作品タイトル不明
閣下、その問いは私の職務範囲外です
翌朝、王妃陛下秘書官室からの承認は、午前八時四十分に届いた。
封筒は薄い。
けれど、置かれた瞬間、日程室の空気が少しだけ重くなった。
ノエルが受付簿を開く。
「差出部署、王妃陛下秘書官室。件名、港湾警備費補足協議における同席者追加および導線変更確認。受付印あり。回議番号あり。封緘あり」
彼の声は、昨日よりさらに落ち着いていた。
ベネット卿が封緘を確認し、開封する。
私は自席で待つ。
先に見ない。
先に触れない。
その順序を守るだけで、胸の奥の震えが少しだけ小さくなる。
「承認だ」
ベネット卿が言った。
私は息を吸った。
「条件は」
「四つ」
彼は文書を読み上げる。
「第一。港湾警備費補足協議において、王宮儀典日程室統括官ベネットを日程室代表として同席させることを承認」
「第二。主任調整官代理リディア・クラウゼンは、資料作成者として補足者の立場で同席することを承認」
「第三。発言範囲は、提出済資料、配置意図、王族発言制限に関する日程室側根拠に限る。外交判断、婚約解消協議、王太子殿下に関する私的事項への応答は不可」
「第四。協議中に新たな導線変更、席次変更、発言順変更の提案があった場合、その場で確定せず、外務儀典局、王妃陛下秘書官室、王宮儀典日程室の三者確認へ戻すこと」
完璧だった。
逃げ場がないほど、正しい。
私を守るためだけではない。
場を守るための条件だった。
ベネット卿は文書を閉じる。
「これで今日の席は正式に動く」
「はい」
今日。
港湾警備費補足協議。
ヴァルツ公爵。
あの鋭い目の前で、私は資料作成者として説明する。
王太子殿下の代わりではない。
日程室の代表でもない。
補足者。
その言葉を何度も胸の中で繰り返す。
補足者。
補足者。
私の職務範囲は、紙の上ですでに決まっている。
「クラウゼン嬢」
ベネット卿が言った。
「怖いか」
私は少しだけ迷ってから、正直に答えた。
「はい」
「よろしい」
よろしい。
そう言われるとは思わなかった。
「怖いなら、勝手に踏み込まない。怖くないと思っている時の方が危ない」
「承知いたしました」
「今日、君の仕事は答えることではない」
私は顔を上げた。
「答えることでは、ないのですか」
「必要な範囲だけ補うことだ。問いのすべてに返答する必要はない」
問いのすべてに返答する必要はない。
それは、少し不思議な言葉だった。
私はずっと、問われたら答えなければならないと思っていた。
殿下に聞かれれば答える。
足りなければ補う。
困っていれば先に差し出す。
相手が望む答えを探して、紙の余白まで埋める。
けれど、それは仕事ではなかったのかもしれない。
「問いにも、正しい宛先がある」
ベネット卿は言った。
「君宛てでない問いは、受け取るな」
午前九時半。
外務儀典局から、協議室の座席表が届いた。
主卓。
外務儀典局長代理。
ヴァルツ公爵。
隣国随行書記官二名。
王妃陛下秘書官室、ミリア様。
日程室代表、ベネット卿。
補足者、リディア・クラウゼン。
記録席。
外務儀典局書記官。
王妃秘書官室書記官。
日程室控え席。
補足資料箱。
私の名前は、主卓の末席にあった。
補足者。
役職付き。
主任調整官代理。
正しい。
正しいはずなのに、胸の奥がまた少し狭くなる。
「主卓に座るのですね」
ノエルがぽつりと言った。
「資料作成者として、補足を求められた時に答えるためです」
「大丈夫ですか」
その問いに、私はすぐには答えられなかった。
大丈夫。
そう言えば簡単だ。
けれど、昨日ベネット卿に言われた。
疲れたなら、疲れたと把握しろ。
怖いなら、怖いと把握しろ。
「怖いです」
私は言った。
ノエルは真剣な顔で頷いた。
「では、記録があります」
「記録?」
「はい。発言範囲の承認文書があります。王妃陛下秘書官室の条件もあります。ベネット卿も同席されます」
彼は少しだけ照れたように続けた。
「怖い時は、記録を見ると少し戻れます」
昨日の彼の言葉だった。
怖かったですが、記録がありましたので。
私は小さく頷いた。
「そうですね」
午前十時。
