作品タイトル不明
その予定表は、もう殿下だけのものではありません
翌朝、私はいつもより少し早く王宮へ着いた。
空は薄く曇っていた。
雨が降るほどではない。
けれど、晴れたと言い切るには、少し重い。
王宮の石畳は、夜の冷えをまだ残している。
靴音が、昨日より少しだけはっきり響いた。
鞄の中には、書類は入っていない。
昨日、持ち帰らなかったからだ。
その軽さが、まだ少し不安だった。
忘れ物をしているような気がする。
けれど、そうではない。
置いて帰るべきものを、置いて帰っただけ。
私は日程室の扉の前で、一度だけ息を整えた。
王宮儀典日程室。
昨日までと同じ扉。
同じ廊下。
同じ朝の匂い。
でも、私の職務欄は、もう同じではない。
扉を開けると、ノエルがすでに机を整えていた。
「おはようございます、クラウゼン様」
「おはようございます」
彼は一瞬、私の机の上を見て、それから少しだけ嬉しそうにした。
「本当に、書類をお持ち帰りにならなかったのですね」
「……確認しなくてもよろしいです」
「失礼いたしました」
謝りながらも、ノエルの顔は少し明るい。
私が仕事を持ち帰らなかったことが、そんなに珍しいのか。
珍しいのだろう。
私自身でも、まだ慣れていない。
机の上には、昨日の青い辞令書の写しが置かれていた。
王宮儀典日程室。
外務儀典局。
二つの連名印。
そして、私の名前。
リディア・クラウゼン。
主任調整官代理。
私は椅子に座り、予定表を開いた。
昨日、書き換えた職務欄の文字は、もう完全に乾いている。
王太子殿下専属調整任務。
削除。
その下に、新しい欄。
王宮全体儀典調整補助。
隣国使節団対応。
王族間公務導線調整。
私はその文字を、指先でなぞらなかった。
触れれば、まだ夢のように消えてしまいそうだったから。
「クラウゼン嬢」
低い声がして、私は顔を上げた。
ベネット卿が、入口に立っていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
「鞄は」
「書類は入っておりません」
「よろしい」
朝の挨拶より先に鞄の中身を確認されるようになった。
少しだけ、笑いそうになる。
けれど、ベネット卿の顔はいつも通り真面目だった。
「今日は、まず職務表の写しを外務儀典局へ共有する」
「はい」
「その後、午前十時から王族間公務導線の初回確認だ」
「出席者は」
「日程室、外務儀典局、王妃陛下秘書官室、第二王子府」
第二王子府。
私は羽根ペンを持つ手を止めた。
「王太子府は」
「出席しない」
少しだけ、空気が変わった気がした。
ベネット卿は淡々と続ける。
「王太子殿下の公務変更権限は一時停止中だ。王太子府は当面、変更権限を持たない。照会は受けるが、調整主体には入れない」
「承知いたしました」
「この線を間違えるな」
「はい」
「王太子府を排除するのではない。権限を持たない部署として扱う」
その違いは大きい。
排除すれば、感情になる。
権限に従えば、手続きになる。
「記録上は、どのように」
「王太子府より参考資料提出あり。調整主体ではない。そう記せ」
「承知いたしました」
私は予定表に書き込んだ。
午前十時。
王族間公務導線 初回確認。
出席。
日程室。
外務儀典局。
王妃陛下秘書官室。
第二王子府。
王太子府は参考資料提出のみ。
文字にすると、昨日までとはっきり違った。
王太子殿下の名が、中心にない。
それだけで、予定表の重心が変わる。
「それから」
ベネット卿は、一枚の封書を机に置いた。
白ではない。
青でもない。
薄い灰色の公用封筒。
外務儀典局の印がある。
「ヴァルツ公爵から、正式な儀典照会が入った」
胸の奥が、少しだけ硬くなる。
「私宛て、でしょうか」
「違う」
ベネット卿は即答した。
「外務儀典局宛てだ。内容に、君の作成した晩餐席次と導線案について確認したい項目が含まれている」
