軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

殿下、その席はもう自由席ではありません

夕刻の王宮は、昼間とは違う顔をしていた。

廊下の窓には、沈みかけた光が薄く残っている。

磨かれた床に、燭台の火が小さく揺れていた。

昼の書類の匂いが、少しずつ晩餐の香りに変わっていく。

けれど、私の机の上には、まだ紙があった。

今夜の 晩餐(ばんさん) 席次。

隣国使節団(りんごくしせつだん) の最終 導線(どうせん) 。

王太子殿下周辺会話記録の補助配置。

王妃陛下秘書官室(おうひへいかひしょかんしつ) への共有控え。

私は、最後の確認印を押した。

「クラウゼン様」

ノエルが控えめに声をかけてくる。

「 外務儀典局(がいむぎてんきょく) より、晩餐会場の最終設営完了とのことです」

「分かりました。こちらも席次案の最終控えを持って向かいます」

「はい」

私は書類を揃え、席次表を一番上に置いた。

名前が並んでいる。

王太子レオンハルト殿下。

第二王子ユリウス殿下。

隣国大使夫妻。

アーヴィン・ヴァルツ公爵。

外務儀典局長代理。

文化局長。

東方商会代表。

港湾管理官。

そして、王妃陛下秘書官室の文官。

ただの名前ではない。

どの名前を、どこに置くか。

その一つで、会話の流れが変わる。

視線の向きが変わる。

逃げ道も、近道も、作れてしまう。

私は、王太子殿下の席の左右をもう一度見た。

右にはユリウス殿下。

左には王妃秘書官室の文官。

斜め向かいに外務儀典局長代理。

少し離れて、ヴァルツ公爵。

会話は届く。

けれど、私的な密談にはならない。

殿下が席を立てば、必ず誰かの目に入る。

殿下が話題を逸らせば、誰かが公務へ戻せる。

誰も殿下を縛ってはいない。

けれど、席が殿下を逃がさない。

「……よし」

小さく呟いて、私は席次表を革表紙の中に収めた。

午後六時前。

晩餐会場には、すでに灯りが入っていた。

長い卓の上に、銀器が等間隔に並んでいる。

白い布。

磨かれた杯。

季節の花。

壁際には、楽師たちが控えている。

一見すれば、華やかな外交晩餐。

けれど私には、その裏にある線が見えていた。

誰が、いつ入室するか。

誰が、誰へ最初に挨拶するか。

どの話題を、どの席で受けるか。

どの従者が、どの扉の近くに立つか。

華やかに見えるものほど、裏側は細かい。

一つずれれば、笑顔のまま場が崩れる。

「クラウゼン嬢」

外務儀典局長代理が、卓の端から声をかけた。

「席次表を」

「こちらです」

私は革表紙を開き、最終案を差し出した。

局長代理は目を通し、短く頷く。

「王太子殿下の周囲が、ずいぶん堅い」

「柔らかく見えるようには配置しました」

「見えるようには、か」

「はい」

局長代理の口元が、わずかに動いた。

「嫌いではない」

褒められたのか、確認されたのか、分からない。

私は礼だけ返した。

「ヴァルツ公爵との会話については、外務儀典局長代理の同席を必須としております」

「自分への線引きか」

「はい」

正直に答えた。

「公爵閣下は、私の職務範囲を越えた話題を投げてこられる可能性があります。私一人で受けるべきではありません」

「妥当だ」

局長代理は席次表を閉じた。

「自分が餌になりうると分かっている人間は、まだ使える」

餌。

ずいぶんな言い方だった。

けれど、否定はできなかった。