協議室へ向かう前に、ベネット卿は私の手元を確認した。
補足資料。
承認文書の写し。
発言範囲確認票。
三者確認要件一覧。
港湾警備費導線図。
王族発言制限根拠表。
すべて写し。
原本は日程室保管。
持ち出す資料は、外務儀典局の貸出簿に登録済み。
ノエルが横で搬送簿を読み上げる。
「補足資料箱一点。封緘あり。搬送者、主任調整官代理リディア・クラウゼン。同行確認、日程室統括官ベネット。返却期限、本日正午」
「よろしい」
ベネット卿が頷く。
「行くぞ」
「はい」
日程室を出る。
廊下の空気は、朝より少し冷たかった。
通り過ぎる文官たちが、一瞬だけこちらを見る。
私ではなく、ベネット卿を見る者もいる。
私の手元の資料箱を見る者もいる。
噂は、もう王宮の中を歩いているのだろう。
旧専属調整官。
婚約解消協議中。
王太子府からの私信未受理。
公報から名前を外した女。
どれだけ正しい紙を出しても、噂は残る。
けれど、噂は決裁印を持たない。
私は資料箱を持つ手に、少しだけ力を込めた。
午前十時五分。
外務儀典局の協議室前に到着した。
扉の前には、外務儀典局の書記官が二名。
こちらの到着を確認し、貸出簿へ時刻を記入する。
「王宮儀典日程室、到着確認。資料箱一点、封緘確認」
「確認願います」
私は資料箱を机に置く。
書記官が封緘を確認し、番号を読み上げる。
「封緘番号、一三七。搬送簿と一致」
ベネット卿が頷いた。
「開封は協議室内、記録官立会いのもとで行う」
「承知しております」
厳格な照合の手続きを経て、扉が開いた。
協議室の中は、明るかった。
大きな窓から光が入り、磨かれた長卓の上にまっすぐ落ちている。
けれど、空気は柔らかくない。
外務儀典局長代理がすでに席にいた。
ミリア様もいる。
ヴァルツ公爵は、窓を背にして立っていた。
今日も、隣国の公爵はよく笑っているように見える。
けれど、その目は笑っていない。
「クラウゼン嬢」
彼が言った。
「今日も、実に正確な箱をお持ちだ」
私は礼をした。
「資料作成者として、必要な写しを持参いたしました」
「写し、ですか」
「原本は日程室保管規定に基づき、持ち出しておりません」
「なるほど。門番は、鍵束を外へ持ち出さない」
その言い方に、少しだけ背筋が冷える。
外務儀典局長代理が、穏やかに割って入った。
「閣下。本日の議題は、港湾警備費補足協議における導線と発言整理でございます」
「失礼。美しい箱を見ると、つい」
「箱の美しさは、本日の記録事項ではございません」
局長代理の声は柔らかい。
けれど、切れる。
ヴァルツ公爵は小さく笑った。
「承知した」
それぞれが主卓の指定された座席へ着き、手元の時計が定刻を指すのを静かに待つ。
張り詰めた沈黙が、部屋を満たしていく。
午前十時二十分。
協議が始まった。
外務儀典局書記官が開会時刻を記録する。
王妃秘書官室書記官が同席者を読み上げる。
外務儀典局長代理。
隣国公爵ヴァルツ。
王妃陛下秘書官室、ミリア。
王宮儀典日程室統括官、ベネット。
王宮儀典日程室主任調整官代理、リディア・クラウゼン。
資料作成者、補足者。
その言葉が議事録に入った。
私の名前が、正しい場所へ置かれる音がした。
資料箱は、記録官立会いのもとで開封された。
資料番号。
補足資料一、港湾警備費導線図。
補足資料二、王族発言制限根拠表。
補足資料三、三者確認要件一覧。
すべて照合。
外務儀典局長代理が口を開く。
「本日の確認事項は二点。第一に、港湾警備費補足協議における王族発言順。第二に、第二王子殿下の専門補足が代替発言と誤認されないための導線整理」
ヴァルツ公爵は椅子に深く座り、指先を軽く組んだ。
「つまり、王太子殿下の空白を、空白に見せないための技術ですな」
部屋の空気が少しだけ冷えた。
王太子殿下の空白。
その言葉は、鋭い。
けれど、完全に外れているわけでもない。
だからこそ危険だ。
外務儀典局長代理が答える。
「我が国では、王族の発言は役割に応じて整理されます。空白という表現は適切ではございません」
「では、役割の再配分」
「協議目的に応じた補足権限の整理でございます」
