れた席に、王太子府 儀典日程室(ぎてんにっていしつ) の日程管理官、ベネット卿。

そして私は、部屋の中央に置かれた小さな机の前に座っている。

まるで裁かれる者の席のようだった。

けれど、ここは裁判所ではない。

私は罪人ではない。

そう自分に言い聞かせて、背筋を伸ばした。

「クラウゼン嬢」

クライン卿が帳簿を開く。

「まず確認します。あなたは本日午前、王太子府儀典日程室へ引継報告書を提出した」

「はい」

「報告対象は、王太子レオンハルト殿下の私的事情に伴う日程再調整、合計三十八件」

「はい」

「うち、追加費用または 補填予定(ほてんよてい) が発生しているもの、三十八件」

「はい」

「負担元未確定の請求、三十八件」

「はい」

言葉にすると、ひどい数だった。

自分で書いた数字なのに、他人の口から読み上げられると、急に重さを増す。

三十八件。

予定表の上では、細い黒線で済んだもの。

けれど、帳簿の上では違う。

黒線一本の向こうに、急使が走り、 侍従(じじゅう) が動き、席札が差し替えられ、謝礼が積まれ、誰かが頭を下げている。

「未処理請求とは、具体的にどういう性質のものですか」

クライン卿が尋ねた。

責める声ではない。

だが、逃げ道を許す声でもなかった。

「殿下の予定変更により発生した追加費用のうち、最終的な負担元が確定していないものです」

私は答えた。

「すでに 仮払(かりばら) いされたものもございます。王太子府儀典費、外務儀典局の予備費、第二王子府の一時負担、劇場や神殿への後日補填予定分など、発生元はそれぞれ異なります」

「なぜ負担元が確定していない」

「王太子殿下の私的事情による変更であるため、本来であれば王太子府内で、王太子殿下の公務費として処理するか、殿下の私費として補填するかを確認する必要がございました」

「確認は」

「行いました」

「結果は」

私は少しだけ息を吸った。

「多くの場合、『細かいことは任せる』とのご返答でした」

羽根ペンの音が、一斉に止まった。

ミリア様は表情を変えない。

ベネット卿も動かない。

だが、外務儀典局の若い文官だけが、わずかに眉を寄せた。

たぶん、昨日までの私なら、ここで殿下をかばった。

お忙しい中でのご確認でしたので。

殿下は悪意があったわけではありませんので。

私の説明が不十分だったのかもしれません。

そうやって、自分の言葉で殿下の穴を埋めただろう。

けれど、今日は違う。

私は、記録にあることだけを答える。

それ以上は足さない。

それ以下にも削らない。

「『細かいこと』」

クライン卿が静かに繰り返した。

「王太子府儀典費の四半期予備枠の三割に達する額が、細かいことですか」

誰も答えなかった。

私も答えなかった。

それは私に向けられた問いではない。

この場にいない人へ向けられた問いだった。

「クラウゼン嬢」

「はい」

「あなたは、この三十八件について、費用の発生を隠そうとしましたか」

「いいえ」

「帳簿上、不正な処理を行いましたか」

「いいえ。すべて仮払い、補填予定、一時計上、負担元未確定として記録しております」

「あなた個人、またはクラウゼン伯爵家が、費用を立て替えたものは」

「ございません」

「受け取った謝礼、見返り、便宜は」

「ございません」

「王太子殿下の失態を隠すために、記録から理由を削除したことは」

「ございません」

「では、なぜこの件は三十八件まで積み上がった」

私は答えを探した。

帳簿の理由ではない。

手続き上の理由でもない。

もっと、人間らしい、だからこそ愚かな理由。

「私が、止めなかったからです」

口にした瞬間、自分の中で何かが少しだけ沈んだ。

クライン卿は私を見た。

「止めなかった?」

「はい」

「あなたに、王太子殿下を止める権限がありましたか」

「正式には、ございません」

「では、今の答えは正確ではありません」

冷たい声だった。

けれど、不思議と痛くはなかった。

「あなたには、王太子殿下の予定変更を記録し、上申する権限はあった。しかし、王太子殿下の行動そのものを停止させる権限はない」

「……はい」

「あなたがしたことは、問題の発生を遅らせたことではない。見える形に残したことです」

クライン卿は、帳簿を一枚めくった。

「見える形に残っていなければ、我々は今日、何も確認できなかった」

その言葉を聞いた瞬間、私は思わず目を伏せた。

責められると思っていた。

もっと早く言えと。

なぜ黙っていたと。

どうして王太子を甘やかしたと。

それらは、すべて私が自分に言い続けてきた言葉だった。

けれど、会計監査室の机の上では違った。

私は感情ではなく、記録として扱われている。

それは少し冷たくて、けれど、救いでもあった。

「確認します」

クライン卿は続けた。

「この三十八件のうち、王太子殿下の私的事情による変更と認められるものは、何件ですか」

「二十九件です」

「残り九件は」

「公務中の体調不良、王妃陛下の緊急召集、警備上の理由など、王太子殿下の責めに帰さない可能性があるものです。ただし、そのうち四件は、直前にセラフィーナ様への見舞いを優先したことで日程に遅れが出た結果、後続公務が圧迫されたものです」

