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作品タイトル不明

殿下、その功績欄に私の名前は置けません

翌朝、日程室に入ると、ノエルの机の上に新しい札が増えていた。

王太子府照会指定窓口。

その横に、もう一枚。

返却物確認済。

受付簿照合中。

昨日より、少しだけ札が増えている。

けれど、不思議と雑然とは見えなかった。

ノエルの机は、以前より整っていた。

余計な紙がない。

封筒の置き場。

未開封の置き場。

確認済みの置き場。

未受理物移送控えの置き場。

それぞれが、細い線で分けられている。

線が増えると、窮屈になる。

そう思っていた時期があった。

けれど、今は少し違う。

線があるから、迷わずに済むこともある。

線があるから、手が震えても、紙を置く場所だけは間違えずに済む。

「おはようございます、クラウゼン様」

ノエルが立ち上がった。

昨日より、声が落ち着いている。

「おはようございます」

私は彼の机を見て、少しだけ頷いた。

「置き場を増やしたのですね」

「はい。昨日、封入物一覧外の紙片が混入していたので、今後は『未受理移送物』の仮置き場を明確にしました」

「よい判断です」

ノエルは、少しだけほっとしたように見えた。

「ありがとうございます」

昨日、彼は王妃陛下秘書官室で、自分の処理が正しかったことを説明してきた。

受付簿を抱え、記録を示し、震えながらも言葉を選んだ。

その結果、処理は適正と確認された。

人は、たった一日で急に強くなるわけではない。

けれど、昨日より少しだけ、自分の立っている場所を信じられるようになることはある。

ノエルの机は、その証拠のように見えた。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿の声がした。

私は振り返る。

「おはようございます」

「おはようございます」

彼はいつものように、私の机ではなく、まず部屋全体を見た。

誰がどこにいるか。

どの書類がどこにあるか。

扉の近くに余計な封筒が置かれていないか。

その視線だけで、日程室の空気が少し締まる。

「昨日の慈善院視察について、王宮公報室から確認が入る」

「 公報室(こうほうしつ) 、ですか」

「そうだ。視察が予定通り完了したため、本日昼の公報に短い報告を載せるらしい」

私は予定表を開いた。

昨日の記録。

慈善院視察、予定通り完了。

属人的補填なし。

その文字を見るだけで、まだ胸の奥が少し熱くなる。

「日程室へ確認が来る理由は」

「昨日の過去書式貸出と手順確認が、公報文案に含まれている」

ベネット卿は一枚の通知を机に置いた。

差出は王宮公報室。

宛先は王宮儀典日程室。

件名。

慈善院視察公報文案における部署名および関係者名の確認。

関係者名。

その言葉で、指先が少しだけ冷えた。

「私の名前が、入っているのですか」

「その可能性がある」

ベネット卿は淡々と言った。

「だから確認する」

怒りではない。

焦りでもない。

ただ、処理すべき不備が来るかもしれないという声だった。

それが、ありがたかった。

私が動揺しても、上司が動揺しなければ、紙は処理できる。

「ノエル」

「はい」

「公報室からの封書が届いたら、通常の王宮内照会として受けろ。王太子府からではない。だが、王太子殿下に関する公報文案だ。私信混入の有無は確認する」

「承知いたしました」

「クラウゼン嬢」

「はい」

「君の名前が入っていた場合、すぐに感情で反応するな」

「……はい」

「名前を消したい、残したい、どちらも感情だ。まず、名前が置かれている場所が正しいかを見る」

名前が置かれている場所。

その言葉は、胸の奥に静かに落ちた。

セラフィーナ様の名前。

殿下の名前。

私の名前。

これまで何度も、名前は間違った場所に置かれてきた。

責任の欄。

原因の欄。

功績の欄。

慰めの宛名。

正しい場所に名前を置く。

ただそれだけのことが、どうしてこんなに難しいのだろう。

午前九時半。

公報室から封書が届いた。

持参したのは、公報室の若い女性書記官だった。

王太子府の者ではない。

ノエルは立ち上がり、受付簿を開く。

「確認いたします。差出部署は王宮公報室。件名、慈善院視察公報文案における部署名および関係者名確認。受付印あり。 回議(かいぎ) 番号あり。 封緘(ふうかん) あり」