ヴァルツ公爵は、私を見ている。

同情ではなく、国益として。

ならば私は、自分が見られていることまで予定に入れなければならない。

「そのように扱われないための配置です」

「よろしい」

局長代理は、近くの書記官へ席次表の写しを渡した。

「最終配置、この通りに」

「はい」

会場が、音もなく動き始める。

椅子の角度。

杯の位置。

名札の向き。

従者の立ち位置。

一つずつ、整えられていく。

私はその様子を見ながら、少しだけ息を吸った。

これが仕事だ。

誰かの感情をなだめることではない。

場が壊れないように、必要な線を引くこと。

「リディア・クラウゼン嬢」

背後から、柔らかな声がした。

振り返ると、ユリウス殿下が立っていた。

深い紺の礼服。

兄である王太子殿下ほど華やかではない。

けれど、落ち着いた色がよく似合っている。

私は礼をした。

「ユリウス殿下」

「今夜の席次を確認しました」

「不都合がございましたでしょうか」

「いいえ」

ユリウス殿下は、少しだけ視線を卓へ向けた。

「兄上の隣に、僕がいる」

「はい」

「僕は、港湾通商の話題を受ければいいのですね」

一瞬、言葉に詰まりそうになった。

けれど、殿下は穏やかに続けた。

「兄上が私的な話題に流れそうになった時、僕が公的な話題を戻す。そういう配置でしょう」

隠す必要はない。

この方は分かっている。

「はい」

私は答えた。

「恐れながら、そのような意図もございます」

「分かりました」

ユリウス殿下は、軽く頷いた。

「今夜は、港湾使用料と海上警備費の話題を中心に拾います。大使夫人には神殿訪問の件を。ヴァルツ公爵には、あまりこちらから踏み込みすぎない」

「ありがとうございます」

「礼を言うのはこちらです」

そう言って、ユリウス殿下は静かに笑った。

「あなたの席次は、僕に仕事をくれる」

その言い方が、少し不思議だった。

「仕事、でございますか」

「ええ。王族の席には、飾りではなく役割があるべきですから」

胸の奥が、少しだけ温かくなった。

王族の席には、役割がある。

たぶん、そういう言葉を、私は聞きたかったのかもしれない。

王太子殿下の隣で、ずっと。

「心強く存じます」

私は深く礼をした。

「今夜は、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ」

ユリウス殿下は、短くそう言って、自分の控え位置へ向かった。

その背中を見送りながら、私は思う。

王族だから、許されるのではない。

王族だから、役割がある。

その違いを知っている人がいる。

それだけで、王宮はまだ壊れていないのだと思えた。

やがて、招待客たちが到着し始めた。

隣国大使夫妻。

ヴァルツ公爵。

商会代表。

文化局長。

港湾管理官。

名が呼ばれるたび、扉が開き、人が席へ案内される。

会場の空気が、少しずつ満ちていく。

最後に、王太子レオンハルト殿下が入室した。

護衛騎士二名。

王太子府上級書記官。

王妃秘書官室の文官。

予定通り。

殿下は会場を一通り見た。

一瞬だけ、私を見つけたようだった。

けれど、すぐに視線を逸らした。

私は礼をした。

それだけだった。

殿下は、定められた席へ案内される。

右にユリウス殿下。

左に王妃秘書官室の文官。

斜め向かいに外務儀典局長代理。

少し離れて、ヴァルツ公爵。

席が、人を置いた。

自由に見えて、自由ではない場所へ。

晩餐は、定刻通りに始まった。

