軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

殿下、御前では言い訳も記録されます

翌朝の王宮は、静かだった。

静かすぎるほどだった。

人がいないわけではない。

むしろ、いつもより早くから文官も 侍従(じじゅう) も護衛騎士も動いていた。

けれど、誰も大きな声を出さない。

紙の擦れる音。

靴音。

扉の開閉。

低く交わされる確認。

その一つ一つが、王宮全体を細い糸で縛っているようだった。

午前九時。

王太子レオンハルト殿下、国王陛下 御前(ごぜん) にて説明。

私は、その場には出席しない。

王宮内待機。

記録作成者として、必要に応じて原本を提示する。

それが、今日の私の役割だった。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が、私の机の横に立った。

「原本束は」

「こちらです」

私は机の上に、三つの箱を並べた。

一つ目。

未処理請求(みしょりせいきゅう) の分類表。

二つ目。

王太子殿下の口頭 申告記録(しんこくきろく) 。

三つ目。

日程変更に伴う費用発生一覧。

それぞれに番号札をつけ、 貸出簿(かしだしぼ) も用意してある。

「写しではなく原本を求められた場合、貸出簿に時刻、案件番号、受取人を記録します」

「よろしい」

ベネット卿は箱を確認し、短く頷いた。

「君は今日、何をする」

「待機いたします」

「それだけか」

「必要に応じて、求められた原本を提示します」

「それだけか」

私は少しだけ息を吸った。

「御前説明の内容を想像しません。殿下の反応を気にしません。私に求められていない答弁を考えません」

ベネット卿は、そこで初めて少しだけ満足そうに目を細めた。

「よろしい」

「……難しいですね」

「難しいなら、なおさらやりなさい」

「はい」

御前説明の場は、 上奏局(じょうそうきょく) 奥の御前会議室だった。

国王陛下。

王妃陛下。

王太子レオンハルト殿下。

王妃陛下第一秘書官ミリア様。

会計監査室長。

副監査官クライン卿。

法務官室長(ほうむかんしつちょう) 。

外務儀典局長代理(がいむぎてんきょくちょうだいり) 。

王家財産管理局の局長。

そして、記録官。

名を並べるだけで、今回の件がどれほど重いか分かる。

私は、その隣室にいた。

小さな控え室。

机が一つ。

椅子が二つ。

水差し。

壁際の棚。

昨日の確認室よりも、さらに静かだった。

扉の向こうに、王宮の中枢がある。

けれど、私はそこへ入らない。

入るべきではない。

私の感情は、今日の議題ではない。

午前九時の鐘が鳴った。

遠く、重い音が王宮の石壁に沈んでいく。

私は、貸出簿の一行目に日付だけを書いた。

まだ、何も貸し出していない。

ただ、待つ。

それだけなのに、背筋が疲れる。

廊下を、複数の足音が通り過ぎた。

王太子殿下だろうか。

顔を上げそうになって、やめた。

見る必要はない。

見れば、余計なことを考える。

殿下の顔色。

歩き方。

こちらを見るかどうか。

そういうものを、私はずっと読みすぎてきた。

今日は読まない。

紙を見る。

箱を見る。

貸出簿を見る。

それが、私の仕事だ。

しばらくして、扉が開いた。

上奏局の書記官が一礼する。

「クラウゼン嬢。第三件の口頭申告記録、原本提示をお願いします」

「承知いたしました」