「はい」

女性書記官は、少し緊張した顔で頷いた。

「持参者名をお願いします」

「王宮公報室書記官、エリナ・フォースです」

ノエルが記入する。

「主任調整官代理への口頭伝言はありますか」

「ありません。公報室としての文案確認のみです」

「承りました」

ノエルは封書を受け取る。

そして、まずベネット卿の机へ運んだ。

ベネット卿が封緘を確認し、開封する。

一枚目。

照会文。

二枚目。

公報文案。

三枚目。

掲載予定時刻。

本日正午。

公報文案の確認期限。

午前十時半。

短い。

時間がない。

けれど、公報はそういうものなのだろう。

出来事が終われば、すぐに王宮の廊下へ掲示される。

噂より先に、公式な紙を出すために。

ベネット卿は文案に目を通し、眉ひとつ動かさずに私へ渡した。

「確認しなさい」

「はい」

私は文案を受け取った。

慈善院視察、滞りなく終了。

昨日午後、王太子レオンハルト殿下は王都北区慈善院を訪問され、毛布、保存食、薬草茶、児童用筆記具を贈呈された。

同視察は、旧専属調整官リディア・クラウゼン嬢の助力により整えられ、殿下は児童代表の言葉に深く耳を傾けられた。

そこまで読んで、手が止まった。

旧専属調整官。

リディア・クラウゼン嬢の助力。

目が、その二つの言葉から離れない。

昨日、私は同行していない。

文案も作っていない。

贈答品も選んでいない。

挨拶順も、最終案は王太子府が作成した。

私は過去書式を貸し、手順を確認し、読み仮名の不備を返案しただけだ。

それなのに。

私の名前が、殿下の視察の功績欄に置かれている。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が言った。

「声に出して、問題点を述べなさい」

私は息を吸った。

「はい」

紙を置き、背筋を伸ばす。

「第一に、『旧専属調整官』という職名は、国王陛下の裁可により廃止された職枠を指すため、現在の公報に用いるべきではありません」

「続けて」

「第二に、私は本件視察の文案作成、贈答品選定、現場調整に関与しておりません。日程室として行ったのは、過去書式の貸出、手順確認、返案の起案です。したがって『リディア・クラウゼン嬢の助力により整えられ』という表現は、実態と異なります」

「第三は」

第三。

そこまで聞かれて、私は少しだけ言葉に詰まった。

第三は、感情に近い。

けれど、感情で終わらせてはいけない。

「第三に、婚約解消協議中かつ私的接触禁止令の対象者である私個人の名を、王太子殿下の公務成果に結びつけて公報へ載せることは、王家とクラウゼン伯爵家の協議状況について誤った外部観測を招きます」