「承知いたしました」
「君が直接返答する必要はない。外務儀典局長代理が受ける。君は資料作成者として、必要な範囲で補足を出す」
「はい」
その線引きがありがたかった。
ヴァルツ公爵は、危険な人だ。
私を見てくる。
ただの令嬢としてではなく、職務者として。
そして、国益として。
だからこそ、私一人で受けてはいけない。
「補足資料は、午前中の会議後でよろしいでしょうか」
「それでいい」
ベネット卿は頷いた。
「優先順位は王族間公務導線だ。隣国への回答は、外務儀典局が時間を稼ぐ」
時間を稼ぐ。
その言い方が、妙に現実的だった。
外交とは、華やかな言葉の裏で、時間をどう使うかでもある。
「承知いたしました」
ノエルが、職務表の写しを持ってきた。
「クラウゼン様、外務儀典局へ共有する分です」
「ありがとうございます。封緘前に確認します」
私は一枚ずつ目を通した。
名前。
役職。
職務範囲。
連携部署。
決裁欄。
誤字はない。
不要な感情もない。
ただ、私の新しい位置が記されている。
「問題ありません」
「封緘します」
ノエルが書類を封じる。
その手つきは昨日より少し慎重だった。
「緊張していますか」
私が尋ねると、彼は小さく肩を揺らした。
「少しだけ」
「なぜ」
「クラウゼン様の新しい職務表ですので」
その答えに、私は少しだけ言葉を失った。
私の新しい職務表。
私より先に、周囲の方がその重みを感じているのかもしれない。
「ただの写しです」
「ただの写しではありません」
ノエルは真面目に言った。
「この写しで、外務儀典局がクラウゼン様を正式な連携相手として扱います」
その通りだった。
紙一枚で、人の立場は変わる。
恐ろしいほど簡単に。
だからこそ、その紙は正しくなければならない。
「お願いします」
「はい」
ノエルは封書を持って出ていった。
扉が閉まる。
私は少しだけ息を吐いた。
まだ朝だ。
それなのに、もう一日分働いた気がする。
「疲れるのが早いな」
ベネット卿が言った。
「顔に出ていましたか」
「ああ」
「申し訳ございません」
「謝るな。把握しろ」
「……はい」
疲れたことを、謝らない。
それもまた、慣れない。
午前十時。
王族間公務導線の初回確認は、日程室の小会議室で行われた。
広すぎない部屋。
窓はあるが、外から中は見えない。
机の上には、王族公務の今後十日分の予定表が並べられている。
王妃陛下秘書官室からはミリア様。
外務儀典局からは局長代理。
第二王子府からは若い上級書記官。
日程室からはベネット卿と私。
王太子府からは、封緘された参考資料のみ。
人は来ない。
紙だけが来ている。
これもまた、昨日までとは違う。
「始めましょう」
ミリア様の声で、会議が動き出した。
「まず、王太子殿下の今後十日間の公務について。単独変更権限停止に伴い、すべての変更照会は三者確認へ回します」
「三者とは」
第二王子府の書記官が確認する。
「王妃陛下秘書官室、外務儀典局、会計監査室です」
ミリア様が答えた。
「ただし、国内儀礼のみで費用発生がないものについては、日程室が一次整理を行い、必要に応じて会計監査室へ回します」
私は筆を動かした。
国内儀礼。
費用発生なし。
日程室一次整理。
会計監査室必要時照会。
文字にしていくと、曖昧さが少しずつ消える。
「第二王子殿下については」
外務儀典局長代理が資料をめくる。
「隣国使節団対応において、王太子殿下の代替発言を求められる可能性がある」
第二王子府の書記官が頷いた。
「殿下は対応可能とのことです。ただし、事前に発言範囲を明確にしていただきたい」
「当然だ」
局長代理が言った。
「代替発言が恒常化すれば、継承順位に関する誤った観測を外へ与える」
その言葉で、部屋の空気が少し重くなった。
ユリウス殿下が有能であること。