王太子殿下は、冒頭の挨拶を述べた。

声は整っていた。

言葉も、間違ってはいない。

「今宵は、隣国との長き友好と、今後の通商発展を願い――」

その文言は、外務儀典局が整えたものだった。

殿下は読み上げる。

大使夫妻が微笑む。

楽師が静かに音を添える。

表面だけなら、何も乱れていない。

けれど私は、殿下の指先が杯に触れるたび、少しだけ力が入るのを見た。

まだ、落ち着いてはいない。

無理もない。

午後三時半、訂正原因欄の確認。

夕刻、国王陛下への上申。

そして、その直後の外交晩餐。

王太子殿下にとっては、長すぎる一日だろう。

けれど、公務は止まらない。

止められない。

私は壁際に控えながら、進行表を見た。

第一皿。

大使夫人への神殿訪問の礼。

港湾通商の話題は第二皿以降。

ヴァルツ公爵の発言位置は、主菜の前。

予定通り。

「本日の神殿訪問は、実に印象深いものでした」

大使夫人が微笑んだ。

「雨に当たることもなく、聖具搬入とも重ならず、たいへん穏やかに拝観できました」

外務儀典局長代理が微笑む。

「神殿側のご協力のおかげです」

そこで、ユリウス殿下が自然に言葉を受けた。

「大使夫人にご不便がなく、何よりです。昨日のうちに予備導線を確認しておいた甲斐がありました」

王太子殿下の視線が、ほんの少し動いた。

予備導線。

昨日のうちに。

その言葉に、何かを感じたのかもしれない。

けれど、ユリウス殿下は表情を変えない。

公的な話題として、自然に場を進める。

大使夫人は頷いた。

「細やかなご配慮に感謝いたします」

「配慮というより、準備です」

ユリウス殿下は穏やかに言った。

「準備が整っていれば、当日の判断を感情に頼らずに済みますから」

その言葉に、私は進行表を持つ指に力が入った。

偶然か。

意図してか。

分からない。

けれど、王太子殿下の横顔が、ほんの少し硬くなったのは見えた。

第二皿が運ばれる。

会話は港湾通商へ移った。

港の使用料。

海上警備。

商会の運搬権。

来年度の交易枠。

どれも、笑顔で扱うには重い話題だ。

ヴァルツ公爵が、静かに杯を置いた。

「港を開く時、最も揉めるのは入口ではありません」

彼の声は低く、よく通る。

「通した後の費用です」

港湾管理官が頷く。

「警備、人員、保管庫、検査官。すべて費用が発生します」

「ええ」

ヴァルツ公爵は、王太子殿下の方へ視線を向けた。

「だからこそ、費用の発生前に、誰が負担するのかを明記する必要がある」

一瞬、会場の空気が薄くなったように感じた。

王太子殿下の指先が止まる。

あまりにも、今日の言葉に近すぎた。

負担元。

発生前。

明記。

けれど、これは外交上も当然の話題だ。

誰も止められない。

ヴァルツ公爵は、穏やかに続けた。

「王太子殿下は、この点をどのようにお考えですか」

会話が、殿下へ渡された。

周囲が、静かに待つ。

殿下は一瞬だけ言葉に詰まった。

「それは……当然、両国の友好に基づき、柔軟に」

柔軟に。

その言葉が出た瞬間、私は胸の奥で小さく息を止めた。

ユリウス殿下が、すぐに微笑んだ。

「兄上の仰る柔軟さは、事前合意を前提としたものです」

自然だった。

あまりにも自然に、言葉を受け取った。

「負担元を曖昧にしたまま現場へ任せるのではなく、港湾管理官、商会、外務儀典局、そして会計側の四者で先に枠を定める。その上で、当日の増減に対応する余地を残す、という意味かと」