ベネット卿は頷いた。

「妥当だ」

妥当。

その一言で、少しだけ呼吸が戻る。

公報室の女性書記官が、顔色を変えていた。

彼女は王太子府の者ではない。

ただ、渡された文案を確認に来ただけなのだろう。

「この文案は、公報室で作成されたものですか」

ベネット卿が尋ねる。

女性書記官は慌てて答えた。

「基礎文案は王太子府広報係より提出され、公報室で形式調整したものです」

「王太子府広報係」

ベネット卿の声が少し低くなる。

「旧専属調整官という表現を入れたのは」

「基礎文案の段階で、すでに入っておりました」

「なるほど」

なるほど、の声が冷たい。

私は文案の端を見た。

王太子府広報係。

確認印。

公報室形式調整印。

王太子府は、昨日の視察を「属人的補填なし」で終えた。

そのはずだった。

けれど、今日、公報の上で私の名前を戻そうとしている。

現場で頼れなかったから、紙の上で頼ったのか。

それとも、殿下の公務が無事に終わった理由を、また誰か一人の助力に押し込めようとしているのか。

分からない。

分からなくていい。

どちらにせよ、不備だ。

「修正期限は十時半か」

ベネット卿が言った。

「はい。正午公報に載せるためには、十時半までに関係部署の名義確認が必要です」

「では、その場で修正方針を出す」

彼は私を見た。

「クラウゼン嬢。起案しなさい」

「はい」

私は羽根ペンを取った。

日程室統括官名義として、公報文案の名義修正要請を起案する。

王宮公報室宛て。

慈善院視察公報文案について。

一、『旧専属調整官』の表記は、国王陛下裁可により当該職枠が廃止済みであるため使用不可。

二、主任調整官代理リディア・クラウゼン個人は、当該視察における文案作成、贈答品選定、現場調整に関与していない。

三、日程室の関与範囲は、過去書式の貸出、手順確認、返案起案および保管規定上の照合に限る。

四、婚約解消協議中かつ私的接触禁止令の対象者である個人名を、王太子殿下の公務成果と結びつけて公報へ掲載することは、外部観測上不適切。

したがって、当該文案より「旧専属調整官リディア・クラウゼン嬢の助力により整えられ」の一節を削除し、以下の文言へ差し替えられたし。

私は一度、筆を止めた。

差し替え文。

ここが重要だ。

誰の功績にするのか。

王太子府か。

日程室か。

王妃秘書官室か。

違う。

これは、誰かの功績を盛るための公報ではない。

公務が、規定通り終わったという報告だ。

私は続きを書いた。

差し替え案。

同視察は、王太子府儀典係による回議書作成、王宮儀典日程室による過去書式貸出および手順確認、王妃陛下秘書官室による導線確認のもと、予定通り実施された。

以上。

王宮儀典日程室統括官。

ベネット。

起案、実務担当。

王宮儀典日程室。

主任調整官代理。

リディア・クラウゼン。

書き終え、ベネット卿へ差し出す。

彼は上から下まで確認した。

公報室の書記官は、息を詰めるようにして待っている。

ベネット卿の羽根ペンが、一文の横で止まった。

個人名を、王太子殿下の公務成果と結びつけて公報へ掲載することは、外部観測上不適切。

「ここは残す」

「はい」

「もう少し柔らかくする必要はない。公報は外へ出る。誤解の芽は、出る前に摘む」

「承知いたしました」

彼は欄外に記す。

日程室確認済。

続いて、統括官の名義の下へ、公式な統括官決裁印を押した。

乾いた音が、紙の上に落ちる。

私個人の抗議ではない。

主任調整官代理が起案し、日程室統括官が発行責任を負う、王宮儀典日程室としての正式な名義修正要請。

私の名前は、王太子殿下の功績欄から外れた。

その代わり、起案者として、正しい場所に置かれた。

「これで返せ」

「はい」

ノエルが書類を受け取る。

封筒に入れ、封緘する。

搬送簿へ時刻を書く。

午前九時五十八分。

王宮公報室宛て慈善院視察公報文案、名義修正要請。

王宮儀典日程室統括官名義。

起案、実務担当、主任調整官代理リディア・クラウゼン。

日程室統括官決裁済。

搬送者、ノエル。

公報室の女性書記官が、深く礼をした。

「至急、持ち帰ります」

「公報室で再調整後、最終文案をこちらへ回すように」

ベネット卿が言う。

「承知いたしました」

彼女は急ぎ足で出ていった。

扉が閉まる。

私は、そこで初めて指先の冷たさに気づいた。

「座りなさい」

ベネット卿が言った。

「座っています」

「心が立っている」

昨日も聞いた言葉だ。

少しだけ、苦笑しそうになる。

「……はい」

私は予定表に視線を落とした。

名前は、触れられる。

本人がそこにいなくても。

声を聞かなくても。

手紙を読まなくても。

紙の上に置かれるだけで、人は引き戻されそうになる。

「クラウゼン様」

ノエルが少し迷ったように声をかけた。

「はい」

「公報に名前が載るのは、名誉なことではないのですか」

まっすぐな問いだった。

責めているのではない。

本当に分からないのだろう。

「名誉な場合もあります」

私は答えた。

「ですが、今回は違います」

「違う」

「はい。私は、その仕事をしていません。していない仕事の功績欄に名前が載れば、私が関与したことになります」

「関与していないのに」

「そうです」

私は自分の手元を見る。

「そして、私の名前が殿下の公務成果に並べば、周囲はこう見るかもしれません。クラウゼン嬢はまだ殿下を支えている。婚約解消協議は形だけなのではないか。私的接触禁止令は、実際には緩いのではないか」