王太子殿下が揺らいでいること。
隣国が見ていること。
すべてが、同じ線の上にある。
「では、第二王子殿下の役割は補助発言に限定します」
私は口を開いた。
全員の視線がこちらへ向く。
少しだけ喉が乾いた。
でも、言うべきことだった。
「主発言は、あくまで王太子殿下または外務儀典局長代理が担う。第二王子殿下は、王太子殿下の発言が未整理、あるいは通商・港湾の専門部分に触れた場合のみ補足する。記録上も『代替』ではなく『補足』とするべきかと存じます」
部屋が静かになった。
外務儀典局長代理が、じっと私を見る。
「理由は」
「代替と記録すれば、王太子殿下の職務不全を外へ示しすぎます。補足であれば、王族間の役割分担として処理できます」
「続けて」
「ただし、補足が多すぎれば、事実上の代替と見なされます。したがって、第二王子殿下の発言回数と分野を事前に制限し、会議後の記録で確認する必要があります」
第二王子府の書記官が、少しだけ目を見開いた。
「発言回数まで、ですか」
「はい」
私は頷いた。
「回数は印象になります。印象は、外交上の観測になります」
言いながら、ヴァルツ公爵の目を思い出した。
あの人は必ず見る。
誰が話すか。
何回話すか。
誰が黙るか。
誰が補うか。
沈黙にすら、意味を見つける人だ。
局長代理が、わずかに口元を歪めた。
「妥当だ」
ミリア様も頷く。
「記録上は『第二王子殿下による専門補足』とします。回数は」
「一会合につき三回まで」
私は答えた。
「三回を超える場合、外務儀典局長代理が一度受けてから整理する形がよいかと」
「よろしい」
局長代理が短く言った。
「採用する」
採用。
その言葉が、胸に静かに落ちた。
嬉しいというより、背筋が伸びる。
言ったからには、責任が生まれる。
「次に、王太子殿下の私的導線について」
ミリア様が資料を開いた。
「私的接触禁止に伴い、クラウゼン嬢との偶発接触も避けます」
私の名が出た。
けれど、声は揺れなかった。
「同じ建物内での導線重複を避けるため、日程室側で午前と午後の移動帯を分けます」
「クラウゼン嬢」
ミリア様が私を見た。
「あなたの通常導線を提出できますか」
「はい。ただし、私から直接提出すると、私的接触回避のために自分の都合を優先したと見なされる可能性がございます」
ミリア様の目が、少しだけ細くなった。
「では、どうしますか」
「日程室全体の通常導線として提出します。私個人ではなく、職務者の移動経路として整理すれば、公私の混同を避けられます」
ベネット卿が頷いた。
「その形でよい」
ミリア様も静かに頷いた。
「では、日程室通常導線として本日中に提出を」
「承知いたしました」
私個人を守るための線。
けれど、私個人のためだけに引いてはいけない。
日程室の線として引く。
そうしなければ、また私の名前が、変な場所に置かれてしまう。
会議は正午前に終わった。
決定事項は多かった。
王太子殿下の変更権限停止中の照会手順。
第二王子殿下の補足発言範囲。
王族導線の重複回避。
日程室通常導線の提出。
外務儀典局への記録形式。
ひとつずつ、紙に落とされる。
会議室を出る前、廊下側の扉が静かに開いた。
若い書記官が身を引き、その後ろからユリウス殿下が姿を見せた。
予定外ではない。
第二王子府の書記官が、すぐに一礼する。
「殿下」
「長居はしません」
ユリウス殿下は穏やかに言った。
「今朝の確認内容について、直接一言だけお伝えしたかったのです」
外務儀典局長代理が頷く。
「短時間であれば」
ユリウス殿下は私へ視線を向けた。
「クラウゼン嬢」
「はい」
「昨夜の席次は、役に立ちました」
その言葉だけで、十分だった。
「恐れ入ります」
「兄上を守った、という意味ではありません」
ユリウス殿下は続けた。
「場を守ったのです。王家の席を、王家の役割として保った」
