作品タイトル不明
第385話:侵略と、宴
アパートに帰宅し、手洗いうがいを済ませる。
さて、夕食の準備でもしようかと思っていると、凛が今日買ったばかりの春服が入った紙袋を抱え、トコトコと俺の寝室へと向かっていった。
「……ん? 凛、自分の部屋に戻らないのか?」
「え? 買ってきたお洋服、クローゼットにしまうの」
カチャリと寝室の扉を開け、凛はさも当然のように俺の部屋のクローゼットを開け放った。
そして、色とりどりの春服を丁寧にハンガーにかけ、俺の服の隣へと並べ始めたのだ。
「いやいや、ちょっと待て。なんで当然のようにうちのクローゼットにしまってるんだ?」
俺がたまらずツッコミを入れると、凛はハンガーを持ったまま、きょとんとした顔で振り返った。
「だって、お休みの日に一緒にお出かけする時は、ここで着替えたいし。それに……私の部屋のクローゼットにしまうより、朝陽くんの服の隣に並べておいた方が、お洋服も寂しくないでしょ?」
「服は寂しがらないだろ……。要するに、俺のクローゼットを侵略したいと」
「侵略じゃないもん。今日家具屋さんで約束した、お引っ越しの事前準備だよ。……ダメ、かな?」
上目遣いで、ふるふると首を傾げる凛。
昼間の「一緒に住もう」という約束を盾にされ、さらにこんなに可愛い顔でおねだりされては、俺に勝ち目などあるはずがなかった。
「……はぁ。わかったよ。凛の服のスペース、ちゃんと空けておくから」
「えへへ、ありがとう! 朝陽くん大好きっ」
俺の服と凛の服が、半分ずつ仲良く並んだクローゼット。
すっかり彼女のマーキングが完了してしまった自室を見渡しつつ、俺は幸せな苦笑いを浮かべながら、エプロンをつけてキッチンに立った。
「よし、まずはメインディッシュの準備だな」
俺は凜の部屋の冷凍庫のスペースを陣取っていた巨大な箱を取り出した。
中には、おじいちゃんが持たせてくれた極太のタラバガニの足が、丸々一匹分ギッシリと詰まっている。
すでにボイルされているタイプなので、シンクに大きなボウルを置き、水を少しずつ当てながらの流水解凍を始める。
「うわぁ……やっぱりすっごく大きいね」
キッチンを覗き込んできた凛が、瞳を丸くした。
「これでも一部だからな。……あー、でも贅沢を言えば、七輪で炭火焼きにして食べたいなー」
「七輪? 焼くと美味しいの?」
「とんでもなく美味いよ。炭火で炙ると香ばしさが段違いだし、カニの甘みがギュッと凝縮されるんだ。……でも、流石にこのアパートじゃ煙が出すぎて焼けないんだけどな」
俺が少しだけ残念そうに笑うと、凛は「そっかぁ」と名残惜しそうにカニを見つめた。
「まあ、ないものねだりしてもしょうがないし、そのままでも十分すぎるくらい美味いから安心してくれ」
「うんっ! もし将来、庭付きの一軒家とか広いベランダがある所に住んだら、七輪で焼いてみようね」
「ははっ、そうだな。でも、こんないいカニなんて、大人にならないとそうそう食べられないぞ」
そんな未来の贅沢な悩みを語り合いながら、俺たちは顔を見合わせてふわりと微笑み合った。
カニの解凍には1時間ほどかかる。
「……じゃあ私、カニが解凍できるまで、自分の部屋で少しだけお仕事進めてくるね」
「おう。俺はおせちの準備とかあるから、今日は『ソファ』になれなくて悪いな」
「ううん、大丈夫。……ちょっと待ってて」
凛はパタパタと小走りで俺のベッドルームへ向かうと、数秒後、大きな物体を抱き抱えて戻ってきた。
それは、俺の着古したパーカーを着せられた『抱き枕』だった。
「……ちょっとの時間だけなら、これがあればなんとか持つと思うから」