外務儀典局の文官が、低く息を吐いた。

ミリア様が静かに言う。

「つまり、分類が必要ですね」

「はい」

クライン卿が頷く。

「未処理請求三十八件すべてを、同一に扱うことはできない。王太子殿下の私的事情による直接発生分、公務上やむを得ないもの、私的事情が間接的に影響したものに分ける必要があります」

「分類表は作成済みでございます」

私は鞄から薄い綴りを取り出した。

三十八件分の一覧。

日付。

変更内容。

公式理由。

実際の処理。

発生費用。

一時負担部署。

確認状況。

備考。

昨夜、眠らずに整えたものだ。

眠れなかった、という方が正しいのかもしれない。

クライン卿はそれを受け取り、しばらく眺めた。

そして、初めてほんの少しだけ目を細めた。

「……よく整理されています」

「恐れ入ります」

「この形式なら、合同確認は早く進むでしょう」

外務儀典局の文官も、横から覗き込んだ。

「大使館対応が発生した案件に印が付いていますね」

「はい。赤い印が、隣国および他国の大使館に関わった案件です。青い印が、国内貴族のみで完結した案件。黒い印が、王宮内処理に留まった案件です」

「外務儀典局への共有が必要なものは」

「赤印の九件、ならびに青印のうち外国商会が同席していた二件です」

「助かります」

その一言に、私は少しだけ目を瞬かせた。

助かります。

たったそれだけ。

でも、胸の奥に小さく響いた。

私はずっと、誰かに助けてほしかった。

けれど同じくらい、誰かにこう言われたかったのかもしれない。

あなたの仕事で、こちらは助かりました、と。

「クラウゼン嬢」

ミリア様が口を開いた。

「王妃陛下より確認を預かっています」

「はい」

「婚約解消の申し入れについて、あなたの意思は変わりませんか」

部屋の空気が、ほんの少しだけ変わった。

会計監査の場に、婚約の話が入り込む。

けれど、もう私は知っている。

この二つは、切り離せるようで切り離せない。

婚約者だから、私は黙った。

婚約者だから、周囲も私に任せた。

婚約者だから、殿下は私が最後には折れると思った。

「変わりません」

私は答えた。

声は、思ったよりも落ち着いていた。

「私は、王太子レオンハルト殿下との婚約解消を望みます」

ミリア様は、深く頷いた。

「王妃陛下は、本日夕刻、あなたと直接お会いになるおつもりです」

息が止まりかけた。

「私と、でございますか」

「はい」

「殿下ではなく」

「殿下からの説明は、別途お聞きになります」

ミリア様は淡々と言った。

「王妃陛下は、あなたの口から、あなた自身の意思を聞きたいと仰せです」

私は膝の上で指を重ねた。

王妃陛下。

レオンハルト殿下の母。

この国の王妃。

そして、王太子府の日程調整に 委任状(いにんじょう) を出していた方。

何度も拝謁したことはある。

けれど、婚約者としてではなく、一人の職務者として呼ばれるのは初めてだった。

「承知いたしました」

そう答えるほかなかった。

会計監査室での聞き取りは、予定より早く終わった。

早く終わったというより、私が作った分類表によって、質問の半分が不要になったらしい。

クライン卿は最後に、こう言った。

「クラウゼン嬢」

「はい」

「この件について、あなた個人が負うべき会計上の責任は、現時点では確認されていません」

その言葉に、私は知らないうちに息を吐いていた。

「ただし」

「はい」

「あなたが長期間にわたり、職務上の負荷を過大に背負っていたことは確認されました。今後、同様の単独処理は認められません」

「承知しております」

「あなたが有能だからといって、制度を一人で支えてよい理由にはならない」

私は顔を上げた。

クライン卿は、相変わらず笑っていなかった。

「王宮は、人の献身で回すものではありません」

その言葉が、静かに胸へ落ちた。

私は今まで、自分が献身していると思っていなかった。

ただ、任されたことをしていただけ。

必要だから、やっていただけ。

私が止まれば困る人がいるから、止まらなかっただけ。

でも、それを王宮が当然として受け取っていたのなら。

それは、私だけの問題ではない。

「はい」

私は小さく答えた。

「覚えておきます」

「覚えるのはこちらです」

クライン卿は書類を閉じた。

「制度の方が、人に無理をさせない形へ改められるべきです」

会計監査室を出る頃には、廊下の窓から午後の光が差していた。

朝の曇り空は、まだ完全には晴れていない。

けれど、雲の薄いところから、淡い光が落ちている。

私は王妃陛下との面会時刻まで、日程室で待機することになった。

机へ戻ると、周囲の文官たちが一瞬だけこちらを見た。

好奇心。

同情。

警戒。

そして、ほんの少しの敬意。

人の視線は、昨日までと同じようで、少しだけ違っていた。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が声をかける。

