軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

殿下、その「ついで」は未受理です

翌朝、王宮の空は晴れていた。

雲は薄い。

けれど、光はまだ弱い。

朝の石畳に落ちる影も、どこか遠慮がちだった。

私は日程室の扉の前で、一度だけ息を整えた。

今日の予定表には、赤い印が一つある。

正午。

王太子府より貸出写し返却期限。

昨日、ノエルが窓口として貸し出した、慈善院視察の過去書式。

返却期限は、今日の正午。

たったそれだけの予定だ。

けれど、私の胸は少しだけ硬かった。

書類は、戻ってくるまで仕事が終わらない。

人も、そうなのかもしれない。

押しつけられていたものを手放しても、それが正しい場所へ戻るまで、どこか落ち着かない。

扉を開けると、ノエルがすでに受付簿を開いていた。

「おはようございます、クラウゼン様」

「おはようございます」

彼の机の端には、昨日と同じ札がある。

王太子府照会指定窓口。

日程室職員ノエル。

その文字は、昨日より少しだけ馴染んで見えた。

「返却期限は正午ですね」

ノエルが言った。

「はい。期限前に戻れば、受領確認。期限を過ぎれば、督促照会です」

「督促照会の書式も用意してあります」

「早いですね」

「昨日、心臓が何度か止まりかけましたので」

真面目な顔でそう言われ、少しだけ笑いそうになった。

「止まった場合は、医療院への照会が必要になります」

「では、止めないようにします」

ノエルはそう言って、受付簿の端を整えた。

笑い話のようで、笑い話ではない。

彼は本当に怖かったのだ。

王太子府の書記官を相手に、指定時刻前の受け渡しを断った。

「殿下のご意向」を、正式な緊急照会書がないという理由で戻した。

それは、小さな処理に見える。

けれど、彼にとっては大きな一歩だったはずだ。

私が、かつて踏み出せなかった一歩。

「ノエル」

「はい」

「今日も、怖ければベネット卿を呼んでください」

ノエルは少しだけ目を丸くした。

「クラウゼン様ではなく、ですか」

「はい」

私は頷いた。

「私は、王太子府との直接窓口ではありません」

口にして、胸の奥が少しだけ痛んだ。

痛んだことに、私は驚かなかった。

線を引くことは、痛くないわけではない。

ただ、痛くても必要なだけだ。

ノエルはまっすぐに頷いた。

「承知いたしました」

午前九時。

王妃陛下秘書官室から、慈善院視察に関する最終確認の写しが届いた。

王太子殿下、本日午後三時より慈善院視察。

移動導線は王妃秘書官室確認済。

贈答品は王太子府儀典費より支出。

品目、数量、受領可能確認済。

公務変更には三者確認を要する。

私は一行ずつ確認した。

品目。

毛布三十枚。

保存食五箱。

薬草茶二箱。

児童用筆記具四十組。

昨日、確認した通りだった。

過剰なものはない。

余計な飾りもない。

「問題ありませんか」

ノエルが尋ねた。

「はい。少なくとも、現時点では」

現時点では。

その言い方が、自分でも少し冷たいと思った。

けれど、予定表は未来を保証しない。

ただ、未来が崩れた時に、どこで崩れたのかを見えるようにするだけだ。

午前十時。

外務儀典局から、昨日の 復命書(ふくめいしょ) の正式控えが保管用に回ってきた。

ヴァルツ公爵との儀典確認。

第二王子殿下の発言制限。

鎖ではなく、 秤(はかり) 。

その一文は、正式控えにも同じように残っていた。

私は、そこに触れないようにページをめくった。

昨日は、その言葉に救われたような気がした。

発言を縛るためではない。

重さを測るため。

そう考えれば、予定表も、規定も、受付簿も、ただ人を閉じ込めるものではなくなる。

通すべきものの重さを測るためのものになる。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が低く声をかけた。