ヴァルツ公爵は楽しそうに目を細めた。
「言葉は大事だ」
「外交では、特に」
局長代理は微笑んだ。
この二人のやり取りは、剣の音がしない剣戟のようだった。
私は口を挟まない。
求められていない。
私の職務は、資料の補足。
意見ではない。
ヴァルツ公爵の視線が、こちらへ向いた。
「では、資料作成者に伺いたい」
来た。
胸の奥が小さく鳴る。
ベネット卿の視線が、横から静かに届く。
私は机上の発言範囲確認票へ目を落とした。
提出済資料。
配置意図。
王族発言制限に関する日程室側根拠。
それ以外は不可。
「はい。資料範囲内でお答えいたします」
ヴァルツ公爵は、わずかに笑った。
「第二王子殿下の発言を三回までとした根拠は」
資料範囲内。
答えてよい。
私は補足資料二を開いた。
「一会合における第二王子殿下の補足発言を三回までとした理由は、三点です」
声は震えなかった。
「第一に、王太子殿下の主発言権を形式上維持するため」
「第二に、第二王子殿下の専門補足が、王太子殿下の代替発言と誤認されることを防ぐため」
「第三に、三回を超える場合、その議題は専門分化していると判断し、外務儀典局長代理が議事整理を行うためです」
ヴァルツ公爵は聞いていた。
笑みを浮かべたまま。
「三回を超えた場合、第二王子殿下は黙るのですかな」
「いいえ」
私は答える。
「第二王子殿下が黙るのではなく、議題の扱いを変えます」
「扱いを」
「はい。第二王子殿下個人の発言量の問題として処理せず、議題が王族の一般応答範囲を超えたと判断します。その場合、外務儀典局長代理が議事を引き取り、必要に応じて専門協議へ分けます」
ヴァルツ公爵の指が、卓の上で一度だけ止まった。
「つまり、殿下を縛る鎖ではない」
その言葉。
昨日の復命書にあった言葉。
鎖。
私は答える前に、外務儀典局長代理を見た。
これは、昨日すでに局長代理が公式応答した言葉だ。
私が勝手に引き継いではいけない。
局長代理は小さく頷いた。
「答えてよろしい」
その許可を得てから、私は言った。
「鎖ではなく、判断基準です。発言者を縛るためではなく、議題の重さを測るためのものです」
ヴァルツ公爵は、今度こそ少し楽しそうに笑った。
「秤、ですか」
「その表現は、昨日の外務儀典局長代理の公式応答に基づきます」
私はすぐに付け加えた。
「日程室としては、記録上『判断基準』と表記いたします」
局長代理の口元が、ほんのわずか動いた。
褒められたのではない。
けれど、間違ってはいないのだと思った。
ヴァルツ公爵は椅子の背に身を預けた。
「では、別の問いを」
来る。
「クラウゼン嬢。あなた自身は、第二王子殿下が王太子殿下よりこの協議に適していると見ているのでは?」
その瞬間、空気が止まった。
私自身は。
個人的見解。
応答不可。
答えない。
私は発言範囲確認票へ視線を落とした。
「その問いは、私の職務範囲外です」
声は静かだった。
「私は資料作成者として、提出済資料の記載内容についてのみ補足いたします。王族の適性に関する評価は、日程室の回答事項ではございません」
ヴァルツ公爵の目が細くなる。
試されている。
でも、私は答えない。
答えないことが、今日の仕事だ。
ベネット卿が、私の斜め前から遮るように声を一段落とした。
「閣下。その問いは、外務儀典局または王妃陛下秘書官室の判断領域です。日程室の補足者へ向けるものではございません」
その硬い声が主卓の空気を割ったのを受け、上座にいたミリア様が、ヴァルツ公爵へまっすぐな視線を向けた。
離れた席から届くその声は、穏やかでありながら、部屋全体を圧する重さがあった。
「王族の適性評価は、本協議の議題ではありません。閣下、議事を戻しましょう」
三つの壁が立った。
私の前に。
私一人で立つ必要はなかった。
ヴァルツ公爵はしばらく黙り、それから小さく肩をすくめた。
「失礼。資料の切れ味が良いと、作成者の目も見たくなる」
外務儀典局長代理が即座に返す。
「作成者の目ではなく、資料の記載をご覧ください、閣下」
今度は、ヴァルツ公爵が笑った。