王太子殿下は、ユリウス殿下を見た。

助けられたことを理解した顔だった。

同時に、自分一人では答えられなかったことも、たぶん理解した。

大使が満足そうに頷く。

「それは現実的ですな」

ヴァルツ公爵の目が、細くなった。

「なるほど。王国には、よい受け皿がある」

受け皿。

その言葉は、ユリウス殿下へ向けられていた。

同時に、王太子殿下の空白を指してもいた。

殿下は何も言わなかった。

言えなかったのかもしれない。

晩餐は続く。

表面上は、和やかに。

けれど、私は席次表の意味が機能しているのを、はっきりと見ていた。

王太子殿下が言葉に詰まれば、ユリウス殿下が公務の言葉へ戻す。

ヴァルツ公爵が踏み込めば、外務儀典局長代理が会話の幅を調整する。

殿下が私的な話題へ逃げようとすれば、王妃秘書官室の文官が記録の筆を持ち直す。

誰も声を荒らげない。

誰も殿下を叱らない。

ただ、席が動く。

人が役割を果たす。

そして、場が崩れない。

第一の休憩に入った時だった。

王太子殿下が、席を立った。

従者が椅子を引く。

殿下は大使夫人へ一礼し、自然な足取りで会場の端へ向かう。

一見、ただの移動。

けれど、その先には私がいた。

私は進行表を持ったまま、動かなかった。

王妃秘書官室の文官が、すぐに半歩動く。

ユリウス殿下も、杯を置いた。

殿下は、私から数歩の距離で止まった。

「リディア」

その声は、晩餐前よりも低かった。

怒りよりも、焦りが濃い。

追い詰められた人間が、最後に掴めるものを探している声だった。

「少し話がある」

王妃秘書官室の文官が口を開く前に、殿下は早口で続けた。

「明日の 御前説明(ごぜんせつめい) のことだ。会計監査室の訂正案は、僕の単独判断が多すぎる」

胸の奥が、氷のように冷えていく。

「君が、当時の状況を補足してくれればいい。『やむを得ない公式事情の処理だった』と、一枚、上申書に添えてくれ。君の筆なら、父上も信じる」

一瞬、音が遠くなった。

この人は、まだ分かっていない。

明日、自分が国王陛下の前に立つその前夜に。

それでもなお、私を、都合よく書類を整える道具として見ている。

「殿下」

私は、進行表を胸元に抱え直した。

「私は記録作成者として、すでに事実のみを提出しております。職務を外れた 上申(じょうしん) の改変、または事実と異なる補足はいたしかねます」

殿下の顔が、絶望に歪んだ。

「リディア……君は、僕を見捨てるのか」

「本件については、担当者へお尋ねください」

「僕がどうなってもいいのか!」

その声が、少しだけ会場に響いた。

空気が止まりかける。

その瞬間、ユリウス殿下が近づいた。

「兄上」

声は穏やかだった。

けれど、逃がさない硬さがあった。

「大使が、先ほどの海上警備費の件で続きをお待ちです」

王太子殿下は、ユリウス殿下を睨むように見た。

「今、話している」

「晩餐中です」

ユリウス殿下は微笑んだままだった。

「兄上の席は、まだ空けておける時間ではありません」

席。

その一語が、殿下の足を止めた。

自由席ではない。

王太子殿下の席は、ただ座るための場所ではない。

置かれた役割だ。

殿下は、私を一度見た。

何かを言いかけて、やめた。

そして、ユリウス殿下とともに席へ戻っていった。

私は、そこでようやく指先の力を抜いた。

進行表の端が、少しだけ曲がっていた。

「クラウゼン嬢」

横から声がした。

外務儀典局長代理だった。

「今の処理は悪くない」

「ありがとうございます」

「ただ、次からは半歩早く文官を入れろ。殿下が君の名を呼び切る前に遮るべきだ」

「承知いたしました」

厳しい。

けれど、正しい。

名前を呼ばれること自体が、場に意味を作ってしまう。

リディア。

その音だけで、私は一瞬、職務者ではなく元婚約者に戻されかける。

それを防ぐのも、導線の仕事だ。

私は進行表の余白に小さく書いた。

王太子殿下、休憩時接触導線注意。