「はい」

「その顔は、考えすぎている顔だ」

「……申し訳ございません」

「謝るな。戻れ」

「はい」

戻れ。

その一言で、私は紙面へ視線を戻した。

考えることは必要だ。

けれど、考え続けて手が止まるなら、それは仕事ではない。

私は復命書を保管簿に記録し、棚へ戻した。

午前十一時四十分。

王太子府の使者が来た。

昨日と同じ、エドガー・ランスだった。

彼は昨日より少し疲れた顔をしていた。

けれど、身なりは崩れていない。

封筒を両手で持ち、ノエルの机の前で礼をする。

「王太子府儀典係より、貸出写しの返却に参りました」

ノエルは受付簿を開いた。

「確認いたします。差出部署は王太子府儀典係。返却物、慈善院視察過去書式写し一式。返却期限内。持参者名をお願いします」

「エドガー・ランス」

ノエルが記入する。

「 封緘(ふうかん) を確認します」

封は閉じられている。

受付印もある。

回議(かいぎ) 番号もある。

ここまでは正しい。

ノエルは封筒を受け取り、すぐには開けなかった。

まず、ベネット卿の机へ運ぶ。

ベネット卿が封緘を確認し、開封する。

私は自席に座ったまま、手元の予定表から視線を上げなかった。

見たい。

けれど、見るべきではない。

直接窓口ではない私は、最初に触れない。

最初に見ない。

そう決めたのだから。

「写し一式、戻っている」

ベネット卿の声がした。

ノエルが一枚ずつ照合する音が続く。

紙の端が、静かに擦れる。

「一枚目、慈善院視察挨拶順。二枚目、贈答品一覧。三枚目、注意事項。四枚目、過去訪問時導線。すべて返却確認」

そこで、ノエルの声が止まった。

ほんの一瞬。

けれど、その沈黙は、日程室の空気を変えるには十分だった。

「どうした」

ベネット卿が尋ねた。

ノエルは、封筒の内側を見ていた。

「封入物一覧に記載のない紙片があります」

私の指先が、机の上で止まった。

紙片。

ベネット卿の声は揺れなかった。

「読むな」

「はい」

ノエルは即答した。

声は少し硬い。

けれど、崩れていない。

「形状は」

「小型の折り紙片。封緘なし。受付印なし。宛名は……」

ノエルはそこで止まった。

「読める範囲で、外側のみ」

ベネット卿が言う。

ノエルは紙片を机に置いたまま、外側だけを確認した。

「リディアへ、とあります」

音が、消えた気がした。

リディア。

その名前は、日程室の中に落ちた小さな石のように、静かに波紋を作った。

私は息を吸った。

吐く。

予定表を見る。

私の名前は、そこにはない。

いや、ある。

主任調整官代理としてある。

けれど、紙片に書かれた「リディア」は、違う。

殿下が呼んでいた名前だ。

予定の隙間に、当然のように差し込まれていた名前だ。

「未受理」

ベネット卿が言った。

「封入物一覧に記載なし。受付印なし。封緘なし。私的宛名あり。内容確認不要。王妃陛下秘書官室へ移送する」

「承知いたしました」

ノエルは紙片に触れる前に、薄い保護紙を取り出した。

直接、指で触れない。

紙片を保護紙ごと挟み、別の封筒へ入れる。

封筒の表に記録する。

封入物一覧外紙片、一点。

外側宛名、リディアへ。

内容未確認。

未受理。

王妃陛下秘書官室へ移送。

私は、その一連の動きを見ていた。

誰も、私に渡さない。

誰も、私に読ませない。

誰も、「どうしますか」と聞かない。

それが、こんなにも苦しくて、こんなにもありがたい。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が私を呼んだ。