「本当に、この国の文官は門が多い」
「門が多い国ほど、侵入経路は少なくなります」
局長代理は穏やかだった。
私は、息をする。
少しだけ。
午前十一時。
協議は、港湾警備費の導線確認へ移った。
港湾警備費。
隣国使節団の船舶警備。
王宮側の儀礼導線。
王族の発言順。
費用負担の見え方。
どれも、私的感情の入り込む余地がないようでいて、少しのずれで外交上の意味を持つ。
ヴァルツ公爵は、港湾警備費の説明時に第二王子殿下が一度目の補足を行う配置について確認した。
「第一補足は、王太子殿下の主発言後、外務儀典局長代理が受けてからです」
私は導線図を示す。
「王太子殿下の発言直後に第二王子殿下が続くと、代替の印象が強くなります。局長代理が一度議題を受け直すことで、第二王子殿下の発言は王族間の補助ではなく、専門事項の補足として整理されます」
「ずいぶん細かい」
「印象は、外交上の観測になります」
これは、以前ミリア様が言った言葉だった。
私はすぐに付け足す。
「王妃陛下秘書官室の確認手順に基づく整理です」
ミリア様が頷いた。
「その通りです」
言葉には、出どころがある。
誰の言葉か。
どの部署の判断か。
そこを間違えると、また名前がずれる。
ヴァルツ公爵は、資料の該当箇所へ視線を落とした。
「第一補足、第三補足は局長代理が受ける。第二補足のみ、王太子殿下が頷く余地を残す」
「はい」
「なぜ第二だけ」
「王太子殿下が全く受けない場合、第二王子殿下の専門発言が王太子殿下から独立しすぎます。逆に全てを王太子殿下が受ける場合、第二王子殿下の専門性が王太子殿下の不足補填に見えます」
私は資料の線を指した。
「第二補足のみ王太子殿下が短く受けることで、主発言者としての位置を保ちつつ、専門部分は外務儀典局が管理する形になります」
ヴァルツ公爵は、少しの間黙った。
「なるほど」
その声には、感心とも警戒ともつかない響きがあった。
「あなたは、人を盤上の駒のように置く」
その言葉は、少しだけ刺さった。
私は答えるべきか迷った。
これは、資料への問いか。
個人への評価か。
判断に一瞬の空白が生まれる。
ベネット卿が、私より先に言った。
「閣下。人ではなく、職務を置いております」
低い声だった。
「クラウゼン嬢の資料は、人格ではなく、公務上の役割を配置したものです」
私は指先を軽く握った。
そうだ。
人ではない。
職務を置く。
名前を置くのではなく、役割を置く。
その役割に、必要な名前が入る。
ヴァルツ公爵はベネット卿を見た。
「あなたは、よい上司だ」
「本日の記録事項ではございません」
ベネット卿は即答した。
外務儀典局長代理が、咳払いを一つした。
笑いを隠したのかもしれない。
午前十一時四十分。
協議は終盤に入った。
外務儀典局長代理が確認事項をまとめる。
一、港湾警備費補足協議における王太子殿下の主発言権は維持。
二、第二王子殿下の補足発言は三回まで。
三、各補足の前後には外務儀典局長代理の受け直しを挟む。
四、三回を超える専門事項が発生した場合、その場で王族発言を継続させず、専門協議へ分離。
五、導線変更、席次変更、発言順変更は、その場で確定せず三者確認へ戻す。
ヴァルツ公爵は最後の項目で、少しだけ笑った。
「つまり、今日ここで私が何を提案しても、即答は得られない」
「必要な範囲の回答はいたします」
局長代理が言った。
「ただし、王族導線と発言順についての変更確定は、所定の手順を経ます」
「慎重だ」
「国境に近い話ほど、慎重になります」
「港も国境ですかな」
「港は、海に開いた門でございます」
局長代理の声は静かだった。
ヴァルツ公爵は、満足したように頷いた。
「よろしい。では、本日の整理を了承する」
記録官が、その一文を書き留める。
了承。
その二文字が、紙に落ちる音がした気がした。
午前十一時五十分。
協議は閉じられた。
資料はその場で照合され、再封緘された。
外務儀典局書記官が番号を読み上げる。
「封緘番号、一四二。資料箱一点。日程室返却予定、正午」
私は受領欄に署名しようとして、ベネット卿を見た。
「補足者の署名欄です」