ノエルの顔が強張った。

「そんな」

「そう見たい人は、そう見ます」

だから、公報は怖い。

私信より、ある意味で怖い。

私信は、閉じられた紙だ。

公報は、開かれた紙だ。

人の目に触れ、噂の形を決める。

「名前が載ることが、救いになる人もいます」

私は続けた。

「けれど、今の私にとっては、載らないことが守りになります」

ノエルは、静かに頷いた。

「では、消すのではなく、正しい場所に戻すのですね」

その言葉に、私は少しだけ目を見開いた。

「はい」

私が教えたことを、彼が別の形で返してくる。

止めるのではなく、戻す。

昨日、私が彼に言った言葉。

「名前も、同じです」

そう言うと、ノエルは受付簿の端を指で押さえた。

「では、今日の処理も、戻す仕事ですね」

「はい」

胸の奥が、少しだけ温かくなった。

午前十時二十分。

公報室から、修正文案が戻ってきた。

ノエルが受付し、ベネット卿へ回す。

封緘。

受付印。

回議番号。

すべて整っている。

ベネット卿が開封し、私に確認を許した。

私は文案を読む。

慈善院視察、滞りなく終了。

昨日午後、王太子レオンハルト殿下は王都北区慈善院を訪問され、毛布、保存食、薬草茶、児童用筆記具を贈呈された。

同視察は、王太子府儀典係による回議書作成、王宮儀典日程室による過去書式貸出および手順確認、王妃陛下秘書官室による導線確認のもと、予定通り実施された。

殿下は児童代表の言葉に耳を傾け、慈善院長より謝意が述べられた。

私の名前は、ない。

旧専属調整官という言葉も、ない。

「問題は」

ベネット卿が尋ねる。

私はもう一度、最初から最後まで読んだ。

公務としての事実。

部署ごとの関与範囲。

余計な飾りはない。

「問題ありません」

「よろしい」

ベネット卿は決裁欄に印を押した。

日程室確認済。

公報室掲載可。

午前十時二十三分。

期限まで、あと七分。

ノエルが封書を持って走りかけたので、ベネット卿が低く言った。

「走るな」

ノエルは足を止めた。

「失礼しました」

「急げ。だが走るな。紙が曲がる」

「はい」

ノエルは早足で出ていった。

七分あれば、南回廊を抜けて公報室の受付へ届く。

有能な搬送者は、時間を無駄にしない。

けれど、規律も崩さない。

扉が閉まる音を聞きながら、私はようやく息を吐いた。

正午。

王宮の中央廊下に、公報が掲示された。

私は見に行かなかった。

日程室に、公報室から掲載完了の写しが届いたからだ。

掲示されたものと同じ文面。

同じ印。

同じ時刻。

私はそれを確認し、予定表に記入した。

慈善院視察公報文案、名義修正済。

個人名削除。

部署関与範囲へ修正。

正午公報、掲載完了。

書き終えて、指が止まる。

個人名削除。

その文字だけを見ると、少し冷たい。

自分が消されたようにも見える。

けれど、違う。

私は消されたのではない。

不適切な場所から、名前を戻しただけだ。

「気になるなら、見てきてもいい」

ベネット卿が言った。

「何をでしょうか」

「公報だ」

私は少し考えた。

見たいような気もする。

見たくないような気もする。

廊下で誰かが読んでいるかもしれない。

王太子殿下の慈善院視察。

そこに私の名前がないことを、誰も気にしないかもしれない。

それでいい。

それがいい。

「写しがありますので」

私は答えた。

「十分です」

ベネット卿は短く頷いた。

「それでいい」

午後一時。

王妃陛下秘書官室から、短い通知が届いた。

慈善院視察公報文案について、王太子府広報係による旧職名および個人名記載を確認。

当該表現は、公報室にて修正済み。

王太子府へ、廃止済職名の使用禁止、および婚約解消協議中の個人名を王太子公務成果へ結びつける表現の使用禁止を通達。

通知は淡々としていた。

けれど、重い。

王太子府広報係へ、正式に注意が入った。

「また、注意ですね」