私は二つ目の箱を開いた。

第三件。

王立孤児院視察後の報告会欠席。

理由欄。

リュミエール男爵令嬢の 魔力熱(まりょくねつ) 悪化、見舞い要請。

訂正後。

リュミエール男爵令嬢の体調不良を記した 私信(ししん) を受けた、王太子殿下の個人的判断による欠席。

私は該当する原本を取り出し、番号札を確認した。

貸出簿に記す。

午前九時十二分。

第三件口頭申告記録原本。

上奏局書記官へ。

「こちらです」

「拝借します」

扉が閉まる。

また、静かになる。

私は、閉まった扉を見つめた。

第三件。

つまり、殿下はその件について、何かを言ったのだろう。

覚えていない。

違う。

セラフィーナが。

リディアが。

どの言葉だったのかは分からない。

分からなくていい。

原本が行った。

それが答える。

私ではなく、記録が答える。

それから、何度か扉が開いた。

第七件。

第十二件。

第二十一件。

第二十一件で、私は一瞬だけ手を止めた。

婚礼衣装の打ち合わせ。

私が、王太子妃になるための衣装を選ぶはずだった日。

殿下が、セラフィーナ様の不安を理由に途中退席した日。

あの時の記録も、今は御前へ行く。

私は指先に力を入れ、原本を取り出した。

「第二十一件、日程変更記録および費用発生控えです」

「お預かりします」

「貸出簿への署名をお願いします」

上奏局の書記官が署名する。

私はその文字を確認し、原本を渡した。

扉が閉まる。

胸の奥が、少し痛んだ。

でも、それだけだった。

あの日の私に戻りはしなかった。

午前十時を少し過ぎた頃、廊下の空気が変わった。

声が大きくなったわけではない。

誰かが走ったわけでもない。

けれど、控え室の外に立つ護衛の気配が、わずかに硬くなった。

私は手元の貸出簿を見た。

次に何を求められてもいいよう、箱の順番を整える。

扉が開く。

今度は、法務官室の書記官だった。

「クラウゼン嬢。一昨日夜の王太子殿下私信に関する、日程室側の受領経路記録はありますか」

「日程室側では受領しておりません。写しの確認主体は王妃陛下秘書官室です」

「日程室が当該私信を根拠に日程変更を行った事実は」

「ございません」

「その旨、補足書面として一筆いただけますか」

私は一瞬だけ、ベネット卿の言葉を思い出した。

求められた記録についてのみ、事実を述べる。

「承知いたしました」

私は白紙を取り、必要なことだけを書いた。

一昨日夜の王太子殿下私信について、日程室は受領していない。

当該私信を根拠とした日程変更処理は行っていない。

王妃陛下秘書官室より、翌朝、男爵家側が正式な事実確認要望を提出したとの共有を受けた。

以上。

それ以上は書かない。

殿下がなぜ送ったか。

セラフィーナ様がどう思ったか。

私がどう感じたか。

一切、不要だ。

私は署名し、時刻を入れた。

午前十時十一分。

「こちらです」

法務官室の書記官は内容を確認し、頷いた。

「確かに」

扉が閉まる。

私は羽根ペンを置いた。

今の一枚も、御前へ行く。

私の言葉ではない。

事実だけの紙。

それでも、紙は進む。

人の代わりに。

午前十一時前。

一度、原本がまとめて戻ってきた。

上奏局の書記官が、貸出簿へ返却時刻を記入する。

私は一枚ずつ確認した。

折れはない。

汚れはない。

順番も揃っている。

「すべて返却確認いたしました」

「ありがとうございます」

