作品タイトル不明
第380話:七草粥の願いと、翌朝の筋肉痛
「……うん、ネットだとよくわからないね!」
「そうだな、やっぱり実際に見ないとだな…。さて、それじゃあ晩ご飯にするか。昨日約束した通り、今日は七草粥だぞ」
キッチンに立ち、土鍋でコトコトとお粥を炊く。
大根やカブなどの七草を細かく刻み、昆布と鰹で丁寧に引いたお出汁と一緒に煮込んでいく。
胃に優しいように、おかずは出汁巻き卵と、白身魚のふんわりとしたみぞれ煮を用意した。
「わぁ……すっごくいい匂い……」
テーブルに並べられた土鍋の蓋を開けると、ふわぁっと優しい湯気と香りが部屋いっぱいに広がった。
「いただきます。……んん〜、……美味しいっ」
ふーふーと息を吹きかけながらお粥を口に運んだ凛の顔が、とろけるように綻んでいく。
お正月のご馳走続きで少し疲れていた胃腸に、優しい味わいがじんわりと染み込んでいくのを感じながら、俺はふと口を開いた。
「よかった。少しは胃が休まりそうか?」
「うん。すごくホッとする味。……そういえば、なんで正月終わりに七草粥を食べるのかな? やっぱり胃を休めるため?」
「それもあるけど、一番は『一年の無病息災』を願うって意味が込められてるんだよ」
「むびょうそくさい?」
「ああ。せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ。早春に一番早く芽吹く七草の強い生命力を取り入れて、邪気を祓うんだ。今年も一年、病気せずに健康で過ごせますようにって願いを込めて食べるんだよ」
俺がオカンっぷりを発揮して七草の由来を解説すると、凛は感心したように琥珀色の瞳をパチクリと瞬かせた。
そして、レンゲに乗せたお粥をもう一口ぱくりと食べると、ふにゃりと柔らかい笑顔を浮かべた。
「……そっか。朝陽くんは、私が健康でいられるようにって作ってくれたんだね」
「ま、まあ、そういうことだな」
「ふふっ。でもね、七草の力がなくても……私は、朝陽くんのご飯を毎日食べてたら、絶対に病気になんてならない気がするな」
「おいおい、俺の料理にそんな魔法みたいな力はないぞ」
「あるよ。だって、いつも私の健康を一番に考えて、こんなに美味しく作ってくれてるんだもん。それが一番のお薬だよね」
無自覚で真っ直ぐな好意を向けられ、俺はたまらず顔を逸らして「……冷めないうちに食えよ」と誤魔化すことしかできなかった。
食後のお風呂を済ませた後。
長時間、液タブに向かって座りっぱなしだった凛のために、俺はストレッチとマッサージをする。
「ほら、力抜いて。もっと肩甲骨を開くように……そう、そこ」
「あたたた……でも、痛気持ちいい……」
「次は肩と背中揉むぞ。やっぱり結構張ってるな」
ソファの前に座る凛の後ろに回り、凝り固まった肩や背中の筋肉を親指でグッとほぐしていく。
「あぁ〜……そこ、すっごく気持ちいい……」
完全に蕩けきった声を出して、凛はだらんと体を預けてきた。
彼女がこうしてリラックスして心地よさそうにしてくれるのが、俺にとっても何より嬉しい。
「よし、こんなもんかな。……それじゃあ、着替えて凜の部屋に行こうか」
「うんっ!」
俺たちは、お揃いのもこもこパジャマに着替え、二人で隣にある凛の部屋へと移動した。
「お邪魔します」
「どうぞー。私の部屋にようこそ」
いつも行き来している部屋とはいえ、これからここで一緒に寝ると思うと、なんだか少しだけ新鮮な気分だ。
まだ少し眠るには早い時間だったので、俺たちはテレビをBGM代わりに小さくつけ、凛のベッドの上に並んで座った。
一つの毛布を二人で被り、ぴったりと肩を寄せ合いながらスマホの画面を覗き込む。
「このローソファ、良さそうじゃない?」
「お、いいなこれ。二人で座っても十分な広さがあるし。でも、生地が堅そうな印象だな…」
「確かに。やっぱり見に行かないとわからないね!」
「そうだな」
昼間に話していた『2人用ソファ』を見ていると、凛は嬉しそうに俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。
良い時間になり、テレビを消して就寝の準備をする。
今夜は、実家でも俺の部屋でもなく、凛の部屋のベッドに二人で横になる。
「……なんか、ちょっと緊張するな」
暗闇の中、シーツや枕からふわりと香る、凛の部屋特有の甘くて女の子らしい匂い。
いつも彼女の髪から匂っているのと同じシャンプーの香りだが、こうして彼女のパーソナルスペースであるベッドの中だと、破壊力がまるで違う。
俺の心臓は、静かに、けれど確かにドキドキと早鐘を打っていた。
すると、隣で寝転がっていた凛が、コロンと俺に背中を向けるように寝返りを打った。
「……朝陽くん」
「ん? どうした?」
暗闇の中、凛がもぞもぞと俺の方へ後ずさりし、自分の背中を俺の胸にぴたりとくっつけてきた。
「……昼間みたいに、後ろからぎゅってして?」
「えっ」
「後ろから抱きしめられるの……すっごく安心するから。このまま、寝たい……」
少し甘えたような、おねだりする声。
どうやら昼間の「人間ソファ」の密着感が、彼女の中ですっかりお気に入りになってしまったらしい。
「……仕方ないな」
俺は照れ隠しに小さくため息をつくフリをして、彼女の細い腰にそっと腕を回し、後ろから優しく抱き寄せた。
腕の中にすっぽりと収まる、もこもこパジャマ越しの柔らかい温もり。
「えへへ……あったかい……おやすみなさい、朝陽くん」
「ああ、おやすみ。凛」
俺の腕の中で幸せそうに目を閉じた彼女の寝息を聞きながら、俺もまた、世界で一番甘くて安心する温もりの中で深い眠りへと落ちていった。
「……んん……朝、か……」
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日で、俺はゆっくりと目を覚ました。
まだ俺の腕の中には、幸せそうにすやすやと眠る凛の姿がある。
「さて、起きるか……っと」
体を起こそうと、お腹に力を入れた、その瞬間。
「……痛っ!?」
ピキッという痛みが走り、俺は思わず小さな声を漏らした。
案の定、である。
昨日、数時間にわたって『人間ソファ』として彼女の体重を支え続けた俺の腹筋は、しっかりと見事な筋肉痛になっていたのだ。
「いっったぁ……嘘だろ……」
情けなくお腹を押さえながら苦悶の表情を浮かべる俺の腕の中で、凛が「んふふ……」と寝言を漏らしながら、すりすりと俺の胸に顔を擦り付けてきた。
(……今日もまた、俺はソファにされるのだろうか)
そんな一抹の不安と、けれどそれ以上の『幸せな予感』を噛み締めながら。
俺は痛むお腹を庇いつつ、愛おしい彼女の漆黒の髪を優しく撫で、穏やかな朝の光の中で静かに微笑んだ。