「はい」

「触れるな。読むな。判断するな」

「承知いたしました」

「これは君宛ての紙ではない」

一瞬、意味が分からなかった。

外側には、リディアへ、と書かれていた。

けれど、ベネット卿は繰り返した。

「これは君宛てではない。手続きに載らなかった 異物(いぶつ) だ」

異物。

その言葉は冷たい。

けれど、その冷たさが、私を守った。

リディアへ。

そう書かれていても。

それが正しい経路を通っていないなら、私のものではない。

私が受け取る必要はない。

「はい」

声は、少しだけ遅れて出た。

「私宛てではありません」

言えた。

そのことに、私は自分で驚いた。

ノエルが移送用封筒を封緘する。

搬送簿に時刻を書く。

午前十一時四十七分。

王太子府貸出写し返却時、封入物一覧外紙片一点を確認。

未受理。

王妃陛下秘書官室へ移送。

搬送者、ノエル。

「行ってまいります」

「待て」

ベネット卿が言った。

ノエルが足を止める。

「王太子府の使者はまだいるか」

「はい。廊下で受領確認を待っています」

「戻って、こう伝えろ。貸出写し一式は返却確認済み。封入物一覧外紙片一点については、日程室では受領せず、王妃陛下秘書官室へ移送する。以上だ」

「承知いたしました」

「余計な説明はするな」

「はい」

ノエルは封書を持って出ていった。

扉が閉まる。

私は、ようやく息を吐いた。

吐いた息が、少し震えていた。

「座っていろ」

ベネット卿が言った。

「立っておりません」

「心がだ」

私は返事に困った。

ベネット卿は、いつもそうだ。

私が体を動かしていなくても、どこかへ走り出しかけていることを見抜く。

「……はい」

私は予定表に視線を戻した。

午前十一時四十七分。

封入物一覧外紙片。

未受理。

王妃陛下秘書官室へ移送。

記録すべきか、一瞬迷った。

私の予定表に書くべきことか。

私的接触の未遂。

王太子府照会窓口の処理。

日程室の業務記録としては、書く必要がある。

ただし、私個人の出来事としてではない。

私は新しい行を作った。

王太子府貸出写し返却、封入物一覧外紙片一点を確認。指定窓口にて未受理処理。王妃陛下秘書官室へ移送。

そこまで書いて、手が止まった。

リディアへ。

その文字は、私の頭の中にまだ残っている。

読んでいない。

内容は知らない。

それでも、外側の三文字だけで、昔の私が起き上がりかける。

殿下が何か言いたいのではないか。

困っているのではないか。

弁解したいのではないか。

謝りたいのではないか。

私が、受け取らないといけないのではないか。

違う。

私は羽根ペンを置き、指先を机の上でそっと開いた。

受け取らないことも、仕事になる。

昨日、書いた言葉を思い出す。

そして今日、それを本当に試されている。

時計の針が、正午を指す五分前。

廊下へ出ていたノエルが戻ってきた。

王太子府のエドガー・ランスへ、貸出写し一式の返却受領印を押した控えを手渡してきたという。

封入物一覧外紙片については、日程室では受領せず、王妃陛下秘書官室へ移送する旨だけを伝えた。

エドガーは青ざめた顔で礼をし、王太子府へ急ぎ戻ったらしい。

「慈善院視察の開始は午後三時だ」

ベネット卿が、冷徹に時計を見上げた。

「王太子府が正式な回議書を回し、外務儀典局と会計監査室の確認を通すための期限は、午後一時。それまでに修正書類が届かなければ、本日の視察公務は『手続き不備による延期』として上奏局へ自動報告される」