上奏局の書記官は礼をした。

けれど、その指先は、紙を受け取った時とは違っていた。

震えている。

ほんのわずかではない。

袖口の影で隠しきれないほど、はっきりと。

私は、思わず顔を上げそうになった。

だが、やめた。

尋ねるべきではない。

御前で何が語られたのかを、控え室の私が知る必要はない。

書記官は、私と目を合わせなかった。

いつもなら形式通りに交わされる会釈もなく、ただ足早に廊下へ戻っていく。

扉が閉まる。

その向こうの御前会議室は、不気味なほど静かだった。

分厚い大理石の壁。

三重の防音施錠が施された樫の扉。

王族と各部署の長が集う部屋の音は、外へ一切漏れない。

怒鳴り声も。

ため息も。

椅子を引く音さえも。

何も聞こえない。

だからこそ、その沈黙は重かった。

しばらくして、廊下の向こうを王太子府の上級書記官が通った。

顔色が白い。

まるで、魂だけを御前会議室に置いてきたような顔だった。

彼は私のいる控え室の前を通り過ぎる時、ほんの一瞬だけこちらを見た。

けれど、すぐに目を逸らした。

御前の中で何が起きているのか、私には分からない。

分かってはいけない。

けれど、原本を返しに来た書記官の震える指先と、王太子府上級書記官の血の気のない横顔が、十分すぎるほど物語っていた。

声が聞こえるよりも、無音の方が怖いことがある。

記録が突きつけられた御前で、今どれほど冷徹な確認が行われているのか。

その片鱗だけが、人の動揺となって、静かに廊下へ滲み出していた。

私は貸出簿の最後に、返却確認済み、と記した。

午前十一時半。

御前説明は、まだ終わらなかった。

長い。

予定では、午前中には終わるはずだった。

だが、議題は三つある。

未処理請求の国庫返還。

監査情報の私的伝達。

王太子府日程変更権限の一時制限。

一つだけでも、重い。

それが三つ。

しかも、相手は王太子殿下だ。

簡単に終わるはずがない。

私は、だんだんと減っていく水差しを見ながら、深く息を吸った。

昔の私なら、今ごろ何を考えていただろう。

殿下は大丈夫だろうか。

誰かが強く言いすぎていないだろうか。

私が行って、説明した方がいいのではないか。

あの時は仕方なかったのだと、少しでも柔らかく言ってあげた方がいいのではないか。

そんなことを、考えていたかもしれない。

けれど、今は違う。

大丈夫かどうかは、殿下が向き合うことだ。

説明するのも、殿下の役割だ。

私は、その役割を代わりに持たない。

持ってはいけない。

正午を知らせる鐘が、遠くで鳴った。

それから少しして、扉が開いた。

ベネット卿だった。

「終わりましたか」

「まだだ」

「まだ」

「国王陛下が、昼休憩を挟まず続行を命じられた」

胸の奥が、少し冷えた。

それはつまり、形式的な確認では済まなかったということだ。

「君はここで待機を続ける」

「承知いたしました」

「昼食は」

「不要です」

「必要だ」

ベネット卿は即答し、壁際の棚へ向かった。

そこには、上奏局の控え室に備え付けられている小さな木箱があった。

長時間の御前待機や、徹夜の書類処理を行う文官のための公式携行食。

中に入っているのは、油脂を抑えて硬く焼かれた無塩の硬餅と、乾燥果実が数粒。

汁もない。

匂いも立たない。

音もほとんどしない。

原本の近くで扱っても、紙を汚す危険が最小限に抑えられる、職務者のための乾いた食事だった。

「食べなさい」

「ですが」