そこで、殿下はほんの少しだけ目を伏せた。
「私は、兄上の代わりに置かれることには慣れています」
思わず、息を止めた。
ユリウス殿下の声は穏やかだった。
けれど、その穏やかさの底に、長く沈めてきたものがあるのが分かった。
「けれど昨夜の席は、違いました。兄上の空白を埋めるためではなく、私自身の役割として置かれていた」
彼は顔を上げた。
「だから、礼を言うのはこちらです」
私は、昨日自分が予定表に書いた言葉を思い出した。
席は、人を縛るためだけではない。
人に、役割を思い出させるためにもある。
「今後、王族間の公務導線調整で、あなたに負担をかけることになると思います」
「職務であれば、対応いたします」
「ええ」
ユリウス殿下は、少しだけ笑った。
「その返答が聞きたかった」
頼まれることと、使われることは違う。
役割を渡されることと、押しつけられることも違う。
その違いを、私はまだ学んでいる途中だ。
ユリウス殿下が去った後、ベネット卿が低く言った。
「妙な顔をしている」
「そうでしょうか」
「ああ」
「……仕事を頼まれることが、怖くないと思いました」
ベネット卿は、少しだけ黙った。
「それはいい変化だ」
「はい」
「だが、怖くないからといって、全部受けるな」
その言葉は、いつものように硬かった。
けれど、不思議と突き放された気はしなかった。
私は、何度も全部受けてきた。
殿下の予定も。
殿下の言い訳も。
殿下の沈黙も。
誰かが困るなら、私が少し無理をすればいい。
そう思って、少しずつ自分の輪郭を削ってきた。
ベネット卿は、それを見ていたのだと思う。
叱っているのではない。
止めているのだ。
私がまた、自分から壊れに行かないように。
「……はい」
釘を刺すのが早い。
けれど、ありがたかった。
「クラウゼン嬢」
局長代理が、会議後に声をかけた。
「はい」
「先ほどの『回数は印象になる』という指摘は、外務儀典局でも使う」
「恐れ入ります」
「恐れる必要はない。良い指摘だ」
素直に褒められると、まだ少し困る。
私は礼をした。
「職務として申し上げました」
「それもよい」
局長代理は、手元の書類を軽く叩いた。
「ヴァルツ公爵への回答補足、午後二時までに出せるか」
「午前中の決定事項を反映したうえで、作成いたします」
「直接の言い回しは外務儀典局で整える。君は配置意図と導線上の根拠だけでいい」
「承知いたしました」
また、線が引かれる。
私が書く範囲。
外務儀典局が整える範囲。
それでいい。
全部を一人で背負う必要はない。
日程室に戻った時、ちょうど正午の鐘が鳴った。
私はノエルに日程室通常導線の整理を指示し、机の引き出しから文官用の携行食を取り出した。
昨日、上奏局の控え室で口にしたものと同じ、硬く焼かれた無塩の硬餅と、乾燥果実。
昼食というより、補給だった。
味を楽しむためではない。
午後からの書類作成に向けて、体力を切らさないためのもの。
私は予定表と会議記録をいったん革表紙の中へ収め、机の端へ寄せた。
それから指先を布で拭い、書類から十分に離れた場所で、硬い携行食を少しずつ口に運んだ。
乾いたものを噛んでいると、昨日の御前控え室を思い出す。
声の聞こえない扉。
震えていた書記官の指先。
私の名前が、職務欄へ戻された瞬間。
私は水を一口飲み、そこで席を立った。
硬餅の細かな粉が、指先や袖口に残っていれば、午後から触れる会議記録や王宮地図を汚す。
紙に挟まった屑は、ただの汚れではない。
湿気を吸い、虫を呼び、記録を傷める。
私は部屋の隅の水場で指先と口元を洗い、麻布で水気を完全に拭い取った。
袖口を確認し、携行食を包んでいた薄紙を閉じる。
自席へ戻ってから、机上を小さな刷毛で払った。
予定表の周囲。
羽根ペンの横。
王宮地図を広げる予定の場所。
屑は見当たらなかった。