「……王太子府は、急ぐしかないのですね」

「自業自得だ」

正午。

貸出写しの返却確認は、 帳簿(ちょうぼ) 上、正式に完了した。

紙片の処理については、王妃秘書官室から受領通知が届いた。

封入物一覧外紙片一点、王妃秘書官室にて保管。

内容確認は、法務官室同席のもとで行う。

日程室および主任調整官代理への直接共有は不要。

私はその通知を読んで、静かに目を伏せた。

共有不要。

その四文字が、扉のようだった。

私が知らなくていいことがある。

知らされないことで、守られることがある。

昔の私は、何でも知っておかなければならないと思っていた。

殿下の予定。

殿下の機嫌。

殿下の言い訳。

殿下が誰に何を言われ、何に傷つき、何から逃げたがっているか。

全部、私が把握していなければいけないと思っていた。

把握して、整えて、先回りして、なかったことにする。

それが婚約者としての務めで、日程係としての責任だと思っていた。

けれど、本当は違った。

知りすぎることは、時に鎖になる。

午後一時。

期限の直前、慈善院視察の最終回議書が、王太子府から正式に回ってきた。

今度は、余計な紙片はなかった。

差出部署。

受付印。

回議番号。

封緘。

すべて整っている。

ノエルが受付簿に記入し、ベネット卿へ回す。

ベネット卿が開封し、私に確認を許可した。

「確認しなさい」

「はい」

私は回議書を受け取った。

挨拶順。

慈善院長。

年長児代表。

王宮医療院派遣治療官。

寄付管理役。

昨日、私が提案として記録した順になっていた。

ただし、文案は王太子府のものだ。

私が書いた言葉ではない。

少しぎこちない。

けれど、破綻はしていない。

贈答品一覧。

数量。

負担元。

搬入時刻。

受領確認者。

すべて記載あり。

封緘、受付印、回議番号、差出部署、負担元。

外側から確認できる書式に不備はなかった。

だから、ノエルが窓口で受領したのは正しい。

けれど、開封して中身を照合しなければ分からない不備が、一点だけ残されていた。

「問題は」

ベネット卿が尋ねる。

「一点だけ」

「言いなさい」

「年長児代表の氏名に、読み仮名がありません。殿下が読み違える可能性があります」

「戻すか」

「はい。ただし、文案全体を作り直させる必要はありません。氏名欄に読み仮名を追記し、王太子府側で再確認すれば足ります」

ベネット卿は、手元の回議書に目を落とした。

氏名欄。

空白の読み仮名欄。

それから、王太子府の確認印。

彼の目が、紙の上を冷たく進む。

「妥当だ」

短い一言だった。

「その内容で返案を起案しろ。文面を確認する」

「はい」

私は羽根ペンを取った。

日程室統括官名義として、王太子府への公式な返案を起案する。

王太子府宛て。

慈善院視察最終回議書について。

全体構成、贈答品、負担元に問題なし。

ただし、年長児代表氏名に読み仮名の記載なし。

王族による読み違い防止のため、王太子府にて正式確認のうえ追記されたし。

文案作成は王太子府の責任範囲とする。

以上。

起案者。

王宮儀典日程室。

主任調整官代理。

リディア・クラウゼン。

書き終えた紙を差し出すと、ベネット卿は文面を上から下まで確認した。

急がない。

けれど、遅くもない。

返案は、相手を責めるための紙ではない。

足りないものを、足りない場所へ戻すための紙だ。

ベネット卿の羽根ペンが、一行の横で止まる。

文案作成は王太子府の責任範囲とする。

「ここは残せ」

「よろしいのですか」

「ああ。君が作らないための線だ」

胸の奥が、静かに鳴った。

私が作らないための線。

それは、王太子府を突き放すためだけの文ではない。

私を、昔の場所へ戻さないための文でもある。

ベネット卿は、私の起案署名の横へ視線を落とした。

それから、欄外に小さく記す。

日程室確認済。

続けて、統括官決裁印を押した。

乾いた音が、紙の上に落ちる。

これで、私一人の返案ではない。

主任調整官代理が起案し、日程室統括官が確認し、日程室の名義で王太子府へ戻す正式な公文書になった。

「送れ」

「はい」

ノエルが書類を受け取り、封筒へ入れる。

封緘する。

搬送簿へ時刻を書く。