「待機も仕事だ。原本を預かる者が体力を切らすな。仕事を続けるなら、食べなさい」

私は小さく息を吐いた。

「……はい」

私は原本の箱から十分に距離を取り、手元の布で指先を拭った。

それから、硬い携行食を少しずつ口に運ぶ。

味はほとんどしなかった。

菓子のような甘さもない。

温かさもない。

けれど、噛みしめているうちに、空っぽになりかけていた体の奥に、少しずつ力が戻ってくるのが分かった。

人は、乾いた現実を噛みしめると、少しだけ冷静に戻る。

私は水を一口だけ飲み、残りを木箱へ戻した。

そして、もう一度、原本の箱と貸出簿の位置を確認する。

紙は汚れていない。

順番も乱れていない。

私はまだ、待機できる。

午後一時を過ぎた頃、再び扉が開いた。

今度は、王家財産管理局の局員だった。

「クラウゼン嬢。第七件、第十二件、第二十一件の費用発生内訳について、王太子殿下の私費補填対象と王太子府儀典費戻し入れ対象の区分を確認したい」

「承知いたしました」

私は三つ目の箱を開いた。

費用発生一覧。

急配手当。

席次変更費。

贈答品追加分。

衣装商会への取消料。

外務儀典局内処理費。

それぞれに、赤と青の印がある。

赤は王太子殿下の私的判断に起因するもの。

青は王太子府の公式処理へ戻すもの。

黒は王宮内手続き再発防止対象。

「第七件は」

「第二王子府急配手当および贈答品追加分が、王太子殿下の私費補填対象です。外務儀典局内処理費は、王太子府儀典費より戻し入れとなります」

「根拠は」

「会計監査室の分類基準に基づきます。こちらが注記です」

私は該当箇所を示した。

局員は黙って確認し、写しを取る。

「第二十一件は」

その番号を聞いた瞬間、胸の奥が一度だけ小さく鳴った。

婚礼衣装の打ち合わせ。

私が、王太子妃になるための衣装を選ぶはずだった日。

けれど、私は顔を上げなかった。

「婚礼衣装商会への取消料について、当時の契約書上の署名主体は王太子府でございます」

私は、三つ目の箱から契約控えと会計監査室の公式基準書を取り出した。

「したがって、王宮会計規定第十四条に基づき、国庫から商会へは一括で支払われます」

局員は契約控えの署名欄を確認した。

王太子府。

王家財産管理局の受付印。

衣装商会の受領印。

そこに、クラウゼン伯爵家の署名はない。

「ただし、今朝の事実確認において、殿下の途中退席理由が『個人的判断』へ訂正されました。よって同規定の補填条項により、発生した取消料は王太子殿下の私費補填枠へ振り替えられる見込みです」

「クラウゼン伯爵家への費用補填照会は」

私はすぐには答えず、公式基準書の該当行を指した。

「契約主体ではない家門への照会は、契約上の連帯負担、または当該家門からの変更申請が確認された場合に限られます」

局員の視線が、基準書から契約控えへ移る。

「第二十一件において、クラウゼン伯爵家からの変更申請は」

「記録上、確認されておりません」

「連帯負担の署名は」

「ございません」

私は、契約控えの末尾を開いて示した。

局員は、そこをしばらく見た。

それから、自分の手元の照合票へ線を引いた。

「確認した」

その声は、私に同意したものではなかった。

書類と規定を照合した結果を、局員自身が確認した声だった。

「第二十一件。契約主体は王太子府。原因は王太子殿下の個人的判断。クラウゼン伯爵家は契約当事者ではなく、変更申請者でもない。よって、同家への費用補填照会は不要として記録する」