「聞き取りは」

「終了いたしました」

「そうか」

彼は短く頷いた。

「分類表が役に立ったようだな」

「はい」

「君は、こういうところが恐ろしい」

「恐ろしい、ですか」

「普通の令嬢は、婚約解消を申し入れた翌朝に、会計監査室向けの分類表を作ってこない」

それは、たぶん褒め言葉ではない。

けれど、悪口でもない。

私は少しだけ目を伏せた。

「眠れませんでしたので」

「それで分類表を作るのが君らしい」

ベネット卿は、ほんのわずかに口元を緩めた。

「夕刻、王妃陛下に呼ばれていると聞いた」

「はい」

「一人で行けるか」

問いかけは静かだった。

私は答えようとして、少しだけ迷った。

一人で行けます。

いつもの私なら、そう言った。

大丈夫です。

問題ありません。

職務ですので。

そう言って、何でも一人で抱えた。

けれど、今朝から何度も言われている。

制度は、人の献身で回すものではない。

「……付き添っていただけますか」

声は少し小さかった。

それでも、確かに言えた。

ベネット卿は一瞬だけ目を見開き、それから頷いた。

「もちろんだ」

たったそれだけ。

たったそれだけなのに、胸の奥が少し熱くなった。

頼むということは、こんなに難しい。

そして、受け入れてもらえるということは、こんなに静かに人を救う。

夕刻。

私はベネット卿とともに、王妃陛下の執務室へ向かった。

王妃陛下の執務室は、王宮南棟の奥にある。

王の謁見室ほど広くはない。

けれど、その扉の前に立つと、自然と背筋が伸びる。

衛士が扉を開けた。

「リディア・クラウゼン様、オズワルド・ベネット卿、お入りください」

室内は、静かだった。

香は焚かれていない。

豪奢な花もない。

大きな机の上には、数通の書類と、午前に私が提出した報告書の写しが置かれていた。

王妃エレオノーラ陛下は、その向こうに座っていた。

銀に近い金髪。

淡い紫の瞳。

年齢を感じさせない美しさと、年齢を重ねた者だけが持つ疲れが、同じ顔の上にある。

私は膝を折り、深く礼をした。

「リディア・クラウゼン、参上いたしました」

「楽にしなさい」

王妃陛下の声は、思ったより柔らかかった。

柔らかい。

けれど、甘くはない。

「ベネット卿も、同席を」

「はっ」

私たちは席を勧められた。

王妃陛下は、しばらく私を見ていた。

その視線に、怒りはなかった。

失望も、まだ見えない。

ただ、深く測られている気がした。

「昨夜の観劇対応、大儀でした」

「恐れ入ります」

「第二王子ユリウスから報告がありました。急な代理出席にもかかわらず、大使夫妻への失礼は最小限に抑えられていた、と」

ユリウス殿下の名が出て、私は少しだけ指先に力を込めた。

「もったいないお言葉でございます」

「もったいなくはありません。事実です」

王妃陛下は、机の上の報告書へ目を落とした。

「そして、こちらも事実ですね」

「はい」

「三十八件の未処理請求。うち二十九件が、王太子の私的事情に起因する可能性が高い」

「はい」

「あなたは、これを今まで抱えていた」

「はい」

「なぜです」

同じ問いを、何度も受けている。

けれど、相手が王妃陛下だと、重さが違った。

私は慎重に言葉を選んだ。

「殿下の婚約者として、殿下の名誉を守るべきだと思っておりました」

「それだけですか」

「……いいえ」

王妃陛下の瞳が、静かに私を見ている。

逃げられない。

でも、逃げなくていい。

そう思った。

「私が必要とされているのだと、思いたかったのだと思います」

言葉にした瞬間、喉の奥が少し痛んだ。

「殿下が私に任せるのは、信頼しているからだと。私が整えれば、いつか分かってくださると。私がしっかりしていれば、婚約者としてふさわしいと思っていただけると」

なんて情けない答えだろう。

会計監査室では、数字だけを答えられた。

でも、ここでは違う。

王妃陛下は、たぶん数字の奥を聞いている。

私がどうして逃げなかったのか。

どうして黙ったのか。

どうして、三十八件も積み上げるまで、自分を後回しにしたのか。

「けれど、違いました」

私は続けた。

「私は、信頼されていたのではなく、都合よく扱われていました」

言ってしまうと、胸の奥が少しだけ軽くなった。

「そして、それを止められなかったのは、私自身でもあります」

「いいえ」

王妃陛下は、静かに言った。

「それは違います」

私は顔を上げた。

「あなたが背負うべき責任ではありません」

王妃陛下の声は穏やかだった。

けれど、そこに王妃としての重さがあった。

「王太子を止めるべきは、王太子府です。王妃秘書官室です。必要なら、私です。あなた一人ではありません」

「ですが」

「あなたが有能だったから、周囲が甘えた」

私は息を止めた。

王妃陛下は、報告書の上に指を置いた。

「レオンハルトだけではありません。王宮も、あなたに甘えました。あなたが整えるから、問題が表に出ない。あなたが謝るから、相手は怒りを飲み込む。あなたが記録するから、あとでどうにかできる」