ノエルが小さく言った。

「はい」

「王太子府は、なぜ同じことを繰り返すのでしょう」

ベネット卿が答えた。

「同じことだと思っていないからだ」

ノエルが顔を上げる。

「昨日は私信。今日は公報。形が違う。だから本人たちは別のことだと思う」

「ですが、クラウゼン様へ近づく経路としては同じです」

「その通りだ」

ベネット卿の声は低い。

「だから、こちらは形ごとに止める。私信なら未受理。口頭伝言なら聞かない。公報なら名義修正。毎回、正しい処理をするしかない」

毎回。

その言葉に、少しだけ疲れを感じた。

一度線を引けば、終わりではない。

相手は別の隙間を探す。

あるいは、隙間を探している自覚すらなく、昔の癖で紙を差し込んでくる。

そのたびに、こちらは確認し、記録し、戻す。

「疲れた顔をするな」

ベネット卿が言った。

「まだ顔に出ていますか」

「ああ」

「申し訳ございません」

「謝るな。疲れたなら、疲れたと把握しろ」

「はい」

「そして、疲れている時ほど、一人で判断するな」

「承知いたしました」

疲れている時ほど、一人で判断しない。

昔の私は、逆だった。

疲れている時ほど、誰にも渡せず、一人で抱え込んでいた。

もう間違えない。

少なくとも、間違えたら戻れる場所がある。

午後二時。

外務儀典局から、別件の照会が入った。

明日の通商導線確認について。

隣国使節団との港湾警備費補足協議において、王宮儀典日程室より資料作成者の同席可否を確認されたし。

資料作成者。

私のことだ。

けれど、文面は正しい。

外務儀典局宛ての正式照会。

日程室への回議。

私個人への呼び出しではない。

ベネット卿が文面を確認し、私へ渡した。

「どう見る」

私は一行ずつ読む。

差出部署、外務儀典局。

宛先、王宮儀典日程室。

件名、港湾警備費補足協議における資料作成者同席可否。

目的、配置意図および王族発言制限に関する補足説明。

出席者、外務儀典局長代理、隣国公爵ヴァルツ閣下、王妃秘書官室、日程室代表。

日程室代表。

個人名は、本文にはない。

末尾の備考にだけ、資料作成者として私の名がある。

主任調整官代理リディア・クラウゼン。

役職付き。

正しい場所に置かれている。

「正式な職務照会です」

私は答えた。

「私的接触には該当しません」

「同席するか」

すぐには答えられなかった。

ヴァルツ公爵。

あの人の目を思い出す。

門番に向いている。

我が国には、あなたの手順を正当な国費で買う用意がある。

あの言葉は、優しさではなかった。

値踏みだった。

そして、今日の私は疲れている。

疲れている時ほど、一人で判断するな。

私はベネット卿を見た。

「判断をお願いしてもよろしいでしょうか」

ベネット卿の目が、少しだけ和らいだ気がした。

「それでいい」

短い言葉だった。

「出席自体は妥当だ。資料作成者として、君以上に説明できる者はいない。ただし、単独では出さない」

「はい」

「日程室代表は私。君は補足者として同席。発言は、求められた資料範囲に限る。ヴァルツ公爵から個人的な問いが出た場合、私または外務儀典局長代理が遮る」

「承知いたしました」

「起案しなさい」

「はい」

私は返答案を書いた。

外務儀典局宛て。

港湾警備費補足協議における資料作成者同席について。

王宮儀典日程室として、日程室統括官ベネットが代表出席。

主任調整官代理リディア・クラウゼンは、資料作成者として補足者の立場で同席。

発言範囲は、提出済資料の記載内容、配置意図、王族発言制限に関する日程室側根拠に限る。

個人的見解、婚約解消協議、王太子殿下に関する私的事項については応答不可。

本回答の効力は、王妃陛下秘書官室による導線変更および同席者追加の事前承認をもって発効するものとする。

以上。

王宮儀典日程室統括官。

ベネット。

起案、実務担当。

王宮儀典日程室。

主任調整官代理。