「はい」

「クラウゼン嬢、正確な原本提示に感謝する」

「職務でございます」

扉が閉まる。

私は、費用発生一覧と契約控えを箱へ戻した。

原本は軽い紙なのに、持つたびに重い。

たぶん、数字が乗っているからではない。

責任が乗っているからだ。

そして今日、その責任は、また一つ正しい場所へ戻された。

午後二時。

ようやく、御前説明が終わった。

廊下の空気が、大きく動いた。

扉が開く音。

複数の足音。

誰かの低い指示。

私は、立ち上がった。

控え室の扉は開かなかった。

呼ばれない。

それなら、動かない。

しばらくして、廊下を王太子殿下が通った。

護衛騎士。

王太子府の上級書記官。

法務官室の書記官。

さらに、王妃秘書官室の文官。

昨日より多い。

殿下の足取りは、朝よりも重かった。

顔は見えなかった。

私は扉越しに、その気配だけを感じた。

名前を呼ばれることはなかった。

それが、少し意外で。

少しだけ、ほっとした。

午後二時半。

ベネット卿が戻ってきた。

その手には、深い赤の 封蝋(ふうろう) がついた文書がある。

「国王陛下の 裁可(さいか) が下りた」

私は立ち上がった。

「内容は」

「日程室にも共有される。座りなさい」

私は椅子に座った。

ベネット卿が文書を開く。

声はいつも通りだった。

けれど、内容はいつも通りではなかった。

「第一。王太子レオンハルト殿下の単独による公務日程変更権限を、一時停止」

胸の奥が、静かに鳴った。

「期間は、王宮令見直し会議および貴族院への説明終了まで。以後、王太子殿下の公務変更は、王妃陛下秘書官室、外務儀典局、会計監査室の三者確認を必須とする」

私は息を止めた。

昨日までの王宮令より、さらに重い。

一時的な運用ではなく、国王陛下の裁可。

「第二。未処理請求に関する国庫返還手続きは、王家財産管理局預かりとする。殿下私費枠からの補填可否および額は、同局が算定し、国王陛下へ月次報告」

月ごとの小遣いから差し引くような話ではない。

王家財産管理局預かり。

国王陛下への月次報告。

殿下の財布ではなく、王家の管理下に入ったということだ。

「第三。監査情報の私的伝達については、法務官室にて王宮守秘令違反の可能性を正式審査。審査終了まで、王太子殿下の私的書簡のうち、公務、監査、王宮人事に関わる内容は、王妃陛下秘書官室の確認対象とする」

重い沈黙が落ちた。

私的書簡。

その言葉は、殿下にとって何より堪えるだろう。

自分の言葉を、もう自由に外へ出せない。

「第四。王太子府日程室における 属人的処理(ぞくじんてきしょり) の禁止を、恒久規定化する。単独職員による代替処理、費用負担元未確認のままの変更処理を禁ずる」

私は、自分の手を見た。

属人的処理。

私のしてきたこと。

それが、正式に禁止される。

「第五。王太子殿下における、特定の婚約者または個人を専属とする調整任務、およびその職枠を、本日付で正式に廃止する」

呼吸が、少し止まった。

私の名前は、そこにはなかった。

けれど、私が何年も置かれていた場所が、今、文書の上で消えた。

王太子殿下専属。

婚約者だから当然のように引き受けてきた調整。

誰も正式に命じていないのに、いつの間にか私の仕事になっていたもの。

それが、国王陛下の裁可によって、職枠ごと廃止された。

「第六」

ベネット卿は、ほんの少しだけ間を置いた。

「クラウゼン伯爵家より提出された婚約解消申入書について、王家は受理する。正式解消の可否および公表時期は、国王陛下、王妃陛下、クラウゼン伯爵家、貴族院の協議に付す。ただし、協議完了までの間、リディア・クラウゼンと王太子殿下の私的接触を禁ずる」