午後一時十二分。

王太子府宛て慈善院視察最終回議書、読み仮名追記要請。

起案者、主任調整官代理リディア・クラウゼン。

日程室統括官決裁済。

搬送者、ノエル。

小さな処理だ。

けれど、私はその小ささに救われた。

すべてを作り直さなくていい。

足りないところだけ、足りないと戻せばいい。

それが仕事だった。

午後二時。

王太子府から修正版が届いた。

年長児代表の名前に、読み仮名が追記されている。

筆跡は少し硬い。

けれど、丁寧だった。

私は確認し、問題なし、と記録した。

「通します」

「通せ」

ベネット卿が言う。

ノエルが封書を運ぶ。

紙が、正しい形で通っていく。

それだけのことが、昨日までの私にはできなかった。

いや、私一人ではできなかった。

午後二時半。

ノエルが、受付簿を抱えて私の前に立った。

「クラウゼン様。午前中の封入物一覧外紙片の件で、王妃陛下秘書官室より、指定窓口担当者としての事情確認を求められました」

「あなたが、ですか」

「はい」

一瞬、胸の奥がきゅっと狭くなる。

私を守るために立った門が、今度はその正当性を説明しに行く。

正しい。

正しいけれど、重い。

「怖いですか」

私が尋ねると、ノエルは少しだけ考えた。

「怖くないと言えば、嘘になります」

それから、彼は受付簿を抱え直した。

「ですが、記録があります。私は、記録通りに説明してまいります」

昨日より、声がまっすぐだった。

私は小さく頷いた。

「あなたは規定通りに動きました。余計なことを背負わず、記録にあることだけを話してください」

「はい」

ベネット卿も短く言った。

「怖ければ、秘書官室の場で私の名を出せ。必要なら私が出る」

「承知いたしました」

ノエルは深く礼をし、受付簿を抱えて日程室を出ていった。

その背中は、昨日より少しだけ大きく見えた。

午後三時。

王太子殿下の慈善院視察が始まった。

私は王宮にいる。

同行しない。

現場の調整は王太子府儀典係と王妃秘書官室が担当する。

日程室は、王宮側の待機と記録確認のみ。

ノエルは王妃陛下秘書官室にいる。

午前中の封入物一覧外紙片について、指定窓口としてどう処理したかを説明しているはずだった。

ここにいるのは、私とベネット卿。

だからこそ、机の上の時刻表が、いつもより少し静かに見えた。

午後三時。

到着。

午後三時十分。

慈善院長挨拶。

午後三時十五分。

年長児代表挨拶。

午後三時二十分。

贈答品目録確認。

午後三時三十分。

院内視察。

午後四時。

退院。

退院、という文字に少しだけ違和感を覚え、私はすぐに訂正した。

退出。

こういう小さな誤字を、以前なら殿下が見る前に私が直していた。

今日も、直す。

けれど、それは殿下のためだけではない。

記録のためだ。

午後三時二十分。

王妃秘書官室から第一報が届いた。

慈善院視察、予定通り開始。

到着遅延なし。

私的導線変更なし。

贈答品、受領確認済。

私はその紙を見つめた。

何も起きていない。

それが、こんなにも大きな報告になる。

「順調だな」

ベネット卿が言った。

「はい」

私は頷いた。

「何も起きていません」

本当に、よいことだった。

何も起きない。

誰も急に呼び出されない。

誰も走らない。

誰か一人が、予定表の余白に押し込まれない。

それが、こんなにも静かな勝利だと、私は知らなかった。

午後四時十分。

視察終了の速報が届いた。

王太子殿下、予定通り慈善院を退出。

年長児代表氏名、読み違いなし。

贈答品目録、相違なし。

私的発言、記録上なし。

公務変更なし。

私は、その一文を二度読んだ。

私的発言、記録上なし。

それはつまり、殿下が何も言わなかったということだ。

少なくとも、公務の場では。

「終わったな」

ベネット卿が言った。

「はい」

「君が作らなくても、終わった」

その言葉に、胸の奥が小さく鳴った。

痛いような。

軽いような。

「……はい」

私は答えた。

「終わりました」

嬉しい。

そう思っていいのか分からなかった。

寂しい、とは違う。

悔しい、でもない。

ただ、何かが静かに外れていくような感覚があった。