「署名しなさい」
「はい」
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
今日は、その署名が少しだけ怖くなかった。
協議室を出る時、ヴァルツ公爵が声をかけてきた。
「クラウゼン嬢」
足を止める。
振り返る前に、ベネット卿が一歩だけ前へ出た。
「閣下。協議は終了しております」
「分かっている。公的な一言だ」
公的な一言。
その言葉は危うい。
外務儀典局長代理がすぐに言った。
「内容を確認します」
ヴァルツ公爵は笑った。
「本日の資料補足は、有用だった。隣国として、明日の協議を円滑に進める助けとなる」
局長代理が頷く。
「公式な評価として、復命書に記録いたします」
そこで終わるはずだった。
けれど、ヴァルツ公爵は続けた。
「ただし、クラウゼン嬢。あなたは、いずれ自分の門をどこへ向けるか考えることになる」
個人的な言葉。
すぐにベネット卿が遮った。
「閣下」
声は低かった。
ヴァルツ公爵は両手を軽く上げる。
「失礼。今のは記録不要だ」
「記録します」
外務儀典局長代理が言った。
空気が、ぴんと張った。
「隣国公爵閣下より、協議終了後、資料作成者個人の進路に触れる発言あり。日程室統括官より遮止。外務儀典局長代理より、私的発言としてではなく、接触境界の確認事項として記録。そう整理いたします」
ヴァルツ公爵は、少しだけ目を見開いた。
それから、ゆっくり笑った。
「徹底している」
「国境に近い話ほど、慎重になりますので」
局長代理は、先ほどと同じ言葉を返した。
私は何も言わなかった。
言わなくてよかった。
その言葉は、私に向けられた。
けれど、私が受け取る前に、組織が記録へ戻した。
正午。
日程室に戻り、資料箱を返却した。
ノエルが封緘番号を確認する。
「封緘番号、一四二。外務儀典局再封緘番号と一致。資料箱一点、返却確認」
「お願いします」
ノエルが受領印を押す。
ベネット卿が返却簿を確認し、頷いた。
「午前の処理は完了だ」
私は椅子に座った。
体が、少し遅れて疲れを思い出したようだった。
手が震えるほどではない。
けれど、肩が重い。
「昼食は」
ベネット卿が言う。
「不要です」
「必要だ」
予想通りの返答だった。
ノエルが、壁際の棚から文官携行食の小箱を取り出した。
無塩の硬餅。
乾燥果実。
水。
「クラウゼン様、机上の公文書を避けてあります」
「ありがとうございます」
私は予定表と資料控えから十分に離れた場所で、硬餅を少しずつ食べた。
味はほとんどない。
けれど、噛むたびに、自分がまだここにいることが分かる。
食べ終えた後、席を立つ。
水場で指先と口元を洗う。
麻布で水気を拭う。
机の上を小さな刷毛で払う。
その動作は、もう儀式のようになっている。
半分は書類のため。
半分は、私のため。
ここから先へ、古いものを持ち込まないため。
午後一時。
外務儀典局から、協議の復命書写しが届いた。
噂話ではない。
書記官の口頭報告でもない。
公式な紙。
私は受け取り、ベネット卿の確認後に読む。
港湾警備費補足協議。
開始時刻、午前十時二十分。
終了時刻、午前十一時五十分。
確認事項。
王族発言順。
第二王子殿下補足三回制限。
専門協議分離条件。
三者確認要件。
そして末尾。
隣国公爵閣下より、協議終了後、資料作成者個人の進路に触れる発言あり。
日程室統括官ベネット、遮止。
外務儀典局長代理、接触境界確認事項として記録。
今後、隣国使節団から資料作成者個人への進路、雇用、婚約、身分移動等に関する発言があった場合、外務儀典局長代理または日程室統括官が遮止し、王妃陛下秘書官室へ共有すること。
私は、その一文を見つめた。
進路。
雇用。
婚約。
身分移動。
私という人間が、また別の紙で扱われる可能性がある。
王太子殿下の隣ではなく。
隣国の評価の中で。
怖い。
けれど、今度は違う。
先に記録がある。
先に境界がある。
「問題は」
ベネット卿が尋ねた。
「ありません」
私は答える。
「ただ、共有先に王妃陛下秘書官室が入っていますが、法務官室は不要でしょうか」