私は、膝の上で指を握った。

受理。

その二文字が、ようやく現実になった。

終わったわけではない。

まだ協議がある。

貴族院も、説明も、公表時期も残っている。

けれど、王家は受け取った。

なかったことにはされなかった。

「以上だ」

ベネット卿は、そこで国王陛下の裁可書を静かに閉じた。

私は、しばらく何も言えなかった。

嬉しい、とは違う。

晴れやか、とも違う。

ただ、長い廊下の先で、ようやく扉が一つ開いたような気がした。

その向こうに何があるかは分からない。

でも、ここに閉じ込められたままではない。

その時、ベネット卿はもう一枚の書面を取り出した。

深い赤の封蝋ではない。

青い紙。

王宮儀典日程室と、外務儀典局の連名印が押されている。

「そして、ここからは御前裁可ではない」

私は顔を上げた。

「我々の職務上の判断だ」

ベネット卿は、青い辞令書を私の前に滑らせた。

「王太子殿下専属の調整職枠が廃止されたことに伴い、王宮全体の儀典調整を担う主任職の補佐枠を新設する」

紙の上に、私の名があった。

リディア・クラウゼン。

「リディア・クラウゼン。王宮儀典日程室の統括者として、君を本日付で 主任調整官代理(しゅにんちょうせいかんだいり) に任用する」

文字ではなく、声で聞いた瞬間。

何かが、胸の奥で静かに落ちた。

「職務範囲は、王宮全体の儀典調整補助、隣国使節団対応、王族間公務導線調整。外務儀典局との連携業務を含む」

私は、青い紙を見つめた。

これは、国王陛下の憐れみではない。

王太子殿下から外された私への慰めでもない。

日程室と外務儀典局が、必要だから出した辞令だ。

私の仕事に対する、職務上の判断。

「受けますか」

ベネット卿が尋ねた。

命令ではなかった。

任用ではある。

けれど、そこには初めて、私の意思を確認する余地があった。

私は、ゆっくり息を吸った。

「お受けいたします」

声は、思ったよりもまっすぐ出た。

「職務として、務めます」

「よろしい」

ベネット卿は頷いた。

「では、写しが届き次第、日程室の職務表を更新しなさい。王太子殿下専属任務の欄を削除し、新たに王宮全体の儀典調整補助を入れる」

「はい」

ベネット卿は、手元の書類を整えた。

その音は、小さかった。

けれど、私の背筋を伸ばすには十分だった。

「なお、クラウゼン伯爵家への王家受理通知は、王宮上奏局から伯爵邸の戸主へ、正式な使者によって届けられる」

「父へ、でございますね」

「ああ」

ベネット卿は、私をまっすぐに見た。

「君は日程室の文官だ。職務中に、実家宛ての書類の受領、確認、進捗照会には一切関わるな」

胸の奥が、すっと引き締まった。

「……承知いたしました」

「これは冷たくしているのではない」

「はい」

「君とクラウゼン伯爵家を守るためだ」

その言葉に、私は少しだけ息を止めた。

「君がここで実家宛ての書類に触れれば、後から必ず言われる。クラウゼン嬢は職務上の立場を利用し、婚約解消手続きに自ら関与した、と」

「はい」

「だから、関わるな。家のことは、家が受ける。王宮の仕事は、君が受ける。その線を混ぜるな」

厳しい言葉だった。

けれど、そこには明確な防壁があった。

実家のことは、父がやる。

王宮の仕事は、私がやる。

その線を、ベネット卿は私より先に引いてくれている。

「失礼いたしました。公私の峻別を徹底いたします」

「よろしい」

ベネット卿は頷いた。

「それと」

「はい」

「今日は、感情の整理を仕事に混ぜるな」

私は少しだけ視線を落とした。

「……はい」

「よろしい」

その時、控え室の扉が軽く叩かれた。

「失礼いたします」

入ってきたのは、ユリウス殿下だった。

ベネット卿がすぐに立ち上がる。

私も礼をする。

「ユリウス殿下」

「楽にしてください。長居はしません」

ユリウス殿下は、いつもの穏やかな表情だった。

けれど、少し疲れているようにも見えた。

「兄上の件について、あなたに直接申し上げる立場にはありません」

「はい」

「ただ、一つだけ」

彼は、静かに言った。

「昨夜の席次は、役に立ちました」

その言葉だけで、十分だった。

「恐れ入ります」

「兄上を守った、という意味ではありません」

ユリウス殿下は続けた。

「場を守ったのです。王家の席を、王家の役割として保った」