その言葉は、静かだった。

静かなのに、重かった。

「それを当然としてきたことについては、王妃として、あなたに詫びます」

私は思わず椅子から立ち上がりかけた。

「陛下、そのような」

「座っていなさい」

柔らかい声なのに、逆らえなかった。

私はもう一度、椅子に腰を下ろす。

王妃陛下は、私をまっすぐに見た。

「あなたは王太子の婚約者である前に、一人の人間です。そして、一人の職務者です。王家の都合で、その両方を削らせてよい理由はありません」

胸の奥が、ゆっくりと熱くなった。

泣きたくなった。

でも、泣かなかった。

今泣いたら、言葉が出なくなる。

私はまだ、言わなければならないことがある。

「王妃陛下」

「何です」

「婚約解消の申し入れについて、私の意思は変わりません」

王妃陛下は、少しだけ目を伏せた。

「分かっています」

「私は、レオンハルト殿下の妃にはなれません」

「そうでしょうね」

その返答は、あまりにあっさりしていた。

驚いてしまうほどに。

「王太子妃としてのあなたを惜しいとは思います」

王妃陛下は言った。

「けれど、レオンハルトのためにあなたをこれ以上使うことは、王家に許されません」

私は膝の上で指を握った。

許されない。

その言葉が、婚約の終わりを初めて現実にした。

「婚約解消の手続きは、クラウゼン伯爵家から正式文書が届き次第、王家として受理を検討します」

「ありがとうございます」

「ただし、即日での解消はできません。王太子の婚約です。議会、王家、貴族院、各方面への説明が必要になります」

「承知しております」

「その間、あなたとレオンハルトの接触には、必ず第三者を同席させます」

私は静かに息を吐いた。

「ありがとうございます」

「また、あなたを王太子殿下専属の調整任務から外します」

その言葉は、朝にも聞いた。

けれど、王妃陛下の口から聞くと、さらに確定したものになる。

「今後、あなたは儀典日程室の主任調整官代理として、王太子一人ではなく、王宮全体の儀典調整に関わりなさい」

「王宮全体、でございますか」

「ええ」

王妃陛下は、机の上に置かれていた一枚の紙へ目を落とした。

「今朝一番に、外務儀典局経由で隣国大使館から非公式の 覚書(おぼえがき) が届きました。正確には、大使夫妻に同行しているヴァルツ公爵からの伝言です」

聞き慣れない名だった。

けれど、外務儀典局でその家名を見たことはある。

ヴァルツ公爵家。

隣国でも有数の大貴族。

外交、通商、港湾管理に強い権限を持つ家。

「アーヴィン・ヴァルツ公爵」

王妃陛下は、その名を静かに読み上げた。

「昨夜の急な代理出席にもかかわらず、席次、挨拶順、休憩時の導線に乱れがなかったことに、強い関心を示しているそうです」

私は言葉に詰まった。

「それは、第二王子殿下のお力添えがあってこそでございます」

「もちろん、ユリウスの対応も評価されています」

王妃陛下は、少しだけ口元を緩めた。

「けれど、公爵はこう書き添えていました」

王妃陛下は覚書に目を落とす。

「『夜の帳の中で、予定変更の微かな痕跡を拾った。だが、破綻はどこにもなかった。あの短時間で夜を組み直した魔術師に、一度会ってみたい』」

部屋が静かになった。

私は、自分の指先が冷えていくのを感じた。

予定変更の痕跡。

見抜かれていた。

どれだけ整えても、分かる人には分かる。

それが怖かった。

同時に、少しだけ、不思議でもあった。

見抜かれたのに、責められていない。

破綻がなかった、と書かれている。

「明日の午前、外務儀典局がヴァルツ公爵との緊急の儀典確認を行います」

王妃陛下は言った。

「本来は外務儀典局のみで行う予定でしたが、あなたにも同席を命じます」

「私が、でございますか」

「ええ」

「私は、王太子府の――」