リディア・クラウゼン。

ベネット卿へ差し出す。

彼は確認し、統括官決裁印を押した。

「送れ」

「はい。外務儀典局への正本と同時に、王妃陛下秘書官室へ確認回議を回します」

ノエルが封緘する。

搬送簿へ記録する。

午後二時二十二分。

外務儀典局宛て、港湾警備費補足協議同席可否回答。

王妃陛下秘書官室宛て、同席者追加および導線変更確認回議書。

王宮儀典日程室統括官名義。

起案、実務担当、主任調整官代理リディア・クラウゼン。

日程室統括官決裁済。

搬送者、ノエル。

紙が出ていく。

正しい手順で。

けれど、まだ確定ではない。

外務儀典局が求め、日程室が条件を示し、王妃陛下秘書官室が導線と同席者の変更を承認して、初めて明日の席は動く。

疲れている時ほど、一人で判断しない。

その言葉が、紙の流れそのものになっていた。

午後三時半。

公報室から、王太子府広報係による修正受領確認が届いた。

短い文書だった。

公報文案修正、受領。

旧専属調整官表記の使用停止、承知。

今後、王太子殿下関連公報において、婚約解消協議中の個人名記載が必要となる場合、王妃陛下秘書官室および当該所属部署の確認を経る。

私はその最後の一文に、印をつけた。

また一つ、規定が増えた。

誰かが傷ついた後で。

誰かが怖い思いをした後で。

それでも、増えた。

「クラウゼン様」

ノエルが言った。

「今日の公報の件も、受付簿に項目を増やした方がよいでしょうか」

「どのように」

「王太子府由来の文案に、クラウゼン様個人名、または廃止済職名が含まれる場合の確認欄を」

私は少し考えた。

「よいと思います。ただし、私の名前だけに限定しない方がいいですね」

「と、申しますと」

「廃止済職名、旧役職、協議中の個人名、責任範囲外の功績記載。そうした表現全般を確認できる欄にしましょう」

ノエルはすぐにメモを取る。

「公報文案名義確認欄」

「はい」

「旧職名使用の有無。個人名記載の有無。関与範囲との一致。所属部署確認の有無」

「それでよいと思います」

彼の筆が走る。

昨日は、王太子府からの書類を受けるための受付簿だった。

今日は、公報文案の名義を確認する欄が増える。

世界は、少しずつ細かくなる。

その分だけ、誰か一人の曖昧な我慢に頼らなくて済む。

夕刻。

私は予定表を開いた。

王宮公報室より慈善院視察文案確認。

旧専属調整官表記、削除要請。

個人名功績記載、関与範囲不一致により削除。

部署関与範囲へ修正。

正午公報、掲載完了。

王太子府広報係へ使用禁止通達。

外務儀典局より明日の補足協議同席照会。

日程室代表ベネット卿、補足者リディア・クラウゼンとして条件付き回答。

王妃陛下秘書官室へ同席者追加および導線変更確認回議。

公報文案名義確認欄、受付簿へ追加予定。

一つずつ、完了の印をつける。

最後に、私的な覚え書きの欄へ、小さく書いた。

名前は、消すためではなく、正しい場所に戻すために扱う。

羽根ペンを置く。

窓の外では、夕暮れの光が静かに薄れていた。

今日、私の名前は一度、間違った場所に置かれた。

王太子殿下の公務成果の隣。

旧専属調整官という、もう存在しない職名の中。

そこは、私の場所ではなかった。

でも、別の紙では、正しい場所に置かれた。

王宮儀典日程室。

主任調整官代理。

資料作成者。

補足者。

まだ少し怖い。

正しい場所に名前が置かれることすら、怖いと思う自分がいる。

けれど、その怖さは、昔のものとは違っていた。

逃げたい怖さではない。

立つ場所を間違えたくないという怖さだ。

私は予定表を閉じた。

ノエルが受付簿を閉じる音が、隣で小さく響く。

ベネット卿の決裁印が、机の奥に戻される。

今日も、紙が動いた。

名前も動いた。

けれど、誰か一人の心を削って、無理やり通したわけではなかった。

名前は、正しい場所へ戻せる。

たぶん、私は今日、そのことを少しだけ信じられた。