私は、昨日自分が予定表に書いた言葉を思い出した。

席は、人を縛るためだけではない。

人に、役割を思い出させるためにもある。

「今後、王族間の公務導線調整で、あなたに負担をかけることになると思います」

「職務であれば、対応いたします」

「ええ」

ユリウス殿下は、少しだけ笑った。

「その返答が聞きたかった」

その穏やかな声に、ほんの少しだけ救われる。

頼まれることと、使われることは違う。

役割を渡されることと、押しつけられることも違う。

私は、まだその違いを学んでいる途中だ。

ユリウス殿下が去った後、ベネット卿が言った。

「妙な顔をしている」

「そうでしょうか」

「ああ」

「……仕事を頼まれることが、怖くないと思いました」

ベネット卿は、少しだけ黙った。

「それはいい変化だ」

「はい」

「だが、怖くないからといって、全部受けるな」

「……はい」

釘を刺すのが早い。

けれど、ありがたかった。

午後三時半。

私は日程室へ戻った。

机の上には、いつもの予定表がある。

けれど、そこに書くべき内容は、朝とは変わっていた。

王太子殿下専属調整。

その欄を、私は見つめる。

何年も、そこに自分を置いてきた。

殿下の隣。

殿下の予定。

殿下の都合。

殿下の感情。

殿下の失敗。

それらを、私の仕事の中心に置いてきた。

私は羽根ペンを持った。

黒線を引く。

ゆっくりと。

でも、迷わずに。

王太子殿下専属調整任務。

削除。

その下に、新しい欄を書く。

王宮儀典日程室 主任調整官代理。

王宮全体儀典調整補助。

隣国使節団対応。

王族間公務導線調整。

文字を書き終えた時、インクはすぐに乾き始めた。

私は、それをじっと見つめた。

消すための線ではない。

戻るための線でもない。

場所を変えるための線。

名前を、正しい場所へ置くための線。

「クラウゼン様」

ノエルが隣からそっと声をかけた。

「お茶を、お持ちしましょうか」

私は少しだけ驚いて、彼を見た。

以前なら、お茶など後回しだった。

仕事が終わってから。

全部片づいてから。

誰かが困っていないか確認してから。

そう思っていた。

けれど、今日は違う。

「お願いします」

そう答えると、ノエルは嬉しそうに頷いた。

「はい」

小さなことだ。

でも、私にとっては小さくなかった。

自分のために、お茶を頼む。

その程度のことにも、私は慣れていなかったのだ。

家にも、いずれ正式な書類が届く。

王家にも、記録が残る。

殿下にも、責任が届いた。

そして私にも、新しい辞令が届いた。

何かが一気に終わったわけではない。

むしろ、これから始まる手続きの方が多い。

婚約解消の正式協議。

貴族院への説明。

王太子府の権限見直し。

隣国使節団への追加対応。

ユリウス殿下の公務補助。

ヴァルツ公爵の視線。

問題はまだ山ほどある。

けれど、私はもう、王太子殿下の予定表の端に書き込まれた名前ではない。

私自身の職務欄がある。

それだけで、少し呼吸がしやすい。

夕刻の鐘が鳴った。

私は予定表を開く。

午前九時。

王太子殿下 御前説明。

王宮内待機。

原本提示対応。

午後二時半。

国王陛下裁可 通知受領。

主任調整官代理 辞令受領。

午後三時半。

職務表更新。

王太子殿下専属調整任務 削除。

王宮儀典日程室 主任調整官代理 任用。

その横に、私は小さく書いた。

完了。

そして、少し迷ってから、もう一行。

私の名前も、正しい場所へ戻す。

羽根ペンを置いた。

窓の外では、夕暮れの光が王宮の石壁を淡く染めている。

昨日より明るいわけではない。

すべてが解決したわけでもない。

それでも、私は席を立てた。

鞄の中には、持ち帰る書類はない。

ベネット卿が、部屋の入口で私を見た。

「今日は」

「帰ります」

私が先に言うと、ベネット卿は少しだけ眉を上げた。

「よろしい」

「明朝、職務表の写しを外務儀典局へ共有します」

「明朝でいい」

「はい」

私は礼をした。

日程室を出る。

廊下の向こうに、夜が少しずつ降りていた。

かつて、私は王太子殿下の隣に立つために、この廊下を歩いていた。

今は違う。

王宮の仕事をするために歩く。

そして、私自身の名前を、私自身の場所へ戻すために。

足音は、まだ少し硬い。

けれど、昨日よりまっすぐだった。