それでも、確認したという事実が必要だった。
刷毛を持つ手が、少しだけ震えていた。
書類を汚さないため。
それは確かにそうだ。
けれど、それだけではない。
汚れた予定表を、何度も見てきた。
殿下の都合で書き換えられ、急な朱書きで埋められ、誰にも確認されないまま私の机に戻されてきた予定表。
滲んだインク。
乱れた線。
そのたびに、私の時間も、心も、同じように上書きされていった。
だから、怖いのだと思う。
ほんの少しでも雑に扱えば、またあの場所へ戻ってしまうような気がする。
誰かの都合を受け止めるための、余白だった頃の私へ。
私は、真っ白な机の上を見つめた。
ここは、私の職場だ。
私の境界線だ。
私は革表紙から会議記録を戻し、椅子に座り直す。
午後零時半。
午前中の会議記録を整理する。
第二王子殿下の補足発言は、一会合につき三回まで。
記録上は「代替」ではなく「専門補足」。
三回を超える場合、外務儀典局長代理が受けて整理。
午後一時。
ノエルから日程室通常導線の下書きを受け取った。
私は王宮地図と照合し、王太子殿下の移動帯と重なる場所を赤で囲む。
午前の東廊下。
午後の南回廊。
王妃秘書官室への搬送路。
外務儀典局との往復。
一つずつ確認していく。
これは私個人の逃げ道ではない。
日程室全体の業務導線だ。
その形にしなければ、公私の線がまた曖昧になる。
午後一時半。
通常導線の精査を終えた後、私はヴァルツ公爵への回答補足に取りかかった。
正式回答は外務儀典局が出す。
私は、配置意図の根拠だけを書く。
晩餐席次において、王太子殿下の左右に公的補助者を配置した理由。
第二王子殿下の発言を補足に限定した理由。
港湾管理官と東方商会代表の距離を調整した理由。
ヴァルツ公爵との私的接触導線を設けなかった理由。
最後の項目で、筆が少し止まった。
ヴァルツ公爵との私的接触導線。
そう書くと、ずいぶん直接的に見える。
私は言い換えた。
隣国公爵との会話は、外務儀典局長代理同席の公的儀典確認に限定。
理由。
発言内容が通商・王族人事・王宮令運用に及ぶ可能性があり、単独職員による応答は不適切であるため。
これならよい。
私の感情ではない。
公的理由だ。
「クラウゼン様」
ノエルが地図を持ってきた。
「日程室通常導線の下書きです」
「ありがとうございます」
私は補足資料と地図を並べて見た。
予定表。
席次表。
導線図。
どれも、人を動かす紙だ。
でも、人を縛るだけのものではない。
迷わないようにするためのものでもある。
午後二時。
外務儀典局へ回答補足を送った。
午後二時半。
王妃秘書官室へ日程室通常導線の下書きを回した。
午後三時。
第二王子府から、午前の会議内容について確認の返書が届いた。
形式は整っている。
感謝の言葉は短い。
余計な情緒はない。
けれど、最後に一文だけあった。
第二王子殿下より、発言回数制限について了承とのこと。
自覚しておくべき数字があるのは、ありがたい。
私は、その一文をしばらく見つめた。
役割を持つ人は、自分を制限する線を嫌がらないことがある。
それは、信頼できることなのかもしれない。
夕刻が近づいた頃、王太子府から封書が届いた。
王太子府の印。
私は、すぐに開けなかった。
「ベネット卿」
「見せなさい」
彼は封を確認し、差出部署と受付印を見た。
「正式照会だ。開けてよい」
私は封を切った。
内容は短かった。
王太子殿下の明後日の慈善院視察について。
従来、クラウゼン嬢が作成していた挨拶順および贈答品一覧の過去書式を参照したい。
可能であれば、最新版の提出を願う。
私は読み終え、紙を机に置いた。
従来、クラウゼン嬢が作成していた。
その文字が、少しだけ胸に引っかかった。
「どう処理する」
ベネット卿が尋ねる。
私は少し考えた。