ベネット卿の目が、少しだけ細くなった。
「理由は」
「進路、雇用、婚約、身分移動に関する発言が継続する場合、婚約解消協議中の貴族令嬢への外部接触として、法務上の確認対象になる可能性があります」
言いながら、自分でも驚いた。
怖いのに、考えられている。
怖いまま、必要な線を引けている。
ベネット卿は短く頷いた。
「妥当だ。追記要請を起案しなさい」
「はい」
私は外務儀典局宛てに短い追記要請を起案した。
進路、雇用、婚約、身分移動等に関する発言が反復または具体化した場合、王妃陛下秘書官室に加え、法務官室へも共有対象とすることを提案。
以上。
王宮儀典日程室統括官。
ベネット。
起案、実務担当。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
ベネット卿が確認し、決裁印を押す。
ノエルが封緘する。
搬送簿に記録する。
午後一時十八分。
外務儀典局宛て、復命書接触境界項目追記要請。
王妃陛下秘書官室宛て、同追記要請の写し。
王宮儀典日程室統括官名義。
起案、実務担当、主任調整官代理リディア・クラウゼン。
日程室統括官決裁済。
搬送者、ノエル。
紙が、また一つ境界を作る。
午後二時。
王妃陛下秘書官室から、本日の同席者追加および導線変更について、正式承認控えが届いた。
条件は、午前の承認と同じ。
日程室代表、ベネット。
補足者、リディア。
発言範囲限定。
個人的事項応答不可。
新規変更は三者確認へ戻す。
最後に一文。
午後一時十八分付、日程室発外務儀典局宛て追記要請の写しを受領。
本日の協議中に発生した隣国公爵による個人進路言及について、外務儀典局の正式復命書が回り次第、接触境界管理案件として秘書官室にて一元整理する。
もう届いている。
一時十八分にこちらが回した写しをもって、上層部がすでに動いている。
私が一人で考え続けなくても、紙が回っている。
「クラウゼン様」
ノエルが言った。
「また、欄を増やしますか」
私は少し笑いそうになった。
「どの欄ですか」
「外部使節団からの個人進路・雇用・婚約等の発言記録欄です」
「長いですね」
「はい。短くするなら、個人境界発言欄」
ベネット卿が口を挟んだ。
「採用」
ノエルがすぐにメモを取る。
「個人境界発言欄。発言者、発言内容の分類、遮止者、共有先、法務共有要否」
「よろしい」
私はそのやり取りを見ていた。
世界は、また細かくなる。
少しずつ、面倒になる。
けれど、その面倒さが、人を守る。
午後三時半。
外務儀典局から追記承認が届いた。
接触境界項目について、法務官室への共有条件を追加。
反復または具体化した場合、法務官室共有。
単発の牽制・比喩的発言については、外務儀典局および王妃秘書官室にて経過観察。
妥当な線だった。
全てを大げさに法務へ回せば、外交上の挑発になりかねない。
けれど、放置もしない。
観察。
共有。
反復時の法務移行。
線が引かれた。
夕刻。
私は予定表を開いた。
王妃秘書官室より同席者追加承認。
港湾警備費補足協議、出席。
資料箱貸出、返却確認済。
第二王子殿下補足三回制限、了承。
王族発言順、了承。
新規変更は三者確認へ戻すことで合意。
隣国公爵より資料作成者個人の進路に触れる発言あり。
日程室統括官遮止。
外務儀典局長代理、接触境界確認事項として記録。
法務官室共有条件、追記承認。
個人境界発言欄、受付簿へ追加予定。
一つずつ、完了の印をつける。
最後に、私的な覚え書きの欄へ書いた。
問いにも、正しい宛先がある。
羽根ペンを置く。
今日は、私はいくつか答えた。
三回制限の根拠。
導線の意味。
発言順の理由。
そして、答えなかった。
王族の適性。
私自身の評価。
私の進路。
答えないことは、逃げではなかった。
問いが私宛てではなかったからだ。
窓の外で、夕暮れが王宮の白い壁を薄く染めている。
ノエルが受付簿を閉じる。
ベネット卿が決裁印をしまう。
その音を聞きながら、私は深く息を吐いた。
名前は、正しい場所へ戻せる。
そして問いも、正しい宛先へ戻せる。
私は今日、少しだけそれを覚えた。