文官介入を半歩早く。

その時、視線を感じた。

少し離れた場所に、ヴァルツ公爵が立っていた。

外務儀典局長代理がいるため、彼は近づきすぎない。

けれど、目だけで十分だった。

彼は見ていた。

王太子殿下が、席を離れようとしたこと。

私が拒んだこと。

ユリウス殿下が戻したこと。

そして、この国が今、王太子殿下をどのように囲っているのか。

休憩が終わる少し前、ヴァルツ公爵が局長代理とともにこちらへ歩いてきた。

正式な距離。

正式な同席者。

問題はない。

「クラウゼン嬢」

「ヴァルツ公爵閣下」

私は礼をする。

「今夜の席次は、よくできています」

外務儀典局長代理が隣にいるためか、公爵の言葉は昨日よりも公的だった。

「恐れ入ります」

「特に、王太子殿下の周囲」

胸の奥が、わずかに硬くなる。

「公爵閣下」

外務儀典局長代理が、静かに牽制する。

ヴァルツ公爵は、薄く笑った。

「失礼。外交上の評価です」

「評価であっても、内政に踏み込みすぎる場合がございます」

「承知しています」

そう言いながら、彼の目は少しも退いていなかった。

「ただ、一つだけ。今日の配置は、誰かを閉じ込めるためだけではない」

私は顔を上げた。

「と、申しますと」

「場を壊させないためです」

ヴァルツ公爵は、静かに言った。

「そして、本人にこれ以上の失点を重ねさせないためでもある」

その言葉は、意外だった。

王太子殿下を守る。

そういう意味にも聞こえた。

だが、公爵の目は甘くない。

「壊れかけた門を放置すれば、外からは侵入しやすい。内側から補修している間は、我々も様子を見るしかない」

「様子見、でございますか」

外務儀典局長代理が、そこで一歩前に出た。

口元には笑みがある。

けれど、その目は笑っていなかった。

「我が国の門の堅牢さは、今夜の席次が証明しているはずですが、閣下」

ヴァルツ公爵の薄い青の目が、局長代理へ向く。

「ほう」

「優秀な受け皿も、歪みを逃がさない王宮令も、すでに稼働しております」

局長代理は、穏やかな声のまま続けた。

「我が国の補修作業にご関心をお持ちいただくのは光栄ですが、他国の門を値踏みするには、少々近すぎる距離かと存じます」

会場の空気が、わずかに張った。

ヴァルツ公爵は、しばらく局長代理を見ていた。

やがて、薄く笑う。

「失礼。内政に踏み込みすぎましたな」

「ご理解いただけて何よりです」

局長代理も笑った。

笑顔のまま、二人の間に見えない線が引かれた。

私は、そのやり取りを息を詰めて見ていた。

ヴァルツ公爵は強い。

けれど、王国側にも、ただ見られているだけではない人がいる。

外務儀典局長代理は、私に視線を向けた。

「クラウゼン嬢」

「はい」

「今の会話も、晩餐記録には不要だ」

「承知いたしました」

「ただし、配置意図は維持する」

「はい」

ヴァルツ公爵は、少しだけ楽しそうに目を細めた。

「よい局長代理をお持ちだ」

「我が国の職務者ですので」

私はそう答えた。

局長代理が、ほんのわずかに眉を上げる。

ヴァルツ公爵は、今度こそ声を立てずに笑った。

「よい返答です」

晩餐の後半は、大きな乱れなく進んだ。

王太子殿下は、必要以上に話さなかった。

ユリウス殿下が多くを拾い、外務儀典局長代理が整え、王妃秘書官室の文官が記録した。

ヴァルツ公爵は何度か鋭い問いを投げたが、私的な領域には踏み込まなかった。

東方商会代表は港湾税の話題を出しかけ、文化局長が劇場支援の話へ柔らかく流した。

席次は機能した。

誰も気づかないほど、静かに。

晩餐が終わったのは、夜の鐘が一つ鳴る少し前だった。

大使夫妻が退出し、使節団が続く。

王太子殿下は最後まで席を保った。

立ち上がる順番も、挨拶の順番も乱さなかった。

それが当然のことだと分かっているのに、私はどこかで小さく息を吐いた。

何も起きなかった。

それは、何もしなくてよかったという意味ではない。