「過去書式の参照は可能です。ただし、最新版の作成において、贈答品の費用発生、および挨拶順の変更は王太子殿下の公務に該当します」
「続けて」
「昨日下された国王陛下裁可、ならびに午前中の決定手順に基づき、王太子府単独の照会では確定できません。王太子府、会計監査室、外務儀典局による公式な三者確認手続きを要求します」
「慈善院は」
「照会先であり、確認資料の提出先です。決定主体ではありません」
ベネット卿は頷いた。
「よろしい。返答を書きなさい」
私は羽根ペンを取った。
王太子府宛て。
過去書式の閲覧は、日程室保管規定に基づき、写しの貸出にて対応可能。
ただし、国王陛下裁可第六条、私的接触禁止令の執行に伴い、本件に関する書類の引き渡し、および照会窓口は、日程室職員ノエルを指定担当者とする。
主任調整官代理リディア・クラウゼンへの直接の接触、ならびに書類の直接提出、直接受領は、これを禁ずる。
最新版作成における贈答品費用の発生、および挨拶順の変更については、国王陛下裁可第一条に基づき、王太子府、会計監査室、外務儀典局による公式な三者確認手続きを要求する。
慈善院へは、必要事項の照会および受領可能品目の確認を行うこと。
贈答品費用の負担元、すなわち王太子殿下私費枠か王太子府儀典費かを明記のうえ、正規の回議書を回されたし。
以上。
署名。
王宮儀典日程室。
主任調整官代理。
リディア・クラウゼン。
書き終えたあと、少しだけ不思議な気持ちになった。
王太子府に返事を書いた。
でも、殿下宛てではない。
私的な言葉はない。
謝罪も、慰めも、説明もない。
それどころか、私自身への接触経路を、私自身の署名で閉じた。
リディア、という個人への道を塞ぐ。
残すのは、主任調整官代理としての職責だけ。
ただ、手続きだけがある。
「送ります」
「待て」
ベネット卿が言った。
私は顔を上げた。
「指定担当者をノエルにするなら、本人に確認を取る」
当然だった。
私は、また少し急いでいたのかもしれない。
「失礼いたしました」
ベネット卿はノエルを呼んだ。
ノエルはすぐに戻ってきた。
「お呼びでしょうか」
「王太子府との書類受け渡し窓口として、君を指定する。職務として受けるか」
ノエルは一瞬、目を丸くした。
けれど、すぐに背筋を伸ばした。
「お受けいたします」
「王太子府側から、主任調整官代理への伝言、私信、口頭連絡を預かることは禁ずる。書類は受付印のあるものだけを受ける。封緘されていないものは受け取るな。私的文言が混入している場合は、未受理として王妃陛下秘書官室へ回す」
「承知いたしました」
「よろしい」
ベネット卿は、私を見た。
「これで送れ」
「はい」
ノエルが封をして、外へ出ていく。
私は、その背中を見送った。
かつてなら、私は最新版まで作っていただろう。
慈善院の好みを調べ、贈答品を選び、殿下が読みやすい挨拶文まで整えたかもしれない。
そして、殿下はそれを当然のように持っていった。
でも、今日は違う。
過去書式は貸す。
最新版は、手続きで作る。
受け渡しは、指定担当者を通す。
私はもう、殿下の不足分を埋めるための余白ではない。
夕刻の鐘が鳴った。
私は予定表を開いた。
職務表写し、外務儀典局へ共有。
王族間公務導線、初回確認。
第二王子殿下補足発言範囲、暫定決定。
日程室通常導線、王妃秘書官室へ提出。
ヴァルツ公爵照会、外務儀典局へ補足提出。
王太子府照会、指定窓口を設定し返答。
その横に、一つずつ印をつける。
完了。
完了。
完了。
最後に、私は少しだけ迷ってから、余白に一行書いた。
中心を変えると、同じ予定表でも景色が変わる。
羽根ペンを置いた。
窓の外では、夕暮れの光が薄く伸びている。
昨日と同じ王宮。
同じ廊下。
同じ机。
けれど、今日の予定表は、もう殿下だけのものではなかった。
そして、私の名前も。
もう、誰かの隣に置かれるだけのものではなかった。