「……お、おう。いってらっしゃい」
俺の匂いが染み付いた代役(抱き枕)をギュッと抱きしめ、真剣な顔で自分の部屋へと戻っていく凛。
(あれ、本当に効果あるのかな……)と俺は苦笑しつつ、カニの解凍と並行して、冷蔵庫からおせち料理の残りを取り出し、食卓の準備を進めた。
約1時間後。
「今日のノルマ、終わったよー!」
カニの解凍が終わり、お皿の準備が整った頃。
示し合わせたかのように、凛がパタパタとリビングに帰ってきた。
俺の匂いがする抱き枕の効果で、バッチリ集中できたらしい。
「お疲れ様。こっちも準備できたぞ。今日は宴だからな!」
食卓の真ん中には、見事に解凍されてツヤツヤと赤く輝く、極太のタラバガニ。
その周囲には、彩り豊かなおせちの残り――サーモンナムル、おばあ様が作ったの豚の角煮、紅白かまぼこ、そして伊達巻がズラリと並んでいる。
「わぁぁ……! 豪華すぎる……っ!」
「さあ、冷たくて美味しいうちに食べようぜ。いただきます」
「いただきます!」
俺はキッチンバサミで極太の殻に切れ目を入れ、パカッと割って中の身を綺麗に取り出す。
ずっしりと重いカニの身を、そのまま凛の口元へと運んだ。
「ほら、あーん」
「あーん……ぱくっ。…………っ!!」
一口で頬張った瞬間、凛の琥珀色の瞳が見開かれ、幸せそうにトロンと蕩けた。
「すっ、すっごく甘い……! 身がプリプリしてて、口の中がいっぱいになるよぉ……」
「だろ? さすがタラバだな。食べ応えがすごい」
俺も自分の分の身を頬張る。
噛むたびにジュワッと溢れ出す、濃厚で上品な海の甘み。
カニの繊維がほどけ、旨味が口の中を支配していく。
「カニばっかりだと味が単調になるけど、このかまぼこが良い箸休めになるね」
「ああ、さっぱりしてるからな。サーモンナムルもつまみながらだと、無限にカニが食えそうだ。角煮のボリュームもいい感じだし」
「伊達巻も、お出汁が効いててふんわり甘くて美味しい……っ」
極上のタラバガニと、色とりどりのおせち料理。
俺たちは時間を忘れて、豪華絢爛な夜の宴を心ゆくまで満喫したのだった。
宴とお風呂を終え、夜も更けた頃。
今日は土曜日なので、約束通り、俺の部屋のベッドで二人一緒に横になる。
部屋の電気を消し、一つの温かい布団の中でぴったりと体を寄せ合った。
「……朝陽くん」
静かな暗闇の中、凛が俺の胸にすりすりと額を擦り付けながら、甘い声でポツリと話し始めた。
「ん? どうした?」
「……今日の昼間、家具屋さんでさ。朝陽くんから一緒に住もうって言ってくれたの。……すっごく、すっごく嬉しかった」
普段は俺のペースに巻き込まれがちな彼女が、今日は自分から、その細い腕を俺の背中に回し、ギュッと抱きついてくる。
「私ね、朝陽くんと一緒に住む部屋のこと、ずっと考えてたの。それでね……将来一緒に住むなら、ベッドはクイーンサイズがいいな」
「クイーンサイズ?」
「うん。すごく大きくて広いベッド。……でも、どんなにベッドが広くても、今日みたいに、ずっと朝陽くんの隣でくっついて寝るの」
冗談めかしているようで、その声には一切の嘘も照れ隠しもなかった。
真っ直ぐで、重たくて、どうしようもなく愛おしい彼女の想い。
「……ははっ、そっか。クイーンサイズのベッドに置けるくらい大きな部屋に住まないとな。俺も仕事、頑張らないとな」
「ふふっ……私も、いっぱいイラスト描いて稼ぐね。だから……ずっと、一緒にいてね」
シャンプーの甘い香りと、柔らかな体温。
これ以上ないほどの多幸感と、確かな未来の約束の余韻に包まれながら。
俺たちはどちらからともなく額を合わせ、穏やかで深い眠りへと落ちていった。