何も起きないように、多くのものが動いていたという意味だ。

会場の片付けが始まる。

私は外務儀典局長代理へ最終記録を渡した。

「晩餐進行、予定通り完了いたしました」

「確認した」

局長代理は記録に目を通す。

「休憩時の王太子殿下の接触未遂については、簡潔に記録しておけ」

「はい」

「感情は書くな」

「事実のみ記載します」

「よろしい」

私は別紙に記した。

第一休憩時、王太子殿下が進行補助中のクラウゼン嬢へ接近。

王妃秘書官室文官および第二王子殿下により、晩餐進行上の席へ復帰。

私的会話なし。

短い。

けれど、十分だった。

事実は、長く書けば強くなるわけではない。

正しい場所に、必要な分だけ置く。

それが、今の私にできることだった。

日程室へ戻る頃には、夜が王宮の窓に沈んでいた。

机の上には、昼間より少し少ない書類。

けれど、最後に一通だけ、新しい封書が置かれていた。

黒ではない。

白でもない。

深い赤の封蝋。

王宮上奏局の印。

私は、手を止めた。

「クラウゼン様」

ノエルが小声で言う。

「先ほど届きました。王妃陛下秘書官室経由です」

ベネット卿も、すでに封書を見ていた。

「開けなさい」

「はい」

私は封を切った。

中の文面は、短い。

明朝九時。

王太子レオンハルト殿下、国王陛下御前にて説明。

議題。

未処理請求に関する国庫返還手続き。

監査情報の私的伝達に関する王宮守秘令違反の疑い。

王太子府日程変更権限の一時制限。

関係資料。

会計監査室提出済み。

王妃陛下秘書官室提出済み。

外務儀典局提出済み。

クラウゼン嬢の追加出席は不要。

ただし、記録作成者として王宮内待機。

私は最後の一文を、しばらく見つめた。

追加出席は不要。

ただし、王宮内待機。

また、待機。

けれど、今度は少し違う。

私は前に出る必要はない。

書類が、すでに行っている。

記録が、すでに届いている。

私が泣かなくても。

私が叫ばなくても。

私が殿下を責めなくても。

紙が、明日の御前へ運ばれていく。

「クラウゼン嬢」

ベネット卿が言った。

「今日の仕事は終わりだ」

「ですが、明日の待機準備を」

「明日の朝でいい」

「しかし」

「今夜は帰りなさい」

その言葉に、私は思わず顔を上げた。

ベネット卿は、少しも譲る顔をしていなかった。

「制度は、人の献身で回すものではない」

また、その言葉。

私は、少しだけ笑いそうになった。

「はい」

「鞄の中を見せなさい」

「……また、でございますか」

「また、だ」

私は観念して、鞄を開いた。

ベネット卿は中を確認し、晩餐席次の控えを一部抜き取った。

「これは置いていけ」

「明朝、確認しようと思っておりました」

「明朝、日程室で確認しなさい」

「……はい」

私は鞄を閉じた。

今日は、持ち帰らない。

仕事も。

殿下の言葉も。

私の感情も。

すべてをうまく置いて帰ることは、まだできないかもしれない。

けれど、少なくとも書類は置いていく。

それが、今日の線だった。

予定表を開く。

私の今日の欄。

晩餐席次最終確認。

王太子殿下訂正原因欄確認。

晩餐進行補助。

王宮上奏局より御前説明通知。

その横に、私は小さく書いた。

完了。

そして、少し迷ってから、もう一行。

席は、人を縛るためだけではない。

人に、役割を思い出させるためにもある。

羽根ペンを置いた。

窓の外では、夜の王宮が静かに沈んでいる。

明朝、王太子殿下は国王陛下の前に立つ。

私は、その場にはいない。

けれど、私が書いた記録は行く。

席次も。

原因欄も。

私信の写しも。

すべて、正しい場所へ。

私は灯りを消し、日程室を出た。

廊下には、夜の冷たい空気が流れている。

今日、王太子殿下の席は動かなかった。

明日、殿下の立つ場所は、もっと狭くなる。

そう思っても、胸は晴れなかった。

ただ、少しだけ。

呼吸は、しやすかった。