私がいなければ回らないと思っていたものが、私がいなくても回った。

それは、私が不要になったということではない。

私が壊れなくてもよかった、ということだ。

午後四時半。

王妃秘書官室から正式な復命書の写しが届いた。

慈善院視察、予定通り完了。

王太子府儀典係、挨拶順および贈答品目録を自局作成。

日程室は過去書式貸出および手順確認に留まる。

公務中の私的導線変更なし。

追加費用発生なし。

報告の末尾に、ミリア様の署名があった。

その下に、短い一文。

属人的補填なしで完了。

私は、その文字を見た瞬間、喉の奥が少し熱くなった。

属人的補填なし。

それは、ただの事務文言だ。

けれど、私には別の意味に聞こえた。

リディア・クラウゼンが削れなくても、終わった。

そう書かれているように思えた。

その少し後、ノエルが王妃秘書官室から戻ってきた。

受付簿を胸に抱えたまま、少しだけ疲れた顔をしている。

けれど、目は伏せていなかった。

「戻りました」

「お疲れさまです」

私は言った。

「大丈夫でしたか」

「はい」

ノエルは受付簿を机に置いた。

「記録通りに説明しました。封入物一覧に記載がなかったこと。封緘、受付印、宛名の形式に不備があったこと。内容を読まず、未受理として移送したこと。すべて、受付簿と搬送簿で確認されました」

「それで」

「王妃陛下秘書官室から、処理は適正との確認をいただきました」

その瞬間、胸の奥が少しだけ緩んだ。

ノエルが、自分の記録で、自分の処理を守った。

誰かの影に隠れたのではなく。

誰かの代わりに震えただけでもなく。

一人の職務者として、上層部に説明して戻ってきた。

「よかったです」

私が言うと、ノエルは少しだけ笑った。

「怖かったですが、記録がありましたので」

昨日、彼は「怖かったです」と言った。

今日は、「記録がありました」と言った。

それだけで、十分すぎるほどの変化だった。

夕刻。

王妃秘書官室から、午前中の封入物一覧外紙片について追加通知が届いた。

内容確認は法務官室同席のもとで実施。

記載内容は私的接触を求める文言と認定。

王太子府へ厳重注意。

日程室への共有は、本通知をもって終了。

該当紙片は証拠保全のため、王妃秘書官室にて保管。

内容の全文は添付されていなかった。

私は知らないままでいい。

そういう処理だった。

「読まなくていい」

ベネット卿が言った。

「はい」

「知りたいか」

私は少しだけ黙った。

嘘はつけなかった。

「少しだけ」

「そうか」

ベネット卿は責めなかった。

「知りたいと思うことと、知るべきことは違う」

「はい」

「君は今日、知るべきではないものを受け取らなかった」

その言葉は、静かに胸へ落ちた。

「それは仕事ですか」

私が尋ねると、ベネット卿は短く頷いた。

「仕事だ」

私は予定表を開いた。

今日の欄は、いつもより文字が多い。

王太子府貸出写し返却。

封入物一覧外紙片、未受理。

王妃秘書官室へ移送。

慈善院視察最終回議書、読み仮名追記要請。

王太子府修正版、確認済。

指定窓口処理、王妃秘書官室にて適正確認。

慈善院視察、予定通り完了。

属人的補填なし。

私は一つずつ、完了の印をつけた。

最後の一行で、羽根ペンが止まる。

属人的補填なし。

その言葉の横に、何かを書き足したくなった。

けれど、公的記録には余計な感情を入れてはいけない。

私は予定表の一番下、私的な覚え書きの欄にだけ、小さく書いた。

私が読まなくても、仕事は終わる。

羽根ペンを置いた。

窓の外では、夕暮れの光が王宮の壁を淡く染めていた。

今日は、殿下からの紙を読まなかった。

殿下の言葉を知らなかった。

殿下のために文案を作らなかった。

それでも、公務は終わった。

誰かが倒れることもなく。

誰かが走ることもなく。

誰かの心が、予定表の余白として削られることもなく。

私は机の上を整え、受付簿を閉じるノエルの手を見た。

昨日より、少しだけ震えていない。

門は、今日も開いた。

ただし、正しいものだけを通した。

私はそれを見届けて、静かに息を吐いた。

受け取らないことは、拒絶ではない。

守ることだ。

たぶん、私は今日、ようやくそれを信じ始めた。