「今は、王宮全体の儀典調整に関わる者です」

王妃陛下の声に、迷いはなかった。

「リディア・クラウゼン。これは誰かの不始末の尻拭いではありません」

その一言で、胸が強く鳴った。

「これは、あなたの仕事です。あなたの知性を、我が国の外交の盾として使いなさい」

言葉が出なかった。

褒められるよりも、慰められるよりも、その言葉が私には重かった。

あなたの仕事。

誰かの穴埋めではなく。

誰かの不始末の後始末でもなく。

私が積み上げてきたものに、初めて正面から名前をつけられた気がした。

「拝命いたします」

私は立ち上がり、深く礼をした。

声は少し震えていた。

けれど、折れてはいなかった。

王妃陛下は頷いた。

「それから、もう一つ」

「はい」

「今夜は早く帰りなさい」

思いがけない言葉に、私は顔を上げた。

「ですが、未処理請求の補足資料が」

「ベネット卿」

王妃陛下が視線を向ける。

ベネット卿は即座に頷いた。

「日程室で引き取ります」

「ですが」

「リディア」

王妃陛下が、初めて私の名だけを呼んだ。

殿下が呼ぶ時とは、まったく違う響きだった。

そこには、引き止める力ではなく、離すための力があった。

「あなたの予定表に、休む予定を書きなさい」

私は息を詰めた。

休む予定。

そんなものを、いつから書いていなかっただろう。

予定表の空白は、いつも誰かのために空けていた。

殿下のため。

王宮のため。

急な変更のため。

謝罪のため。

でも、私のために空けたことはなかった。

「……承知いたしました」

私は深く礼をした。

王妃陛下の執務室を出ると、廊下には夕方の光が落ちていた。

朝の曇り空は、いつの間にか少しだけ晴れている。

窓の外で、薄い金色の光が庭の噴水に触れていた。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が隣で言った。

「今日は帰れ」

「はい」

「本当に帰れ」

「……はい」

「資料は置いていけ」

「はい」

「鞄の中に持ち帰り用の書類を隠していないな」

私は答える前に、少しだけ視線をそらした。

ベネット卿がため息をついた。

「出しなさい」

「……一部だけです」

「全部だ」

私は鞄から、補足資料の下書きを三枚取り出した。

ベネット卿は無言で受け取った。

「他には」

「ございません」

「本当だな」

「本当です」

たぶん。

ベネット卿は疑わしそうに私を見たが、それ以上は追及しなかった。

「では、帰りなさい」

「はい」

私は日程室に戻り、机の上の予定表を開いた。

今日の欄には、朝から書き込んだ予定が並んでいる。

引継報告書提出。

秘書官室へ副本送付。

会計監査室聞き取り。

未処理請求一覧の補足説明。

王妃陛下拝謁。

そして、午後五時の欄には、第二王子府への礼状作成。

私はその下に、少し迷ってから、新しい一行を書いた。

午後六時。

帰宅。

たった二文字。

帰宅。

それを書くだけで、胸の奥が少しだけ落ち着いた。

誰かのための予定ではない。

私が、私のために王宮を出る予定。

羽根ペンを置き、文字が乾くのを待つ。

その時、ふと明日の欄が目に入った。

そこには、まだ何も書かれていない。

空白だった。

私は少し考えてから、王妃陛下の言葉を書き込んだ。

午前十時。

隣国ヴァルツ公爵との儀典確認に同席。

その文字を見つめる。

アーヴィン・ヴァルツ公爵。

昨夜の予定変更の痕跡を見抜いた人。

けれど、破綻はなかったと書いた人。

あの夜を組み直した者に会ってみたい、と言った人。

私は予定表を閉じた。

ぱたん、という音は、昨日よりずっと軽く聞こえた。

王宮の廊下を歩きながら、私は初めて思った。

明日の予定が、少しだけ怖い。

でも、それと同じくらい。

少しだけ、待ち遠しかった。